第一章 生きるっていうのはカロリーを消費することだ #3

 ソロ奏者としてのレッスンを終えて、僕は練習室の鍵を戻しに職員室へ向かった。

 そこで、同じトランペットパートで唯一同学年の女子、安藤あんどうが、おしゃれなパーマに見えて実はくせっ毛な髪の先をいじりながら出てくるところにばったり出くわした。お互いに口をぽかんと開けて、顔を見合わせる。

「あ」

「あ……なんでまだいんの──あぁ、ソロ練か……」

 安藤は髪をかき上げて、決まり悪そうに言った。僕たちの間は微妙な感じだった。職員室に詰めている教員の数は少なく、僕は安藤が顧問の弘前先生と話していたのだと、すぐに察してしまった。

「何話してたの」

 僕は、顧問と長話をしていた部員がその後どうするのか、経験上知っていた。なのに、とぼけて訊いた。安藤は、はぁ、と疲れたような溜め息を吐いた。

「わかるでしょ。部活辞める。県大まではいるけど」

 察していたはずなのに、僕はショックを受けた。

「……僕のせい?」

「うぬぼれんな。伊庭なんて──半分くらいだけ」

 ストレートに心に来た。半分かよ。まるきり僕に関係ないか、或いは全部僕が悪いか、どっちかが良かった。半分が一番キツい。

「もう半分は?」

 僕はそのショックを少しでも和らげようと思って質問を重ねた。

「ショック和らげようとしてる?」

 見抜かれていた。僕が押し黙ると、安藤は韜晦するようにふっと笑った。

「まあ、伊庭だって、私がいない方がいいでしょ。地区大終わった今でも伊庭がソロやること、根に持ってるんだから」

 僕は言葉に詰まる。微妙な空気が流れた。

 実は、華礼の妄想は遠からず当たっていた。ただ、安藤の怒りのツボは先輩への愛着というものではない。実力的な問題で、僕はふさわしくないと噛み付いてきたのだ。安藤は中学生の頃から楽器をやっていて、ガチ勢というわけではないけど、最善は尽くそうというタイプだった。

 それでも、僕にも譲れない理由があった。結局、先輩は僕にソロを譲り、安藤は部活を休みがちになった。その結果が今、というわけで。

「……考え直してよ。安藤いないと、ペットの二年僕だけになるだろ。ひとりで後輩引っ張るなんて出来る気がしない」

 実際、安藤の方が僕よりもうまいのだ。いなくなられると困る。情けなさ全開に引き留めると、安藤はまた笑った。

「こんな時でも自分のことしか考えない……もう、いいや。愛想尽きたよ。貴重な高校生活一年、もうベットする気にはなれない」

 安藤はきっぱりと言い切る。ただ、僕はその言い方に引っかかりを覚えた。まるで誰かからの受け売りを、納得もしていないのに口にしているみたいだった。

 でも、僕がそう感じたいただけなのかも知れないと思うと、それ以上、何も言うことはできなかった。

「そう……それで、辞めて何するの」

「赤ちゃんの面倒見る」

「は?」

 あんまりにも予想しなかった言葉が飛んできて、脳がフリーズした。突然、どこからやってきたんだ、赤ちゃん。呆然とする僕に、安藤は「違うからね」と凄みの効いた顔をした。

「動物の赤ちゃんね……家にお金いれるために、ペットショップでバイトする」

 まるで刃物で突き刺すような言い方だった。それを突きつけることで寄ってくる人を威嚇して遠ざけたいような、そんな不穏な響きがあった。

「……そうなんだ、ペットショップなんだ」

「──まあ、面接、落ちて、ほか探してるとこ、だけど」

「……世知辛いね」

「……」

 安藤は黙って俯いた。僕にはそれ以上、かける言葉はなかった。


 安藤となし崩し的に別れて、下駄箱にとぼとぼ歩いて行くと、華礼がスマホを見ながら待っていた。金髪だし、私服だし、堂々スマホ使用だし、大学生としての自由を見せつけすぎだ。

「やっと来た……お父さんが車で来てるよ。いつもの様子見」

 僕が来るのに気づいた華礼は言った。送迎は華礼がコーチで来ている日では恒例のことだ。僕はうなずいた。

 校舎を出ると、太陽がアスファルトをじりっと照りつけていた。今日も暑い日だった。明日も明後日も、きっとそうだろう。

 華礼は先週彼氏と別れただとか、部活内にそういうのないのとか、浮いた話をじゃんじゃん話してくる。僕はそれを適当にいなしながら歩いていき、駐車場に駐められた叔父さんの車まで辿り着いた。ドアを開くと車特有のあの匂いが、エアコンの風に乗って顔にぶちあたる。

「やあ、お疲れ」

 叔父さんはペットボトルのコーヒーをちょうど飲んでいるところだった。僕は、この人がこの世で一番、ペットボトルのコーヒーが似合う人だと思っている。缶コーヒーでもなければ、コーラでもない。絶妙なおじさん加減の人だ。

「いつもどうも」

 僕は言いながら、華礼と後部座席に乗り込む。華礼はとっととスマホを出して画面を凝視する。特に文字を打ってる感じもしないし、何を見てるんだろう。メトロノームだろうか。

「都月、また痩せたかい?」

 車をスタートさせながら、叔父さんが訊いてきた。僕はワイシャツをまくって腹をつまんでみる。昔、肥やした時に伸びた皮が指にへばりついてきた。変化はよくわからなかった。

「どうだろう。体重はキープしてる」

「食べる量は相変わらずなんだろ?」

「うん」

「若さだね。俺が同じことやったら今頃、健康診断で大目玉だよ。ま、てことは、姫子ひめこさんは相変わらずか……」

 姫子とは、僕の母の名前だ。僕は窓の外の、流れていく景色に目を向けた。

「変わらないよ」

「都月も、何か困ったことは」

「僕も変わりない」

「そうか。その、ドアのとこに封筒あるだろ」

 言われて、ドアにあるポケットに目を落とすと、確かに封筒があった。手に取ってみると、少しの厚みを感じる。中を覗くと、一万円札の束が入っていた。

「少なくて悪いけど……俺ができるのはこれくらいだから」

「いつもごめん。ありがとう」

 僕は言った。車は交差点で赤信号に引っかかっていて、ウィンカーのチッカチッカ、という音がやけに耳についていた。その単調なリズムを耳にするにつれて、いつの間にか、自分が息を潜めていることに気がつく。ただのお金のやりとりが、こんなに圧迫感を強いるものとは、以前の僕は知らなかった。

「……もうすぐ一年になるな」

 叔父さんは目の前を過ぎていく車を見ながら言った。

「俺の兄貴──都月の父親が死んでから」

 僕は静かに封筒を握りしめた。

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