第三章 君の心に道化がある限り #1

 朝、目が覚めると、黒野の黒い瞳が僕の目を覗き込んでいた。それも、鼻がぶつかりそうなくらいの直近で。

「……何してるの?」

「見てる」

「こんな近い必要ある?」

「近い方がよく見える」

「それもそうか……」

 寝起きで頭が回らず、僕は身を起こした。黒野は僕の横で寝そべったまま、僕の顔を眠そうな眼で見上げてくる。ここのところの黒野は、ずっと僕の部屋に入り浸りで僕のベッドを占領し続けている。そして、夜になるとこうして、僕の布団の中にもぞもぞ潜り込んでくるのだった。

 僕は枕元のスマホを見た。今日は県大会前日の朝七時半。明日は超朝型の母並に早く起きなきゃいけないと考えると憂鬱だった。

 とにもかくにも僕は立ち上がる。すると、なんだか腰の辺りが重くなった。

「や!」

 見ると、黒野がしがみついてきていた。ことに最近は甘えぶりがすごい。引き剥がすのも可哀想なので、浮かしかけた尻を布団に落ち着けると、黒野はぐいぐいと身体を寄せてきて、僕の脚の上にごろんと仰向けになる。すごい甘えたがりだな。僕は半ば呆れながら、お腹を撫でてやった。黒セーラーが衣擦れの音を出す。黒野はそうそうそれそれ、とばかりに目をつむって身体を伸ばした。

「なんか……前よりもずっと痩せたよね。大丈夫?」

 お腹を触っても、ほんの薄皮しかないように感じる。本当にお腹と背中がくっついているみたいで心配になる。でも、黒野はうっとりするばかりで、なんとも答えない。ちょっと寂しかった。

「……支度しなきゃだから、ごめんね」

 やがて、僕がそう言って黒野を脚の上から下ろすと、布団の上をごろんと転がってから、びっくりしたような顔をして「や!」とまた追いすがってくる。僕はなんだかめちゃくちゃ酷いことをした気分になった──けど、騙されてはいけない。僕は心を鬼にして、ぎゅっと腰に張り付いてきた黒野を、袴の裾みたいに引きずって部屋の外に出た。

「……うぅぅう」

 部屋の外には出たくないのか、黒野は悲しそうな声を漏らして僕から離れると、部屋に引っ込み、ドア越しにつぶらな目線をぶつけてくる。僕は胸が痛くなった。

「ごめんって……あ、そうだ、一緒に朝ご飯食べようよ」

「……いらない」

 黒野はしょんぼりと言うと、タオルケットに潜り込んでいった。そんなに好いてくれているのはありがたいが、いちいちそんな態度を取られてしまうとこちらのハートが持たない。世の中の飼い主たちはどうしているのだろうか──いやいやいや、猫じゃないんだから、と僕は慌てて思い直した。そっちの方が問題、という問題は置いておく。

 僕は居間に行って、見もしない朝のニュースを流しながら二人分の朝食を平らげると、トランペットをひっさげて家を出た。学校に着いたら部活に励む。コンクール前日なので、ピリッとした空気だった。とにかく最高の演奏をしよう、ということで、合わせを中心に課題曲と自由曲の出来を詰めていく。練習は昼過ぎに終了。午後は明日のために調子を整えろ、とのこと。華礼によるソロレッスンはない。昨日、詰め尽くしたのであとはやるだけだ。

 部活の後、僕は楽器を持って、ジムへと向かう。そこで僕は重い器具を持ち上げたり、ランニングマシンで走ったりして、父の分までカロリーを消費する。こうしないと僕の調子が整わないのだから仕方がない。

 この先、どうなるのだろうか、と、僕は走りながら思う。少なくとも、明日のコンクールが終われば、部活の区切りはつく。三年生が引退して次期体制に入り、僕はパートリーダーになるが、まあ、安藤も戻ってきたし心配はしていない。華礼は留学に行ってしまう。思い出とか音楽とか(女の子のタイプとか)、いろんなものを僕にくれた人の門出なので、嬉しくもあるけど寂しさの方が優っていた。

 明後日のコンクールといえば──黒野はどうするつもりなんだろう。コンクールが終われば、僕がソロを吹くこともなくなる。もしかしたら一生、機会はないかも知れない。それでも、僕と居続けてくれるのだろうか。黒野は猫だかなんだかよくわからないところがあるから、何も言わずにいなくなってしまいそうで心配だった。でも、そういえばタンポポが咲くのを見る、という約束をしたんだ。タンポポに限らず、桜とかバラとかアジサイとか、チューリップとかパンジーとかヒヤシンスとか、もうとにかくいろいろ見に行こう。

 疲労困憊で頭の中がお花畑になってきた。僕はよろめくようにランニングマシンから降りた。

 シャワーを浴びながら、僕は深呼吸をする。

 これから大仕事が待っている。母を僕の出場するコンクールに招待する。そして、父の思い出の曲を聴いてもらう。

 父が死んでから、母は吹奏楽を避けるようになった。おそらく、父との記憶の結びつきが強いからだと思う。以前もマーチングバンドの演奏が聞こえてきただけで、テレビを消してしまっているのを見た。そのせいか、地区大会に呼んだ時はやんわりと断られてしまった。

 しかし、次は恐らく今年最後の演奏になる。出場順は母の得意な朝方トップだし、僕がソロをやるとなれば──母が僕のことを大切に思ってくれているなら、来てくれると思う。そう信じているはずなのに、県大前日の今日までずるずると引き延ばしてしまっていた。

 大丈夫、大丈夫、きっと、来てくれる──そう言い聞かせながらシャワーを出た。

 その後、僕はロッカーを開く。ロッカーの隅っこに「啓蒙の杖」こと、マンホールオープナーが忘れられたように立てかけられている。実際、最近はこの瞬間までこの棒のことは忘れている。黒野が僕の部屋に居座るようになってから、僕は下水道にアクセスしていない。クラウン氏は相変わらず、ひとりで『ツァラトゥストラ』を読んでいるのだろうか。カビだらけになったりはしないんだろうか。僕はそんな様子を思い浮かべながら、何となく荷物と一緒に「啓蒙の杖」も回収してロッカーの扉を閉じた。

 ジムの入っている建物を出ると、近くのベンチになんだか見覚えのある人が座っているような気がした。そんな予感に引かれるようにそちらを見ていると、その人が顔を上げて「やあ、お疲れ」と声をかけてきた。僕は驚いた。

「叔父さん……どうしてここに?」

「……ちょっと、都月に話があってね。部活のスケジュールは華礼から聞いてて、今の時間ならここにいるだろうと」

 叔父さんはいつになく、思い詰めた顔をしていた。にわかに心臓が高く脈打つ。

「しかし、外は暑くてたまらないな。どこか入ろう」


 僕と叔父さんは、ちょうど近くにあったチェーンのカフェに入った。なるべく奥まった席をとって待っていると、叔父さんがアイスコーヒーが二つ載った盆を持って来た。

「その、どうして今日は突然」

 叔父さんが席に着くや、すぐさま僕は訊ねる。叔父さんは「いやあ」と言い淀んで、コーヒーをブラックのまま一口飲む。

「さっきも言ったけど……どうしても話しておかなくちゃいけないことがあってね」

「前、華礼が来た時、叔父さんは迎えに来なかったけど、何か関係ある?」

「鋭いな。実はそうなんだ」

 叔父さんは机の上で手を組むと、俯きがちに僕を見て言った。

「実は──俺は来週には、単身赴任で東南アジアの方に飛ぶことになった。前、顔を見せられなかったのは、引き継ぎだとかで調整でゴタついてたからなんだ。お盆休みも返上さ」

「ええっ! そんな急に……どれくらいの期間?」

 僕は驚いて、ミルクを入れようとしていた手元が狂った。机に白色の花が咲く。

「わからない。プロジェクトの進捗にもよるけど二年以上は確定だね」

 叔父さんはわざわざ、自分の懐からハンカチを取り出して、その白い花を拭い取った。僕は呆然と、その動作を見つめてしまう。

「そんなに……」

「できれば大会の後に伝えたかったんだが、今を逃すと顔を合わさないで日本を発つことになるところだったんだ。こんなギリギリのタイミングで許してくれ」

 叔父さんは頭を下げた。僕はいまいち事情が呑み込めていなかったが、やがて、叔父さんも華礼も、僕の心の支えになっていた人たちが周りからいなくなってしまうのだと気がついて、腹の底からぞわぞわ悪寒が湧き上がってくるのを感じた。

「そんな……僕は、叔父さんしか頼れる人がいないのにどうすればいいの」

「一応、海外からでも都月の金銭面でのサポートはできるようにする。ただ、急病だとか事故だとかいう不慮のことが起きた時は難しい。俺の妻はそういう対応に不得手だから、俺の義理の兄か、また別の親戚に頼らないといけないかも知れない」

 僕は父が死んだ時のゴタゴタを思い出す。叔父さんは弁護士の手配から、加害者との交渉まで全てを請け負ってくれた。叔父さんがいなかったらどうなっていただろう。事情をわかったようなわかっていないような他の親戚たちと、ことにあたっていたら──それこそ僕は、吹奏楽なんてやっている余裕はなかったかも知れない。

 僕は今更、不慮のことなど起きない、などと楽観視することができない。

 叔父さんがいない間、似たようなことが起こったらどうなる……? 例えば、音信不通の兄が、突然裁判沙汰になったと連絡してきたり、母が衝動的に自殺をしてしまったりだとかしたら──。

 僕しかいない。何にもわかっていない僕がどうにかするしかないのだ。

 その恐怖に僕は震えた。

「そんな……行かないでよ……」

 僕は思わず、子供のように言ってしまった。叔父さんは心底、苦しそうに息を吐く。

「仕方ないんだ。華礼の音大の授業料とか留学費を賄ったり、都月の家の支援を考えると、少しでも収入が欲しい。昇進の見込める今回のプロジェクトは引き受けざるを得なかった」

 僕ははっとする。そうか。僕たちの家の心配までしてくれているんだ。

 僕はいかに高校生という身分がいろいろなものに守られているのかと知った。

「……わかった。ごめん、変なことを言って」

「都月の心配もわかるよ。俺も姫子さんをあのままで置いていくのは心残りだ。でも、こうしないと家族を守れない。不安だろうけど……辛抱してくれ」

 再び頭を下げる。僕はこの人がどれだけのものを背負っているのか、想像もつかなかった。

 それから、叔父さんは鞄から封筒を取り出して、僕に渡した。

「一応、君に兄貴に関連する書類を渡しておく。万が一、何かのサービスの請求が兄貴宛に来たら、これで死亡を証明して解約できる。まあ、全部俺が解約したつもりだけどな」

「ありがとう……」

 中を確認すると、書類の他にお金も入っていた。それが叔父さんからの手切れ金に見えて、僕は涙が出そうになった。

 伯母さんも、父も、兄も、華礼も、叔父さんもいなくなった僕に残されたのは、現実を受け入れることのできていない母だけだった。

 僕は──なんとしても母には戻ってきて欲しい、と強く思った。

「大事な時期こんな話をして悪かった。家まで送っていくよ」

「うん……」

 僕は好意に甘えて、家まで車に乗せていってもらうことにした。今後しばらく、この車に乗ることもないのだと考えると、僕はもう一人の父を失うような気分になった。

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