第4話 ♪葡萄の花は時魔女の優しさ-ブランデーとクッキーと小瓶の物語-

――暦を司る神さまを時神ときがみとしてあがめる人たちがいる。その使者として時を旅する者たちは暦人こよみびとやカレンダーガールと呼ばれている。その時間移動には太陽と月の光、そしてそれらを祀る場所に開く「時の扉」が使われる。いにしえより続く、限られた人たちだけが、その役目のために隠密行動で時を超える。そして彼らの原動力は、いつの時代も人の世のやさしさ――


新居弁天浜あらいべんてんはま


 静かに唇を離す夏見と栄華。

 潮風のウッドデッキは凪の夜を楽しむかのように静かだ。木のベンチに寄り添って座る二人。夏見の肩にもたれかかって、うつむく栄華。

 波音も穏やかで、まどろむような夕べだ。ただどこからか誰かの弾くピアノの美しい旋律だけが響いていた。


「ドビュッシーの『月の光』ね」


 風に流される髪を耳元で押さえる栄華。黒のスカートに胸元に白いリボン付きの半袖ブラウス。仕事帰りのまま、夏見の車に飛び乗ってここまで来てしまった。休日を知多半島ちたはんとうで過ごすという計画だった。一泊目は途中の浜松である。


 川崎の音楽ホールの会議室を借りて行われた雑誌のインタビューを終えて、駅前で待ち合わせ。そのまま直行である。


「うん」


 夏見は遠くのいさり火を見つめながら曖昧な返事をする。ドビュッシーは知っているが、道草した先の柔らかな風が、栄華の美しさを改めて教えてくれているからだ。


 いつものジャケット姿の夏見は、外した偏光グラスをポケットにしまう。公園に面した住宅には葡萄棚ぶどうだなが作られ、果穂を実らせる準備に入る頃だった。かすかにアカシアの花のような甘い香りが風を伝って流れてくる。だが、まだ微細な花は見えず、薄明かりの夕べでは、花穂全体の輪郭がぼんやりとシルエットになっているだけだった。


「誰が弾いているのかしら?」

「上手いのかい?」

「そこそこの技術を持った人に思う。指の運びが目に浮かぶもの。安定しているし……」


 夏見はフッと笑うと、

「ほんとピアノ馬鹿」とあきれ顔だ。


「悪いんですか? これでご飯食べてますから」

 子供じみたしかめ面で言い返す栄華。


「そうですね。前言撤回」

「よろしい」

 二人はジョークの余韻を楽しむように再び寄り添って、静かな夜を楽しんでいた。


 海水浴場は盛夏の賑わいにはまだ早く、リゾート旅行客の散歩道と化している。もうすぐの夏を待ちわびるかのように、水着にTシャツという出で立ちでオープンカーを乗り入れる若者も昼あたりには見られた。その駐車場は、夏見たちの背後、夜の帳に仕切られた時間になると、ただアスファルトの広大な土地が広がっているだけとなる。


 その一画、入口付近になぜか一台のワゴン車が停車していた。フロントガラスに許可証をかざしているので、自治体の指定業者のようだ。ここで落ち着いた散歩時間の夕べを楽しむ観光客のおやつを提供している。


「少し歩きましょうよ、粟斗さん」

「そうだね」とお尻の砂塵を軽くはらって、振り返ったときに見覚えのあるそのワゴン車に気づく夏見。


「ねえ、見て。ベルギーワッフルですって」


 見れば、黒板にチョークで書いた看板が、車のタイヤ部分に立てかけてある。


『本場のチョコレートと生地をワッフルメーカーで焼き上げた逸品』

 看板の文言に惹かれた栄華。早速そのキッチンワゴンを嬉しげに夏見に教える。


「うん」と曖昧な返事の夏見。

「私ね、ヨーロッパにいるときに、ベルギーで、ワッフルにホイップクリームとチョコレートをたっぷりとかけたスタイルのおやつが好きだったのよ」

「そうなんだ」

 あえて興味のない振りをする夏見。このときの夏見の脳裏には、『触らぬ神に祟り無し』ということわざがこだましていた。なぜなら見覚えのある、あのキッチンワゴン。店主が誰なのかがすでに分かっていたからだ。


「ねえ、食べましょうよ」と栄華。

「でも宿に帰ってから夕食もあるよ」とさりげなくあのワゴン車と距離を取ろうとする夏見。なるべく栄華の関心をキッチンワゴンから反らす事に必死だ。


「そんなの別腹よ」

「人間は牛じゃないから胃袋はたくさんないんだよ」

 負けじと相変わらず必死な夏見。もうすでに屁理屈合戦の域に達している。

 だがそんな夏見の言葉もむなしく、栄華は意気揚々と夏見の手を引いて、キッチンワゴンに向かう。

『もうどうなっても知らないぞ』


「ケセラセラ que sera, sera」と車体に書かれている、夏見にとって見覚えのあるキッチンワゴンだ。


 当然と言えば、当然なのだが、そのワゴン車の厨房には、保土ケ谷の暦人御師、三井みずほの店で会ったその友人の歌恋かれんの姿があった。勘解由小路歌恋かげゆこうじかれん時魔女ときまじょというカレンダーガールで、少々のアミュレットやマジックを扱う。榛谷はんがや御厨御師、三井みずほとは幼なじみだ。いつものように、やはり「que sera, sera」とプリントされたエプロンを纏い、デニムのワンピースにゆるふわな巻き毛でのんびりモードの所作である。


 車内の少し高い位置、厨房からの彼女の目線は、暗闇にもかかわらず、すぐに夏見の顔を察知する。


「あらあ」と歌恋。相変わらずゆっくりモードで言葉を発する歌恋。マイペースだ。

「どうも、その節は……」と気まずそうな夏見。


「今日のお連れさんは違う女性なんですね」と思ったままの言葉を発する歌恋。迷惑な自由人とでも言うべきか、他人の心情には無関心な性格がそのまま言葉に出る。


 その微妙な言い回しに、誰もが懸念を示すはず。当然、瞬時に顔が引きつる夏見。


「違う女性?」

 ギロリと栄華の目が刺客のように光る。


「ほらもっとお若い、二十代前半の女性で、一緒に鯛焼きを食べていた」

 追い打ちをかけるように、詳細な状況を説明する歌恋。空気の読めない、いや、空気を読まない歌恋節が炸裂だ。


 嫌な汗だ。夏見のこめかみに一線の光る物が伝う。


「若い?」

 煙たそうな眼光を夏見に向ける栄華。


「どっちが本命なんですか?」

 とどめの一撃を放った歌恋。

 夏見は心中『アホか! このおたんこなすっ』と歌恋に言い放つ。


 連動するように、栄華の言葉が堰を切ったように流れ出した。

「どういうことか、納得がいくように説明していただきましょう」

 さっきの浜辺での甘い雰囲気とはうって変わって、めらめらと燃え上がる栄華の怒号の炎を感じる夏見。彼は自分がたじろいでいるのが分かる。


「本命って、この人が奥さんだから」


 よそよそしく平静を装い、歌恋にアイコンタクトで、『この話やめろ!』みたいなサインを送る夏見に、

「あら? じゃあ若い愛人さんの話はまずかったですよね」と頭を下げる歌恋。歌恋は勝手に「若い女=愛人」の図式を作り上げてしまう。


「愛人」のワードにピキンと反応した栄華は、いらだちを肩で表現している。

「粟斗さん!」

「誤解だ。濡れ衣だ」と騒ぐ夏見。


「そうだな。誤解だ」


 そこに現れたのは、榛谷はんがや御厨の三井みずほだ。両手を頭の後ろに回し、口笛を吹いて現れた。最近のおきまりのファッションである膝丈ミニの黒のスカートに、ストッキングから、リボン、革靴までみんな黒である。


 いつぞや訪ねてきた伊勢に住む朱藤富久あかふじふくに「カフェお姉さんの大人かわいいファッション」と褒められて、ちょっと良い気分のみずほだ。


「誤解ですって?」

 挙げた拳を下ろせない栄華は、みずほに訊ねる。


「場所はアタイの店の中。相手は土の御厨御師見習いの朱藤富久だ」


 きょとんとする栄華。

「えっ? 浮気の相手って、富久ちゃんなの」


「だから浮気じゃないって! そこのイカレ魔女が勝手に言っているだけだ」

「そうなの?」と栄華。不思議そうな顔だ。

「オレにも相手を選ぶ権利はある。あんな若いの無理に決まっているだろう。そもそもオレの求める女性としての品位に欠ける」


「ふーん。じゃあ、信じてあげる」

 そう言って、クスクスと笑う栄華。

 みずほは栄華に教えるように、指さした。


「すべての元凶、それはあの巻き毛のゆるふわっぽい女。大勘違いの、天然ぼけしたスローライフ人間だ」

 栄華はキッチンワゴンの女性を見る。彼女は車内からビーターを使って手を振っている。自分の状況をあまり理解していないようだ。


「栄華は初めてかもしれないから言っておくが、このキッチンカーにいるクレープ屋の歌恋はアタイの幼なじみだ。そして時魔女というけったいな役目の暦人をやっている。性格に少々難があって、虚言癖を持つ。まともに相手するとこっちの身が持たないぞ」


 続けて手際よく説明をしたみずほ。そして夏見に向かって、ニカッと笑うと、

「釈明はこんな感じで良いな」と言う。

「サンキュー。夫婦の危機は脱した」と安堵の夏見。


『たまには役に立つんだな』とのど元まで出かかったが、押し殺した夏見。こういうときは一言居士いちげんこじになるのは避けるべきである。


 みずほはキッチンカーの方を向くと今度は歌恋に話しかける。

「栄華に謝れ! こら。それに、おまえ、この間逃げたろう。今日はしっかりお灸を据えてやるからな! 三時間の説教は覚悟しろ」


 ワッフルメーカーを磨きながら、歌恋は、

「何言っているのか、分からないわ?」と知らんぷりである。


「ほう、じゃあ分からせてあげようかな?」

 みずほの言葉にギクリとする歌恋。


「みずほちゃん、何する気? そんなことしたら時間止めちゃうんだから」

 すでに次の瞬間にみずほはキッチンワゴンに乗り込んできた。一瞬二人は目配せしたようにも見えた。または何かの合図のようにも取れる。


「ジャポネ・キエティスムに動くわよ」と歌恋。


 キエティスムの言葉に反応した夏見は、

「歌恋ちゃん、おまえさん、本気で止める気か!」と車の前で叫ぶ。それと同時に、夏見は栄華の手を取ると懐から小瓶に入った御神酒を取り出した。それを口に含むと栄華に口づけをした。唇を伝って、栄華の口にも御神酒は涵養し染み渡る。


『間に合ったか?』

 静寂の世界が広がる中で、辺りを見回す夏見。そして栄華が動いていることを確認する。

「栄華ちゃん」

「はい」

 頬を染めて、その頬を両手で押さえたまま恥ずかしがる栄華。

「良かった。間に合った」

 へなへなとその場にしゃがみ込む夏見。

「粟斗さん。いきなり人前でのキスは恥ずかしいわ」ともじもじする栄華。


「家で、もっとすごいことしてるでしょ!」と苦笑する夏見。

「それとこれとは……」

 栄華はそう言ってから、

「いったいどうなっているの?」と状況を確認し始める。


「歌恋の馬鹿、時間を止めやがった、それもゲートを使わないで半径1メートル以外の時間止めだ」

「それで1メートル以上離れていた私たちが、止まらないように慌てて御神酒なのね」

「ああ、これで彼女たちと同じ時間の流れに入り込めたはずだ」

「でも半径1メートル以内にいる人は無条件に一緒に飛ぶのよね」

「ああ」

「ワゴンの横で座っていた人も飛んできたって事よね」

「そんな人いた?」

「うん。カップルがいたわ」と点頭する栄華。


「……ということは、あいつら最初はなから時間を止める用意をしていたな。一芝居打ったんだ」

 みずほと歌恋の顔を見ながら夏見は渋い顔だ。

「最初から?」


「きっと彼らに用事があって、あんな猿芝居していたんだ」


 栄華の言葉に、夏見はキッチンカーの背後に回る。するとすでに、あたりをきょろきょろと見回して不思議そうな振る舞いをしている夫婦らしき者たちが見えた。カジュアルな綿パンと登山ベストを来た男性、白の避暑地用のワンピースにトートバスケットを肩に引っかけた女性。両人とも二十代後半から三十代前半と言ったところだろうか?


「あんたら生きるんだろうな!」

 みずほの出し抜けの質問。何かをすでに知っての台詞だ。厳しい中に、優しさを秘めた瞳が二人を見つめている。


「後ろにある物くださいな」と笑顔の歌恋。


 何かを隠し持っている男性。歌恋の店のオープンカフェが置いたパラソル付きのテーブルで、今し方二人で書いていた手紙のようだ。とぼけた振りの男性に、歌恋は、再度、

「お出しください」と笑顔だ。普段へらへらしていても厳格に振る舞う時もあるようだ。


 男は渋々、後ろ手に隠し持っていた封筒を歌恋に差し出した。明らかに遺書だ。


「こんなもん置いて、どこに行くつもりだった?」

 みずほの質問に、

「山の方に……」とだけ答える男性。

「この海辺の一夜が最後の晩餐だった、って事か」

「お察しの通りです」

 みずほの予想的中に従う男性。


「理由は?」

「彼女曰く、結婚を邪魔されてます」

 男性は連れの女性を見ながら言う。その妙な言葉遣いにピンときたみずほは、

「反対じゃなくて、邪魔されることなのか?」と怪訝な表情を見せる。


「はい」

 察しの良いみずほに、二人の表情は明るくなる。


「とりあえず、聞いてやろう。時間は止まっているから、いくらでも聞いてやるよ」

 その言葉に二人はあたりをきょろきょろと見回す。


「どういうことですか?」


 夫の方は、不思議な顔だ。妻に比べれば、事態を把握出来てない風にも見える。それでも憔悴しきった妻の方に比べれば、まだ正常な判断が出来そうに見受けられる。

「とりあえず、アタイらは暦人という伊勢神宮の旧御厨地域に住む時間案内人だ」


「ん?」


 うさんくさい顔をしている夫だが、あたりの時間が本当に止まっている以上信じないわけにも行かない。

「……続けて良いか?」

 みずほの言葉に、「どうぞ」と頷く夫。

「時神と言う神様は時間を司っていて、アタイらに託宣を申しつける。それはいろいろな形で来るので、それを解釈しながら仕事する。なので、非常にややこしい役割であり、作業でもある」


 ワゴンカーに寄りかかると、再びみずほは続ける。


「今回、アタイらは暦人的な静寂空間支配のスイッチを入れたんだ。時魔女の歌恋、あいつの力を使ってね。それは、あんたらの子供からの願いでね、谷島屋秋花やじまやあきかさん」と妻を見る。


「どうして私の名前を?」


「あんたの家もアタイらと同じ暦人御師の家柄。まさか知らないわけじゃないな?」

 妻はこくりと頷いたが、夫は何も知らなかったようで、驚いている。


「彼女の家は神戸鎌田かんべかまた御厨内にある。代々その御厨のタイムゲートを守ってきた家だ」


「ご主人は、谷島屋の家がなぜ、この結婚を邪魔しているかを知らない。それは暦人の家に入って秘密を知られるのが怖いからだ。事の大小にかかわらず、おおよそどの暦人の家でもこの懸念は持っている。アタイに子供がいたらやはり用心するだろう」

「この結婚、条件は婿養子、でないと、代々守ってきた御厨と御師の家の秩序が保てないからだ」


 腕組みをしてワゴンカーに寄りかかるみずほを見て、

「今日のみずほは格好良いな。いつものアホ面が嘘のようだ」と夏見が感心している。

 みずほはキッと横目で夏見をにらむと、

「おい、そこの部外者のおじさん、黙っていてくれるか? 気が散る」と言葉を吐き捨てた。


「すみません」と夏見。


 哀れんだ栄華は夏見の頭を撫でてやる。

「よしよし」

 苦笑いした後で、沈黙の夏見が少々おかしかったが彼女は笑いをこらえた。


「ところで旦那さんは今が二十一世紀だって、分かっているか?」


「まさか。今は一九八〇年じゃ?」

 そこで夏見は説得の役目を自ら引き受ける。

「そうだな。CD もMDもない、インターネットのない時代の人だろうと思ったよ」

「は?」

 まあこれではあまり、理解できないことも自分で分かったようで、一息ついてから、別の方法を試みた。


「これってなんだか分かりますか?」

 夏見はポケットからスマートフォンを取り出して見せる。

「電卓?」

「……ですよね。あなたの時代だと、これはせいぜい電卓かポケベル、卓上のゲーム機にしか見えないでしょうね。ウォークマンですら、こんなに小さくない」


 そう言って夏見は、まずキーパッドのダイヤルと着信履歴を見せる。

「これは携帯型の移動電話なんです」


「こんな小さな物が?」


「でも画面のボタンを押せば、携帯型のプレーヤー、ウォークマンのような物になります。さらにゲーム機としても、カーナビゲーター・マップにもなる」

 そう言って、操作をする。スピーカーからは栄華の弾く、ベートーヴェンの『月光』第一楽章が流れ出した。


 栄華は、「もう私の旦那様はどこまで私のファンなのかしら?」と両頬を手で押さえて嬉しそうだ。


「こんな物が一九八〇年の技術で作るのは不可能です。八〇年当時の集積回路では大きすぎて、こんな薄っぺらな筐体に収まらないし、カラー液晶なんて夢のまた夢の時代だ。二十一世紀だから出来る技術だ」


 夏見の説明が終わると、再びみずほは、

「奥さんは、あなたに内緒でタイムゲートをくぐらせて、この時代に来てしまったんです。部外者を許可もなく、時間移動させたというのはとんでもないことで、暦人のルールからすると、大きなペナルティが課されます」と冷静に一言をかみしめるように言葉を発した。

「秋花さん」

 不思議そうな顔の男性。

「ごめんなさい、書太郎さん、神社でお参りの時に開けたあの箱が……」と項垂れる秋花。


「旦那さんは書太郎さんなんですね。間違いなく依頼のあった谷島屋さんのご両親です」

「まだ見ぬ我が子が、依頼主なんですか?」

「この時代には立派に四十歳を過ぎてますから」と笑うみずほ。

「そっか、今の私たちよりも年上の子供なんだね」


「今回はあなた方が起こした騒動の二つの後処理が結構大変なんです。ひとつは、部外者である旦那さんがタイムゲートをくぐってしまった件。もう一つはあなた方がこの時代で心中などなさると、平和に生きている未来のあなたたちや家族にも多大な影響が出る。分かりますね。大迷惑なパラドクスです。依頼主でもある、あなた方のお子さんも存在できなくなる。一気に三つ、四つの命か消し飛びます。それでもまだ、この手紙を置いて、どこかで息絶えるつもりでおられるのですか?」

 夏見はみずほの杞憂することを手際よく二人にまとめて伝える。


 もう逃げは通用しないと踏んだのか、書太郎は観念した様子で話し始める。


「私の名前は裾野書太郎すそのしょたろう。彼女はご存じのようですが、谷島屋秋花。二人は同じ高校の卒業で、私の家が音楽の楽譜、譜面専門の書店、彼女の実家は楽器修理の工房を営んでいます。大学で、私は工学部で機械などの構造を専門に学びました。譜面なんて私には読めません。音楽家の名前すら分かりません。彼女は大学では芸術学科で、演奏は出来ますが工房の社長なんてとても出来ないのです。お互いの素性を、お互いの両親に話したところ、結婚前に別れることが、最良の策と言われました。何度も彼女とは話し合いましたが、結論は出ず、二人ともお互いを唯一無二のパートナーと考えていることからそれ以外を考えることは出来ませんでした」


「それで秋花さんは、最終手段か。自分たちの知らない時代でなら、行方不明で終わるかと思ったんですね」


 夏見の言葉に小さく頷く秋花。タイムリープの件については、書太郎自身、今さっき知った事実なので、そのSF小説のような事態に、ただ小首を傾げているだけだ。


「大丈夫。今現在は、ここ静止時間状態の世界にいるから、旦那さんがゲートをくぐったパラドクスは起きない。そのために時間を止めたんだ」とみずほが妻の方を安堵させる。

夏見は密かに微笑むと、

「やるじゃん、あいつら」と呟いた。原理拘束の裏をかいた歌恋たちのやり方がツボにハマったようだ。感心している。


 一方で、止まっているさざ波寄せる浜辺の砂に、不自然に光り輝く小瓶が突き刺さっているのを栄華が見つけた。まるで探してくれと言わんばかりに。

「あれ、何かしら? きれいな小瓶ね」

 そう言って、半分砂に埋まった瓶を抜くと、栄華は夏見の横に並んだ。


「拾ったもん食べちゃだめって、何度言ったら分かるの! めっ!」

 夏見らしいブラックジョークを栄華に浴びせる。

「誰が食べるのよ、こんな固い物」

 そう言いながら、コルク栓を引き抜く栄華。

「手紙っぽい物が見えるんだけど」


 四つ折りの便せんには葡萄のイラストがプリントされている。瓶の底の方には土鈴らしき物も見える。

「取れる?」

 夏見の言葉に、無言で瓶を差し出す栄華。瓶の底にあるため届かないのだ。

「取れないのね」と笑う夏見は、「食べられないからって、粗末にしちゃだめです!」と再度のくだらないジョーク。

 うまくヘアピンに引っ掛けて手紙をすくい取る。


 からの瓶を夏見に渡した栄華は便せんを見開く。


「音符?」

 夏見の言葉に、

「この三連符から、主旋律へのメロディーの流れ、<月光>のファーストムーブメントだわ」と返す栄華。そして夏見に再び手紙も渡す。


「さっきのドビュッシーといい、『月』が鍵言葉のようだね」

「これって、ベートーヴェン?」

「うん」

「さわりだけの譜面だね」

「その下の記号は何かしら?」

「分からない」


 そこにはラテン語で『vita』と書かれていた。これはラテン語の『命』を表し、葡萄の学名『vitis』の語源にもなった言葉である。ちこも八雲もいない今回は、このメッセージを解読できる者はいなかった。


 夏見の手からひょいと手紙を抜き取る歌恋。いつの間にか車を降りて彼の横にいた。

「うふふ」と嬉しそうな顔でその手紙をすぐに夏見に返す歌恋。


「どした?」


 夏見の言葉に、

「もう分かっちゃいました。今から取りかかりますね。忙しいですよ。vitaを守る役目ですから」と意味深な笑みのままワゴンに戻る歌恋。厨房扉の脇、入口部分で彼女は突然、箒の柄に麻袋あさぶくろをぶら下げて、まるでドローンやラジコン飛行機を飛ばすかのように、箒を夜空に向かって投げつけた。


 すると箒は撓りながらも、一直線に目的地に向かって飛んでいった。月明かりがその箒の位置を正確に目視できる環境を作ってくれていた。

「この状況下でも、伝達手段を持っているんだ。時魔女は、時巫女並みに魔法を使えるんだな」

 夏見は、初めて見る時魔女の魔法と、その使用する光景を目の当たりにして感心していた。

 自分の用事が済むと、歌恋は

「では皆さん、場所を変えます。続きはそこでやりましょう」




リゾートコテージ「ミューズ」


 フローリングの十畳ほどのワンルームに、洗面所とバスルーム、ドレッサールームがついたリゾートマンション。

「いったいここは何なの?」

 エレベータ無しで五階まで上がってきた一行。時間停止では仕方ない。息切れしてる年齢の者も少数いる。

カードキーを差し込んで、解錠。着いたのは、ドミトリー風の大きな部屋。なぜ歌恋が持っているキーで開くのか不思議に思う夏見。

「私たち時魔女は、各地に滞在拠点をいただいています。無人の拠点施設で、お互いに予約を入れて、自由に使うことになっています。暦人の講元宿みたいなもんね。神戸鎌田御厨の近くは浜松地区にあるこのリゾートマンションなのです」

 玄関脇の納戸部屋は書庫になっていて、三メートル四方に書棚が納められていた。もちろんアミュレットやタイムゲートについての本が並ぶ。亜空間書庫にはない類いの書物ばかりである。外国語の本も多い。


 中央の大きなテーブルにそれぞれが着席する。気を遣いお茶の用意をする栄華。

 その横で、みずほは「知恵を借りたい。この二人が無罪放免で帰れる方法を探してくれ」と皆に頭を下げた。すると、「それは最低限の大前提なのよねえ」と頬杖ついて悩む歌恋。それ以上の対応をしてあげるつもりなのだ。書太郎と秋花の処遇とメッセージの解読に、なんと「おっとり」歌恋が意欲を示した。


「ん!」と何か閃いた顔の歌恋。

「あのォ、私、分かっちゃったんです……。なにが、かって言うと……」

 いつものおっとりペースで話す、歌恋に、

「とっとと、もったいぶらずに言いなよ」とみずほが急かす。


「さっき栄華さんが拾った小瓶、託宣のアイテムで間違いありません」

 歌恋は手紙の小瓶を持って皆に瓶底が見えるように持ち上げた。

「ほら見て。小宅土産物店ってあるから、この瓶は小宅さんちで作った物なんです」


「大那くんちだ」と夏見。

「夏見知り合いか?」

 みずほの訊ねに、

「まあ旧友の一人だな」と答える。


「独身か?」

 みずほの意味の分からない質問に、

「そこ関係ないだろう、今」と苦笑する夏見。

 すかさず栄華が「既婚者です」と答える。


 それを聞いて、興味なさげに、

「なんだ」とぼやくみずほ。

「おまえ、そんな焦っているか?」

「当たり前だ、もう三十歳は目の前だ。アタイはウエディングドレスが似合ううちに結婚するんだ」

「相手がいないのに、結婚の衣裳は決めてんのか?」

 この台詞が言い終わらないうちに、夏見の頭上に丸めた新聞紙がおそってきた。


『パコーン!』


「乙女を侮辱するな」

 夏見は、みずほが自分に使う『乙女』という言葉に少し抵抗を感じたが、やぶ蛇になるのでおとなしく甘受した。

「そのガラス工房で作られたものはアミュレットとしての霊力が込められいるんだ」

 夏見は閑話休題として、話を戻すべく説明を加えた。

「なるほど、すでに霊力が存在するチャームなのか」

 皆が納得した。つまりこの瓶は栄華たちに拾われることを前提に、あの場所に置かれた託宣というとらえ方も出来るものだった。


 程なくして、部屋のインターフォンが鳴り響く。モニターに歌恋が出ると、

「お届け物です。時間郵便です」と声が聞こえた。


 皆が一瞬でモニターに釘づけだ。止まった時間の世界でも、しっかりと配達してくれる忠実業務に驚きだからだ。


『時空郵政!』


 誰もが心中で呟く。時間を飛び越えて郵便物を配達してくれる公僕現業、時空郵政の配達人である。


 玄関でのやりとりを終えて歌恋が大部屋に戻ってきた。

「頼んでいた物が届きました」

 その大きな小包を開けると、「アクアビーテ」と書かれた瓶が、敷き詰められた緩衝紙の合間から出てきた。


「これ、十七世紀のまだ修道会や教会が薬として作っていた頃のブランデーとウイスキーじゃないか」

「はい」と笑顔の歌恋は、「ヨーロッパにいる友人の時魔女に送ってもらいました」と言いながら、箱から取り出してテーブルに置いた。


 テーブルの上には、小宅のガラス瓶、土鈴、月光の第一楽章の頭の部分が記された便せん、そして「命の水」と訳される百薬の長、ラテン語の「アクアビーテ(aquia vitae)」が二本置かれていた。

「アクアビーテは『命の水』、そっか、さっきのvitaはビーテなのね。アクアは『水』だからビーテが『命』って意味ね。便せんの文字は!」


「まあ、『命』を守れ、って言う託宣なので、この人たちを見つけろ、思い留まらせろ、って事だ。解釈と答えは今のところ順調だね」


 栄華の閃きに、夏見が裏付けをする。


「賽は振られましたね」


 すでに知っていたようなそぶりの歌恋の言葉に、

「おまえの託宣解読法、まだ鈍っていないようだな」と不敵な笑いのみずほ。


「単語ひとつとはいえ、ラテン語は勘弁だ。横文字だらけの解釈法。これがみんなひとくくりの託宣メッセージとしてやってくるって言うのか?」と夏見。夏休みの宿題を前にした子供のように難しい顔をしている。


「夏見、実はアタイも歌恋と組んで託宣の解読する案件は正直苦手だ。こいつらに課される託宣は横文字が多いからな」


 あきらめモード夏見に、みずほは少々同情した感じだ。むしろ自分もあきらめた、と吐露しているようにも取れる。

「これだからカレンダー・ガールの託宣は予想できないんだよな。世界史の一問一答でも買って来てやり直さないと解けない託宣だよ」

 一人ブツブツとぼやきっぱなしの夏見である。


「ちなみに「アクアビーテ」は十八世紀頃までのヨーロッパ諸国の蒸留酒の総称で、原料から蒸留したアルコール飲料を教会で渡すときの名前とも言われてました。当時お酒はお薬でしたから。地方や場所にもよりますが、麦から作れば『ウイスキー』、ブドウなら『ブランデー』、ドイツなどでは芋から作ることもあります。なので、ここに届いたのは、スコットランドとフランスの『アクアビーテ』です」


 時魔女、歌恋の十八番が始まる。

「葡萄の醸造酒はワインで、それを使った蒸留酒はブランデーというのは洋酒好きのセオリーだな」


 夏見の言葉に、

「他にワインにはせず、直接皮付きの葡萄果実を蒸留するブランデーのみをアクアビーテとすると言う持論の人もいるんですよ」、そう言ってから「これはあとで魔法のお酒となるので取っておきましょう」とテーブルの上の二本の洋酒を歌恋は端に寄せた。


「まずはこの土鈴からですねえ」

 そう言いかけたところで、ガチャッとドアが開いて、朱藤富久が入ってきた。クロスステッチ模様のロングスカートに、麻地のTシャツ姿。ほぼ家着である。

「あらあ、奇遇ねえ。今朱藤さんがいたら嬉しいわあ、って思っていたんですう」とおっとりモードで話す歌恋。

「それ、初代林家三平が寄席でやってた、遅刻して客席に着く客いじりのまくらネタと同じだよ」とぼやく夏見。

「でもね、さっきはあなた、話の中であやうく夏見さんの愛人にされそうになったんですよお」と続ける歌恋。

 白々しくも、天然ぼけな発言に、「原因はおまえだろ!」と夏見はいらつく。


 一方の富久は富久で、靴を揃えると、内心『自分で呼び出しておいて白々しい』とちょっとこちらも歌恋に対してご機嫌斜めだ。

「来たんじゃなくて、有無を言わさず、連れ去されてきたんですよ!」

 富久の言葉に、

「あらあ、そうでしたっけえ?」とスローな台詞が返ってくる。

「正確には、あなたの箒に連れ去られてきたんです!」

 かなり不満そうな顔で歌恋をにらむ。

「だいたい、箒に結んであった手紙に書いてある物をおじいちゃんに訊いたら、ちゃんと用意してくれたのに、お礼を言う暇もなく、箒が私を勝手に乗せて、飛び立つし……。不安定きわまりない乗り心地でした。必死に箒にしがみついて、空飛んできたんだから! しかも時空まで越えて停止時間状態の世界に着いちゃうし、何なのよ、これっ!」

 洗いざらいぶちまける富久だが、ご飯前に連れ去られたことに腹立たしく思っていることが一番の原因だ。

「まあ、ありがとう」と歌恋。

 ブーたれた顔で富久は、麻袋から二キロ詰めのビニルに入った土を二個ほど取り出す。

「おじいちゃんがよろしくって言ってました。お知り合いだそうで!」

「さすが土の御厨ね。ちゃんといろいろな土をお持ちなのね」

「倉の中に大概の土はあるそうです」

 無愛想に歌恋に伝える富久。半分以上、不機嫌な富久だったが、ふと目線を変えて、目の前に栄華がいることに気づく。

「こんにちは、富久ちゃん」と笑顔の栄華。

 もちろんたちまち富久の顔は緩み放しになる。

「栄華さん、いらしてたんですね」

「お元気?」

 栄華の言葉に、

「栄華さんにお会いできたら元気百倍です」と微笑みながら返す。

「まあ、お上手ね」

 少しでも機嫌が直ってよかったと安堵する栄華だった。


 一連の流れを目の当たりにしながらも書太郎と秋花は落ち着かない様子だ。

 その気配を察したみずほは、

「大丈夫。無事に何事もなかったように、あんたら二人を助けてあげるから」と励ます。

「これでもアタイは暦人の中では正確精密で間違いしない御師として名が通っているんだ」とも加える。

 その言葉に、

「それは嘘じゃない。みずほはオレや山崎よりも正確で丁寧な託宣解釈をはじき出すから」と夏見も同意した。


「じゃあ、優秀な皆さんが集まっているので、救出に必要なアイテムを作り出します」

 歌恋は頷くと、

「このお二人を助ける算段に移りますからご協力ください」と言う。

 歌恋の言葉を聞くやいなや、

「時越えした一般人って、どうなっちゃうの?」と栄華が夏見に訊ねる。

「いや、知らない。暦人にはどうにもこうにも出来ない相談だ。通常、時巫女が行う案件だ。いままでそんな場面に出くわしたことなど無いから、時魔女さんのお手並み拝見と行きましょうよ」

 静かなまま、波も動かない止まった状態の夜の湖を見つめて、ため息をつく夏見。

 

「とりあえず、暦人ととして何回ぐらい時越えをしたんだ、秋花は」

 静寂を破ったのは、みずほだった。

「三回ぐらいです」

「御師のお達しは?」

「まだ父が御師をしているので、しばらく先かと……」

「この駆け落ちの旅で、この時代で二人で暮らすことも考えたのか?」

「私の妄想ではちょっとよぎった程度ならありました」

 首をコキッとならして、肩を回す、みずほ。最近のトレードマーク、ハーフアップのアクセント、黒のリボンの位置を直す。

 富久は「あの、カフェのみずほおねえさんも、いらしていたんですね。どうもその節は」と嬉しそうに挨拶する。

 かなりお気に入りの富久を見たみずほは、

「また会ったねえ」と手を挙げて挨拶だ。おねえさんぶること、この上ない。

 栄華は『おねえさん』と呼ばれているみずほに、少し好感度のある違和感を感じた。

「みずほちゃんって、おねえさん、って呼ばれているのね」

「うん。富久ちゃんが、前に『ワンダーランド』で会ったときにそう呼ぶようになった。みずほもまんざらではないようだ」

 夏見は先日の鯛焼きの一件があったときの見たままを伝える。

「へえ、良いわね」

 栄華は、ひとりぼっちだったみずほに同世代の知り合いが出来ていくのが嬉しかった。


「今日は満月です。だからこの部屋の窓辺に月の光を注ぐためのテーブルをバルコニーに設置しました。おそらく託宣はダブルスタンダードで私に訴えてきたわ。一つは誰が弾いているのか分からないけど、とても上手なドビュッシーの<月の光>。最初は栄華さんの演奏だと思っていたのに、キッチンで仕事をしていた私の横の海岸で、夏見さんとキスしてましたから、弾いていたのは別の人でした」


答え合わせのように話し出す歌恋。

「はうっ!」と両手で口を覆う栄華。

たちまち赤面して、

「そこ言うところですか? その説明いらないんじゃないの」と抗議する。


 彼女の抗議むなしく、無視したまま歌恋は続ける。

「次の託宣は小瓶でした。この小瓶、注ぎ口が幅広のタイプなので、中に小さな土鈴を入れることが出来たのねえ。ちなみにこの小瓶は伊勢の内宮前にある小宅さん家のガラス工房で作られた物なのよ。……と言うことは、この瓶自体がアミュレットとして機能できちゃうの。霊力をもともと持っている立派なアイテムなのねえ」


 富久は、その説明に、いつぞやの水時計型アミュレットの外枠を思い出した。小宅の家のガラス工房で作られた物だった。

「……なので、この小瓶に霊力のつく材料を入れれば、魔法のアイテムが作れるというわけなの。それが罪滅ぼしのアミュレット、うふ」

 歌恋は富久の持ってきたビニル袋を取り出す。

「これは珪藻土って言うの。その中でも食用珪藻土って言って、食べられる土なのね。アルプスの登山口にあるシャモニーからモンブラン方面に行った氷河地層から取った珪藻土らしいの。モンブランだからおいしそうね。うふふ。これをキテーヌ産の小麦とノルマンディー産のチーズをつなぎにして今から焼いちゃいますう」


 そう言っている間に、歌恋は銀の調理用ボールに珪藻土、小麦、削ったチーズを放り込むと、最後に大量の砂糖とミルクを放り込んだ。練り込んで生地にしているのが分かる。

 皆は時魔女のお菓子教室のような時間を、目を見開いて注目している。

 みるみるうちに練り上がった生地で彼女は、土鈴を作り始めた。食べられる土鈴だ。土鈴を作るときは中の生地で作った玉が鈴の本体くっつかないように、球体の周り全体を覆うようにして、少し厚めにミントの葉で包む。こうすればオーブンの中でミントの葉が焼けるが、鈴の内部の球体はころころと内部を動いて、音を出してくれるからだ。

 しゃべる言葉はスローな彼女だが、手際の良い手さばきで、余熱で温まったオーブンに次々とお菓子を入れていく。


「あの土鈴、セラミックだと思っていたのに、お菓子だったとは、託宣読み間違えるところだった。あれは時魔女やカレンダーガールじゃないと、分からないや」と完敗の表情を浮かべる夏見。

「やっぱり、カレンダーガールには、カレンダーガールの託宣の解き方があるみたいね」と加える栄華。

「うん、今回はお手上げだ。彼女、単なるのろまじゃないね」

「だって勘解由小路の人って言っていたからそれ相応の力は持っていそうよ」

 おとぼけ具合から、二人は夏夫の母、小宅初歩こだくはつほを思い出していた。

 

 オーブンをセットした歌恋は、テーブルに戻ると、今度はブランデーとウイスキーに手を伸ばす。

「この二つを均等に、バーテンダー用のカクテルメジャーカップで量るんです。そしてこのアミュレットの小瓶に入れるんですよ。するとね、透き通った琥珀色の液体が月の光を透過するんです」

 皿に盛った珪藻土のクッキーと混ぜ合わせた小瓶の中の洋酒を運ぶ。この二つを歌恋はベランダに設置したテーブルに載せた。もちろん月が海の真ん前の水辺に上っているのは言うまでもない。

「それでは最後のアイテムです。残念ですが、ここにピアノはないので、オーディオで行きましょう」

 そう言って、

「夏見さん、そのスマホ、貸してもらえます。エアスピーカーに飛ばすんで、暦人のピアニスト角川栄華さんのベートーヴェンの<月光>のファーストムーブメントを再生して飛ばしてください。さっき聴いていましたよね。それを一曲リピートにして、延々繰り返してほしいです」とリクエストだ。

 栄華は内心ほっとした。

「生演奏で延々繰り返させられるのは勘弁だわ」

 安堵の中で独りごちる。


 彼らの目の前にあるベランダ。そこには不思議な情景が映っていた。満月の月明かり、無機質なテーブルとその上にある珪藻土のクッキーと洋酒の小瓶。その横でスピーカーからベートーヴェンの<月光>が流れる。


 夏見はようやく歌恋に口をきく。

「これで何が出来るんだい?」

「まあ、せっかちさんねえ。もうちょっと待っていれば、自然と分かるのに」とはぐらかす歌恋。

「そっか。じゃあそうする」

 そう言って夏見は立ち上がると、「冷蔵庫のビールもらって良い?」と歌恋に訊ねる。

「どうぞ、お好きなだけ召し上がれ」

「ありがとう」

 冷蔵庫に手をかけて驚いた。

「これ、輸入物のパスエールじゃない?」

「ええ、ライセンスの物が今はないので、本国直輸入ですよ」

「ありがたや、ついでにフィッシュアンドチップスもほしいところだ」

 そう言うと、夏見は上機嫌で本場英国産エールのパスエールの瓶を手にして、部屋中央のテーブルに戻った。

「良かったら、こっちのチーズも余り物ですけど、おつまみにどうぞ」と歌恋。

 差し出されたブルーチーズとカマンベールは半生熟成のとろとろ食感である。

「ああ、オレ、今日、何にもしていないけど、仕事の後のエールが美味い」と笑う夏見。


 何回、ピアノの曲が繰り返されたのか分からないくらいだったが、歌恋には頃合いが分かるようで、ベランダの洋酒とクッキーを室内のテーブルに戻した。

 そしてそっと皿を秋花と書太郎に向けて押し滑らせると、

「どうぞ」と勧めた。

「どういうことですか?」と秋花。


「このクッキーは清めの供物です。あなたの過ちを浄化させてくれるものです。そして洋酒は、暦人が作る『桂花の御神酒』みたいな物です。『時魔女命水ときまじょめいすい』って言います。これで二人の時代に戻れます。戻った後は、津にある安濃津あのつ楽器商会の店主で星歌ほしかさんと言う人を訊ねてください。そして星歌さんに教会オルガニストの瀬尾律せおりつさんを紹介してもらってください。それで瀬尾律さんの指示に従って懺悔すれば、お二人の過ちはなかったことにしてもらえます。時神様にも伝えてもらえるでしょう。彼女も時魔女です。あなた方が無事に帰還すれば、時間はそのまま動きだし、私たちの時間も日常に戻ります。みんなに迷惑をかけている今の時間停止状態を、しっかりと反省して、日常に戻ってください。新しい二人の門出が待っていると思います。悲観的にならずに、私の言ったとおりに動いてみてください。生きる、って素敵ですよ」


 そう言うと、歌恋は静かに微笑んだ。


「ありがとう」

 それは自らの意思で出た書太郎と秋花の自然な言葉だった。

 見れば、うつむいた二人はぽとぽとと涙を落としている。


「だって生きていなきゃ、二人ではぐくむ幸せも経験できませんよ。子供を育てて、その子供に夢を託して、日常に埋もれながらも小さな幸せと我が子の成長を時間の経過と一緒に見ていけるなんて、すごい贅沢な日々なんですよ。お孫さんだって抱けるかも知れない。これって、地位や財産を使っても手にできない極上の幸せなんです。あなた方の真心が育み、手塩にかけて育てたお子さんが、四十年後に、この駆け落ちを阻止させたんです。二人の愛の結晶であるお子さんは、優しくまっすぐに育ったと言うことですから……」


 止めどもない涙のつぶては二人の膝を濡らし続けていた。

 二人の口元からは、震えるようなかすかな声で、「ありがとう……」と重い言葉が再び吐き出された。


 一九八〇年からスリップした二人が暦人たちの前から消えると、時間が動き出した。ここからがややこしい絡まった人間関係をほどかなくてはいけない。ひとはこれを「キャラクター・バトル」と呼び、文学用語ではスラップスティックなどとも例える。


 いきなり箒にさらわれた富久。キスの現場を公言された栄華。三時間の説教を歌恋にするため現れたみずほ。

 三人がこぞって、歌恋を取り囲むと、怒号の声で訴え始めた。

「こら、おまえ、アタイの店のテント製の庇を壊したろう。あのとき、なぜ逃げた。おまえも罪滅ぼしが必要だ!」とみずほ。


「問答無用で、箒に載せるってどういうことですか? 落ちたら死んじゃいますよ! 私の命も、もっと大事に扱ってください。これでも私、土の御厨の御師の跡取りですよ!」と富久。


「ちょっと個人的な愛の表現方法を皆さんの前で、公表するって、どういうことですか? デリカシーなさすぎじゃあありませんか。今のコンプライアンス情報社会にあるまじき行為です」と栄華。


 たじろいで、横目で夏見に助けを求める歌恋。ところが夏見はすでに出来上がっていて、周囲の事などまるで耳にも目にも入ってこない。

「わいわい、ぎゃいぎゃい」と訴える女性陣たちの横で、夏見は一人、ブルーチーズに、パスエールをグラスでグイッと飲んでいた。

「美味い! のどごし爽やか」

 真っ赤な顔で出来上がったおじさんは、ビールに夢中だった。




神戸磐田御厨


「最近は地元に御厨駅なんて出来て、少しは有名になったようね」

 翌日、ワゴンに便乗して一行は、歌恋の依頼主である谷島屋春華の住む町に来ていた。

「もともとサッカーでも有名だし、車のエンジンでも有名な町だけどね」

 夏見の言葉に皆頷く。


『裾野楽器店』の看板を見つける一行。

 歌恋の到着を待って、店の前で出迎えてくれる四十代の女性がひとり。茶系の絣の着物がよく似合う。これが依頼主である谷島屋春華であることはすぐに皆分かった。


「いらっしゃい。歌恋さん、今回はありがとう」

 降りてくる中に、栄華がいることに気づく春華。

「あれ? なんで栄華ちゃんがいるの」

 栄華は笑いながら、

「話せば長くなるけど、居合わせちゃったのよね、現場に」と伝える。どうやら二人は旧知の仲のようだ。


「そっか。会えて嬉しいわ。まあ、話は中でね」

 目配せをすると春華は皆を家に案内した。母屋のような旧家屋を通り過ぎて、新しい今風の住宅に向かう。

「横の別宅が両親の家なの。見つからないようにそっと奥にね」

 春華の言葉から読み取れるが、今の時代、その後の書太郎と秋花は普通の生活に戻ったようである。


 応接間に通された皆は、ソファーに座る彼女の夫と対面である。彼は静かに立ち上がると、皆に頭を下げる。

「いらっしゃい」


 歌恋たちもお辞儀で答える。

「お邪魔します」

「このたびは妻と子供たちの危機を救ってくださり誠にありがとうございました」

 丁寧な再度のお辞儀に、一行も畏まる。


「私が一方的にお礼をしたいだけなので、おもてなし期待して下さいね。後は、自宅のように自由にくつろいでいね」

 気さくなもてなしの言葉で迎える春華と夫。


「ありがとうございます」

 歌恋は皆に席を勧める。商談用なのだろう、囲んで十人は座れる大きな応接セットだ。

 麦茶を持った春華がテーブルにグラスを置いていく。

「少し大きめのグラスです。たっぷり召し上がれ」と笑う。

「あのう、そろそろお話を始めたいんですけど」と歌恋。

「そうでしたね」

 絣の着物に前掛けをした姿はまさに和服美人である。腰から足の着物のしわを気にして、たるみを直してソファーに座る仕草にも品格が漂う。


「実は、今回、私の祖父、谷島屋遠埜助やじまやとのすけから時空郵政経由のメッセージが届きました。昨日の午後六時頃に、浜松の弁天島リゾートに若い頃の父母が駆け落ちをするというメッセージでした。そこで食い止めないと時間が崩壊するという懇願でした。すでにこの世にいない祖父からのメッセージ、ただ事ではないと察知して時巫女と時魔女、この状況はどちらかの力を借りないと無理なことに気づいたんです。私は直系の身内ですから、直接若い時代の両親に会うことは出来ません。私の名前や情報を独身時代の両親が知ってしまうとパラドクスがおきます。そんな悩みを抱えていたら、偶然近所のスーパーでクレープ屋さんの移動販売で出店している歌恋さんと、久しぶりに出くわしたのでした」


 そう言って彼女は自分の前の麦茶を一口含む。

「それがねえ。あのスーパーの出店は偶然とは思えないんです」


 歌恋の言葉に、

「そうなの?」と返す春華。


「初めての出店場所って、アドバンスや大量の提出書類が、必要なのだけど、決済口座と日時希望だけの簡単な手続きで即日契約だったの。しかもあちらからのご依頼で、まるで私の空き日を知っているかのように、リクエストされてね……」

「あなたは時神のつけた軌道みちすじと予想しているのね」

 栄華が言う。


「たぶん、会うべくして会っているわ」と何度も首を縦に振り、頷く歌恋。


「おそらく時巫女を使うと、何らかのペナルティを与えなくてはいけない、と踏んだ時神さまのご配慮かな。神社のゲートくぐってタダで済ましたら、他に示しがつかないからな」と夏見。


 さらに春華は続ける。

「祖父の手紙には、津にある安濃津楽器商会のご主人に詳細を訊ねてほしい、との事でした。そしてこんな面倒ごとを、孫のお前に迷惑かけて済まない、とかなりの詫びも入っていました」


「どこの御厨の御師もお家を守るのには苦労しているわね」

 栄華も飯倉の頃の自分を振り返っているようだ。


「それで津に行ったところ、両親の世話をしたというオルガニストの瀬尾律いろはさんという演奏家を紹介してもらったわ」

「教会音楽の第一人者のひとりだわ。そう姫子さんのお身内のおばさまね」と栄華。


「ええ、そのようね。どうやら詳しいことは分からないけど、両親は暦人たちに助けられて、その助言を元に津に来たという事を聞けた。そして彼女の紹介する教会で懺悔と改心を誓って、生まれてくる我が子のためにしっかり生きると言うことを誓ってくれたの。だからこの御厨は祖父のあと祖母で、その後はひと世代飛ばして、孫の私が継いでいるのよ」


 栄華は似たような境遇の春華に共感していた。


「両親は、何か私が困ったときに、時魔女やほかの御厨の暦人に橋渡しをしてくれて、自らは暦人御師の役には就かなかった。そして神戸鎌田御厨のために、この場所に住むことを決めてくれた。父と母は入籍をせずに、事実婚のまま私を育て上げた。なので私と母は谷島屋姓で、父は裾野姓なの。そして祖父母の養女として私は育っている。いわば直系の御師家の人間として、この御厨を継いだのね。そして店の方は、家には裾野姓を残せないために、せめて屋号で残すことにしたと言うわけ。そしてたまたま分家の又従兄に当たる自笑みずえくんと恋に落ちて、婿養子を取ることもなく、同じ名字同士、谷島屋姓を継ぐことが出来たのね」


「そっか」

 富久は分かったような分からないような気分だった。家とか、跡継ぎとか、自分の就職や生活などで手一杯の年齢だ。一方のみずほは苦労したのはこの人も一緒なんだと少し親近感がわいた。


「みずほちゃんのお父さんとは、私は仲良くさせていただいたからよく知っているのよ。一緒に東海道の時空穴を埋めた中ですもの」


 みずほは、父から浜松近くの御厨にピアノの上手い御師がいると聞いていたのを思い出した。

「アタイの父さんもそうだけど、富久の父さんも知り合いなんだろう?」

 富久を紹介すべく話を振るみずほ。気くばせが出来るようになったところがすごい、と栄華も夏見も思った。おねえさんと呼ばれるだけのことはある。


「えっ? あなた土の御厨の?」

 思い当たることがあるように富久を見つめる春華。


「はい、朱藤富久って言います」

「まあ、朱藤福一郎さんの娘さんなのね。立派なお父さんよね」


「え?」

「だって御厨を捨てて、横浜と川崎のタイムゲートの封印に……」


 言いかけた春華は、我に返り、

「あ、何でも無いの。忘れて」と自分の話を続けた。大きく顔の前で手を扇いで、栄華の方を向いた。話題を無理に変えたような仕草だ。


「先日はラベンダーティーの差し入れ、ありがとうございました。超一流のピアニスト様」と栄華に笑いながらお礼を述べる。


「もう、慇懃無礼いんぎんぶれいって言葉知ってますか。『超一流』ってあたりに陰謀を感じる」と笑い返す栄華。そして「どういたしまして、何事もなくて良かったです」と加えた。

 栄華の返礼の言葉に頷くと、再び春華は続ける。


「どこまで話し終えたかしら? ……あっ、そうそう。店は木工職人をしていた自笑みずえくんが、あっ、この私の旦那様ね、彼が楽器工房を引き受けてくれる形で、私は楽譜書店の経営なら出来るので、そっちに専念したの。いわば、取り替えっこね。書名ぐらいは分かるから。両方の経営を一緒にしてしまおう、と言うことで、別々だった会社を合併させて、同一法人の別部門にしたわ。これで商売のほうも一件落着になった。今、私たちには三人の子供たちがいるので、だれが御厨とお店を守ってくれても良いの。音楽ホールも小さいながらあるので、そこを講元宿にって、時の勘解由使かげゆしさんには届けているわ」


 ずっと黙っていた富久が口を開く。

「御厨の御師を継ぐって、講元宿とタイムホールを継承するだけではないんですか?」


「うん。時の勘解由使さんから承認されて、試験に受かったらなれるのかな? その辺は一番最近に試験を受けた角川家の栄華ちゃんや辞典くんに聞くと良いわ。おばさんになると忘れちゃうのよ」と笑う春華。

「へえ」

 富久はまたひとつ、暦人の不思議なルールを知った気がした。


「私からお話しできる今回の依頼の全容はここまで、後は再会を祝して、食べて飲んでいってね」


 席を立つと、春華は、

「さあ、宴の用意しますか」といって、たすきの片端を咥える。そして着物に手際よく、くるりと白たすきを掛け始めた。

「まあ、私もおてつだいしちゃおうかな?」と歌恋。


「いいの?」と春華は驚く。客人が自ら腕を振るうというのだ。


「だってここにいると……」と歌恋が行ったところで、みずほが歌恋の襟首を捕まえる。


「おまえはここにいろ! 今からアタイのお説教だ」

 今回こそはしてやった、というドヤ顔のみずほ。

 ところがそのドヤ顔はものの五分と持たなかった。


 そう言い終えたとき、栄華が、

「みずほちゃん、それエプロン」と指さす。

 改めてつまんでいる手の先を見ると、エプロンだけを上手く脱いで、彼女は脱出した模様で、そこに歌恋の姿はなかった。そして次の瞬間、表でエンジンをかける音がした。


「またやられた!」とみずほ。機敏な動きであたりを見回す。


「空蝉の術? 」と栄華。

「魔女じゃなくて、忍者なのか?」と夏見。


 あわてて縁側から飛び出て、裸足のまま、店先の駐車場に向かう。ところが時すでに遅し。彼女のキッチンワゴンは米粒の大きさになって、二つ先の交差点を右に曲がっていった。

「この次は六時間の説教だからな」と独りごちるみずほ。説教時間が倍に増えている。両脇に拳を握りしめ、決意表明といったところだ。


 みずほが裸足で呆然と立ち尽くす、その物陰、葡萄棚の庭木が植えられた旧家の門扉の格子戸越しに、年老いた夫婦がキッチンワゴンに向かって静かに深いお辞儀をしている姿が見られた。


 男性の老人の手には、経年劣化の古ぼけた、あのときの小瓶が握られている。そして女性の老人の手には、よれよれになった葡萄の描かれたあの便箋が握り締められていた。


 葡萄の花言葉には、暦人たちにとって最も大切な言葉、「慈善」という意味がある。暦人御師同士の助け合いは必要だ。自分の御厨、おいえが騒動の中心になることは皆にあり得る。他人お家事情などとは思わず、出来ることを協力することも彼らが時間を守り続けるための下準備に当たるのだ。今回の一件で、神戸鎌田御厨の危機は脱した。紛れもなく、時魔女の歌恋と土の御厨御師見習いの富久がいたからこそ出来た解決策であった。


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