第四章 最終試験

「ロ、ロラン、どうしたのです。そんなに強く抱きしめたら苦しいです。少し緩めてください」

「あ、すまない」

 俺は、衝動的にルーを強く抱きしめていた。長年にわたる友人とはいえ、皇太女殿下になんて失礼なことをしたのだろう。

 俺は抱きしめていた腕を緩め、身体を離そうとすると

「離れるのはもっとダメです。このままでいさせてください」

 ルーから抱きしめ返されてしまった。

 馬車のときと同様にルーにがっちりとホールドされていて抜けられそうにない。言っておくが、俺が決して非力というわけではない。ルーは皇太女だが武勇に優れる軍人でもある。ルーは武道の心得が多分にあって必要最低限の力で俺が逃げにくい形で俺を押さえ込んでいる。ルーのこういうところが強引だと思うが、ここまで俺を求めていると思うと可愛らしいとさえ思ってしまう。

「ごめん、ルー。俺は最初からこの婚約の申し出を何とか取り消してもらうことばかり考えていた」

「そうですよね。あなたには、ただの迷惑な話ですものね」

 俺の肩口に温かいものが流れてきた。ルーの顔が見えないが、泣いているのだろう。

「だけど、今、考えが変わった」

 ルーが素早く顔を上げた。やっぱり大粒の涙を青い目に溜めていた。10年前の子供らしい激しい泣き方と違い、憂いを帯びた泣き顔がこの世のものとは思えないほど美しい。

 俺は借り物のハンカチを取り出し、そっとルーの涙をぬぐってやった。本当は自分のハンカチでぬぐいたかったが、事情により仕方ない。

「俺は不義男爵家の三男だから貴族として生きていくことはできない。いつか家を出て平民として誰にも迷惑を掛けないように生きる、それが正しいと思い込んでいた。だからこそ自分の気持ちに蓋をしていた。ルーは友人、だけど近いうちに俺の手の届かない存在になる。俺とは関係ない人間になる。そう思い込もうとしていた」

 俺を見つめるルーの目が揺らぐ。

「俺は、ずっと前からルーを愛しく思っている。といっても、はっきり自覚したのはついさっきだ。ルーに対するこの思いはなんだろう、でも誰にも明かしちゃいけない感情だってことだけは分かっていたから一生蓋をするつもりだった。でも、ルーがこんなにも俺のことを考えて婚約者に指名してくれた。陛下や大臣たちを巻き込んでまでルーがここまで俺をお膳立てしてくれたんだ。何をためらう必要がある。この先どんな障害があっても、というか障害だらけだと思うが俺はルーの隣に立ち続ける」

 ルーは、俺の言葉を聞いて俺を拘束していた腕は力を失い、その目から幾筋も涙が流れた。時間を経ることにその涙は激しくなっていた。

「ルー、大泣きするほどひどい告白だったかな」

「違う!その逆。嬉しくてたまらないんだから。私の話を聞いて愛想をつかされてしまうかもしれない。ロランが私を友人とすら思ってくれなかったらどうしようと思っていたのに。ぐすっ。まさか思いが通じ合っていたなんて。うわあああああん」

 ルーはさっきまでの淑女らしい丁寧な口調は崩れ、子供のように泣きじゃくっていた。

「ルー、子供みたいな泣き方になってるぞ。10年前に山で君を見つけたときに戻ったみたいだな」

「ロランだって、いつの間にか『俺』って言ってる。昔とおんなじ」

 俺たちは一瞬互いを見つめ合い、緊張の糸が切れたかのように同時に笑い出した。

「何がおかしいのか分からないけど、あー、おかしい」

「俺たち、とっくの昔にお互いを意識していたんだな」

 ルーは10年前にはっきりと俺のことを意識していたが、俺はルーに対する気持ちが何なのか、長年感情を抑え過ぎていて自覚したのはついさっきという差がある。

 問題は山積だが、今はこの感情を大事にしたい。

 俺はルーの顔を両手で添えて唇を重ねた。

「たまには俺からしてもいいだろう。ルー、どうした」

 ルーから顔を離したら、俺の目にはゆでだこのように真っ赤な顔をしたルーが映っていた。どことなく、目の焦点も合っていないように見える。

 やっぱり、相手の同意なくいきなりキスしたのが悪かったか。でも、お互いに気持ちを確かめたわけだし、何よりルーは10年前に2回、数時間前に馬車の中で1回俺の同意なくキスしているわけだから、俺が勝手にキスしてもいいはずだ。

「よりによってこんなひどい顔をした私に口づけするなんて、ロランも物好きですね」

 確かに、少し前まで泣きじゃくっていたから目は腫れているし、鼻は赤いし、化粧も崩れているのかも……しれないな。元が美人だから厚化粧している感じがないから正直よく分からない。

「10年前の方が鼻水垂らして泣いていたから今の方がよっぽどマシだと思うぞ」

「ロランったら比べるものが悪すぎます。そういうことなら化粧直ししたのに」

「どんな状態でもルーはルーだ。ところで、この後はどんな予定が入っているんだ」

 俺はルーの耳にキスしてやった。これで俺からのキスは2回目だ。あと1回くらい勝手にキスしたっていいだろう。

 それにしても、ルーの手を取るだけでもぎこちなかった数時間前の俺からは想像できない行動だ。

「ひゃっ!ロラン。心臓に悪いから止めてください」

「悪い、悪い」

「もう、絶対悪いと思っていないでしょう」

 ルーは軽く頬を膨らませたが、そんなに怒っていないようだ。

「この後の予定は大臣たちと顔合わせすることになっているのですが。ごめんなさい。私のせいでロランの上着が汚れています」

 ルーは俺の上着を掴み、上着のボタンを外し始めた。

「ルー、自分で脱げるから。これ以上服を借りるのも悪いし軽く拭いて何とかする」

「いいえ、私のせいでロランの上着に化粧と涙をつけてしまったのですから早くお召し変えしないと」

 俺が避けようとしたら、ルーに全体重を掛けられて倒された。

 ソファの上で俺の身体にルーが覆いかぶさる。ちょっとこの体勢はどうなんだ。

「ロラン、動かないでください。脱がせにくいでしょう」

 覆いかぶさったままだと上着を脱がせにくいのか、ルーは半身を起こして俺の身体の上にまたがった。ますます俺がルーに襲われている図みたいになってしまった。しかも、ルー本人に悪気が一切ないだけに余計たちが悪い。

 こんな姿、誰かに見られたら非常にまずい。でも、この部屋に戻ったときに人払いはしているし、施錠もしているから見られることはないか。

 カチャ。

 今、誰かが扉の鍵を開けた?

「セリーヌです。殿下のお声が聞こえたものですから無礼を承知で失礼します」

 執務室の扉をセリーヌが勢いよく開けて中へ入ってきた。さっきまでルーが子供みたいに大きな声で泣いていたから異常事態が起きたと思うよな。多分、あの泣き声は部屋の外にも聞こえたと思う。

「殿下、ご無事です……か。これは大変失礼いたしました」

 セリーヌは俺たちの姿を見るやいなや、後ずさりしながら部屋を出ようとしていた。

「セリーヌ、お願いだから帰らないでくれ」

 俺は必死に叫んだ。この状況を勘違いしたままセリーヌに去られたらたまったものではない。

「いえ、私が立ち入るわけにはいきません。大臣たちには所用で遅れると申し伝えておきます」

 セリーヌ、そんなフォローはいらない。この状況を何とかしてくれ。

「セリーヌ、何を言っているのですか。私はロランを脱がせたいだけです」

 ルー、さらに誤解を招くことを言わないでくれ。

「まさか殿下が明るいうちから、そのようなことをなさるとは思いませんでした」

「セリーヌ、何の話ですか」

 ルーがきょとんとした顔をした。セリーヌが何を勘違いしたかルーは分かっていないようだ。

「まずは殿下。ロラン様の上から降りましょうか」

 セリーヌはため息を一つ付いた。さっきのルーとのやり取りで、セリーヌは自分の勘違いだと気が付いたようだ。

 ルーはセリーヌがそう言うなら、という感じで俺から降りる。

「お二人ともご事情をお聞かせいただけますか」

 セリーヌの眼鏡の淵がギラリと光った。下手なことを言ったら恐ろしいことになりそうな雰囲気をヒシヒシと感じる。

 俺は、セリーヌを苛立たせないように事のあらましを手短に答えた。

「なるほど、殿下が幼子のように泣いていたのは、ロラン様と思いが通じ合っていたことを知って安心してしまったため。ロラン様の上に殿下がまたがっていたのはロラン様の上着を汚してしまった殿下が責任を感じて自らお召し変えしようとした結果そうなってしまったということですね」

「はい」

 いつの間にか、俺とルーは怒られた子供のようにセリーヌの前に立たされていた。

「殿下に何かあったかと思って駆け付けましたら、ロラン様ではなく、殿下が事に及ぼうとしているご様子でお止めするのも野暮かと思ってしまいました」

「いや、はぁ」

 呆れた様子のセリーヌに、俺は力なく相槌を打った。

「実際は違ったようで、私の単なる下種の勘繰りでした。少し考えれば、殿下があのようなことをするはずがありませんし」

 俺の隣に立つ美女はというと、セリーヌが何を言っているのかまだよくわかっていないようで、ぽわんとしている。

「セリーヌが何と勘違いしたか、ルーは分かっていません。俺から説明するのはちょっと…」

「ロラン様からは言いにくいでしょうね。皇統断絶を憂いながら、殿下にそのような知識を教えていなかった私にも責任があります」

「セリーヌ、何で教えていないんだ」

 皇室の不備としか言いようがない。世継ぎ問題が深刻だと言うのに、当事者であるルーにその知識がないとは。

「殿下はエクレールの王子と望まない婚約を結んでおりましたから、その手の話は結婚直前でいいと避けておりました」

「なるほど」

 世継ぎのことは大事だが、嫌いな相手と具体的に何をするかは知りたくなかったのか。

「それに、あまり知識があり過ぎたら殿方としては興ざめしてしまうかもしれませんし。うぶな方が育て甲斐がありますでしょう?」

 セリーヌがにやりと笑いながら俺を見た。俺は返答に困って苦笑いするしかない。

「さっきから、何の話をしているのですか」

 ここまで言って気が付かないルー、知識があるないにかかわらず鈍すぎだろう。

「だから、ルーが俺と性交渉するために俺の服を脱がせようとしているとセリーヌが勘違いしたってことだよ」

 俺はルーの鈍さに苛立ちを覚えてつい口に出してしまった。

 ちらりとセリーヌを見ると、「あ、言っちゃいましたね」と言わんばかりの顔をしていた。

「………っ。」

 ルーの顔がみるみる赤くなり、ルーは顔を両手で覆いながらその場にうずくまった。

「さらに申しますと、ロラン様に婚約を断られて、錯乱した殿下が既成事実を作ろうとなさっているのかと思いました」

 セリーヌ、追い打ちを掛けるんじゃない。あの大泣きだけを聞いたら錯乱したのかもと思わなくはないが…。

「ルーは、何をどうしたら子供ができるという知識はあるんだよな」

 俺は若干、いやものすごく不安になってセリーヌに尋ねた。

「さすがにその程度は教えてあります。戦場では何が起きるか分かったものではありませんし、不埒な輩が襲ってきたときにご自身で避けていただく必要がありますので」

 いつ敗戦の将となって辱めを受けるか分からないし、戦場には危険な人物が紛れている可能性があるから自己防衛のために教えたということか。

「ただ、体位の種類とか殿方を喜ばせるテクニックとかそういった具体的なものは全く教えておりません。ロラン様のお好みを教えていただければ、結婚初夜までに整えさせていただきます」

「そ、そうですか」

 婚約初日からそんな話題をしたくなかった。ルーと俺が両想いだったというだけで十分だったのに、ここまで話が進むのは行き過ぎだ。

「それはともかく、ロラン様の服を何とかするのが先決でしょう。殿下、次はどの服を着せますか」

 セリーヌは話題を変えるべくパンパンと両手を二回たたいた。

 セリーヌの声にルーはゆっくりと立ち上がる。

 また、服を借りるのか。ほぼ庶民の貴族の俺としては申し訳ない気分だ。

「殿下も着崩れていますし、髪のセットと化粧直しも必要ですね。二人まとめてお召し変えしましょう。私はドレスを取りに行ってきますので、お二人ともおくつろぎください」

 セリーヌは素早く部屋を出ていった。

 部屋には俺とルー二人が残された。あんなことがあった後なので、ものすごく気まずい。何を話そうか。

「ロラン。先ほどは失礼いたしました」

「ただの事故だよ。気にしなくていい」

 何か気を紛らわせるような話を思いつかないと。

「あの…。ロランは、私とすぐにでもそういうことをしたいですか」

 ルーは俺の顔をまっすぐ見つめる。

 このタイミングで、この話をするか?いや、ちょっと待ってくれ。俺はつい目をそらそうとした。しかし、ルーは全く逸らす気はないようだ。はぁ、これははぐらかすわけにはいかないか。

「キスは済んだから、そうなってもいいかなとは思うけど。俺の不注意で結婚前に子供ができたら皇室としてはどうなんだろう」

 グランフルール本家の世継ぎ問題が深刻とは言え、結婚前に子供ができてしまうのはあまりにも外聞が悪い。おまけにその相手が俺となるとさらに貴族連中からの風当たりが悪くなるだろう。俺だけではない、ルーに対する評価も下がってしまう可能性がある。万が一、俺とルーが婚約解消した場合、生まれた子供の立場が非常に危うい。

「そう、そうですよね」

「それにルーの嫌がることはしたくない」

 皇太女としてのルーではなく、一人の女性としてのルーの気持ちが一番大事だ。いくら自分から望んだ婚約とはいえ、いきなりそんな関係にはなりたくないだろう。

「やっぱり、私はロランを婚約者に指名して良かったです」

 ルーは屈託のない笑顔を俺に向けた。成長したとはいえ、10年前と変わらない眩しい笑顔だった。やっぱり俺は、今も昔もこの笑顔に弱い。



「お待たせいたしました」

 セリーヌが、数人の侍女を伴い大量の荷物を運びこんできた。服やアクセサリーなどの小物だけじゃない、簡易なドレッサーも持ってきているようだ。俺の目からすると、何かの引っ越しか模様替えにしか見えない。女性の着替えはこんなにも大変なのか。

「殿下、どれに致しますか」

 セリーヌはさも何でもないかのごとく、ルーに声を掛けた。ルーも特に驚くことはなく、ハンガーラックに掛けられたドレスを確認していく。ドレスを一通り確認した後、俺の貸衣装がかかっているハンガーラックに向かう。

「あのドレスとこの服なら取り合わせが良さそうですね。アクセサリーは、あれを使いましょう」

 ルーは俺の服も含めて手早く決めていく。やっぱり俺も着替えるしかないのか。濡れたタオルで汚れを取ってアイロンを掛けてもらえれば十分なんだが。

「大臣たちとの顔合わせまで時間はあまりありませんよ。皆様、手早く準備しますよ」

セリーヌの号令で、侍女たちがきびきびと動きだす。

「さあ、ロラン様はこちらで」

 俺はあれよあれよとセリーヌに連れられて服を着替えさせられる。俺とルーの間にはしっかりと衝立がたてられて、お互いの様子は見えない。

「さて、着替えが終わりましたから髪を整えましょう」

「いえ、このままで結構です」

 セリーヌの呼びかけに俺は即座に拒否した。

「恐れながら申し上げますが、ロラン様のお立場は相当弱いです。せめて印象だけでも良くした方がよろしいのではないでしょうか」

「本当にこのままでいいんだ」

「私には、ロラン様があえてぱっとしない人物になろうとしているように見えるのですが」

 セリーヌには見抜かれていたか。ルーが信頼するだけのことはある。

「あなたには敵いませんね」

「他言は致しませんので、理由をお聞かせ願えませんか」

「それは、僕が『建国祭の幽霊』だからかな」

 俺の答えにセリーヌの動きが止まる。

 セリーヌとはこの先も長い付き合いになるだろう。誤魔化し続けるのも限界がある。それなら最初から見せておくか。秘密を知る人間が増えるのは問題だが、セリーヌはルーと固い信頼関係を結んでいるようだしな。俺は一つ息をつく。

 俺は自らにかけていた魔法を解く。うねりのある艶のない黒髪はまっすぐで鮮やかな青い髪に、くすんだ灰色の目は、金と銀のオッドアイに変化した。

「それは、殿下もご存知のことですか」

 セリーヌは絞り出すように声を発した。俺は静かに頷く。

「僕は目立ちたくないし、この姿を利用する人間が出てほしくもない。結婚してもルーを陰から支える、冴えない夫で通したいと思っている」

「ロラン様、私はもう何も言いません」

 セリーヌが納得してくれたことを確認し、俺はまた冴えないロラン君に姿を変えた。

「社会的にはこの姿で通しているから、どっちが本当の姿か自分でも分からなくなってくる」

 俺は肩をすくめてみせた。

「ロラン様、どうか殿下と二人きりのときは本当の姿を見せてあげてください」

「どうだろう。皇族になったら監視であれ、護衛であれ常に誰かに見られていると思うとそうそう姿はさらせないかな」

「その時は、私が全力で人払いしておきます」

 セリーヌはうやうやしくお辞儀をした。



 俺は今廊下に立っている。忘れ物をして先生に怒られたから反省させるために廊下に立たされているというわけではない。ルーが着替えを終わるのを待っているだけだ。そのまま執務室に残っていても良かったが何となく所在なくて部屋を出てしまったという次第だ。執務室を出たところで他に行くところもなく、ただ廊下に出て窓の外を見ている。

 ルーの着替えはまだかなぁ。ドレスの着付けだけじゃなくて、化粧直しにも時間が掛かっているんだろう。

 俺のせいでルーを泣かせちゃったからな。化粧も最初からやり直しだ。

「そこにいるのは誰ですか!マールの…皇太女殿下の執務室の前ですよ」

 俺が窓を見ながらぼーっとしていると刺々しい女性の声が耳に飛び込んできた。

 俺が声のする方に顔を向けると、ルーに瓜二つとまでは言わないが、ルーに姉がいたらこういう人物ではないかという感じの女性が立っていた。そして、その後ろには5人の侍女が控えていた。

「お初にお目にかかります。僕はロラン・グランフルール・クローデルと申します」

 俺は失礼のないように深々とお辞儀をした。

「ふぅん」

 ルーに似た女性は、一言だけ発して俺を一瞥する。彼女の瞳は氷のように冷たく、ルーがファビアン公子に向けた表情とよく似ていた。

「失礼ですが、どちら様で……」

「あなたのような下賤の者に名乗る必要はありません。行きましょう」

 彼女は、俺の問いを遮って侍女たちを引き連れて通り過ぎようとしていた。

 彼女は誰か…。当然、ルーの姉ということはない。ルーに兄弟姉妹はいないのだから。そうなると、ルーに近しい親族が妥当だ。ルーより多少年上の女性となると、おそらくはベルナデット大公妃だろう。

「白いお召し物は殿下本人にお返ししました」

 俺は誰に向けて言うわけでもなく、ぼそっと呟いた。

「は?何を言っているの」

 彼女は、俺を小馬鹿にしたような顔を向けた。そのすぐ横を歩く侍女の一人がピクリと肩を震わせたのを俺は視界の端に捉えた。

 俺の服を盗んだのはあいつか。そう断定するのは早計だが、何か知っているのは間違いなさそうだ。



「ロラン、お待たせしてしまってすみません」

 着替えを終えたルーが執務室の扉から出てきた。ルーは、大輪の赤いバラを思わせるようなボリュームたっぷりなドレスを着ている。動くたびにドレスにちりばめられた宝石が輝いている。

「ルー、すごくきれいだ。でも、泣きはらした目は化粧をしても隠せないね。ごめん、俺のせいだ」

「これは嬉しくて泣いたのですから問題ありません。ロランもその礼服とても似合っていますよ」

 ルーとは対照的に俺はサフィール宮殿の屋根を思わせるような青い礼服だ。礼服の右側襟や袖は金の刺繍、左側は銀の刺繍が施されている。本来の姿ならもっと見栄えがしただろうが、仕方ない。

「ありがとう、ルー。ところでルーによく似た少し年上の女性に会ったんだけど、あの人がベルナデット大公妃殿下?」

「それならきっと叔母様です。私より七歳年上なので姉だと勘違いされます。叔母様とは何か話しましたか」

 ルーの声が弾んでいた。どうやらルーとベルナデット大公妃は仲が良いようだ。

「お気に召さなかったみたいで名前も教えてもらえなかった」

「それは、叔母様が大変失礼致しました。叔母様は私のことを溺愛しているので私に近づく男は全員敵だと思っているのです」

 ルーが申し訳なさそうに肩を落とした。あの氷のような対応は、俺だけじゃないのか。安心したような、そうでないような。

「唯一の例外はお父様ですね。小さいころの叔母様は常にお父様の後ろを歩いていたとか。お父様と叔母様は、母親も同じですから他の姉妹より懐いていたのでしょう」

「ベルナデット大公妃殿下だけじゃなくて、ルーも一緒になって後ろを歩いていたんじゃないのか」

「まぁ、ロラン。どうして分かったのですか」

「そりゃあ、まあ、ね」

 ルーと皇帝陛下と大公妃の関係性を見れば容易に想像はつく。

 さっき会ったベルナデット大公妃は氷の美女と呼ぶにふさわしい雰囲気だったが、小さいころはとても愛らしい姫君だっただろう。その後ろを歩き始めたルーが付いて歩いていたらさぞかしかわいいことだろう。

「ロラン、何か考え事ですか」

「俺と出会う前の小さいころのルーってどんな感じだったのかなと想像していた」

「でしたら、応接室に肖像画が飾ってありますから何かの機会にお見せしますね」

 肖像画ね。この宮殿に普通にゴロゴロありそうだな。俺の家にはそんなものはないぞ。分家にはお抱え絵師なんて存在しないし、絵師に頼む金なんかない。仮にそんな金があったら、次兄の薬代とか末の弟達の学費とか、他のものに使うだろう。

 今の皇帝陛下は倹約に努めていると聞いているが、それでも分家との格差は大きい。いちいち意識していたらきりがないが、こういうときにルーとの差を感じてしまう。

「ロラン、どうかしましたか」

「何でもないよ。肖像画は楽しみだけど今は大臣たちとの顔合わせに集中しないと」

 俺はルーの手を取り、歩き出した。



 俺とルーが謁見の間に入ると、二十人程度の大人達が真ん中を通路のように空けて左右に分かれて整然と立ち並んでいた。

 ルー、これが手紙に書いてあったちょっとした顔合わせなんだよな。これのどこがちょっとした顔合わせなのだろうか。

 最前列には、あのキラキラ公子様の父親であるギラルディエール内大臣、ボアルネ財務大臣、コルベール外務大臣、セリーヌの父親であるリール法務大臣、レンヌ軍務大臣などの国の重鎮が、その後ろには高位貴族の当主たちが立ち並び、さらにその後ろにはルーと勝負したであろう帝国四大将軍が控えていた。

 そして、正面の玉座には皇帝陛下が、その隣の椅子には皇后陛下が座っていた。また、ベルナデット大公妃が謁見の間の隅ではあるが、皇帝・皇后両陛下の比較的近くに椅子を用意されて座っていた。皇族から離れたとは言え、他国の大公妃という立場であるので大臣たちと同列に扱うわけにはいかないのだろう。

「あれが殿下の…」

「どう見てもふさわしくない」

「あんな若造に国の未来を任せられるわけがない」

「殿下は可愛そうに騙されて」

「陛下は…何を考えて…。いや、何も言うまい」

「殿下は正気なのか」

 俺とルーが歩みを進める度に、貴族たちの陰口が聞こえてくる。俺に対する陰口八割、ルーと皇帝陛下に対する苦言がそれぞれ一割と言ったところだろうか。

 俺はルーに促されるまま、中央の最前列に進んだ。

 少し前まで食事をした皇帝陛下とこのような場で相対するとは妙な気分だ。それどころか、俺のような身分ではそもそも謁見すら不可能なのにどうしてこうなったのか。

 すると、ルーは俺の腕から手を放した。

「少し寂しいですが、ロランと離れ離れですね」

 ルーは俺の耳元にそっとささやいて軽やかな足取りで皇帝・皇后両陛下のいる上段に移動した。

 え?俺、ここに残されるわけ?

 確かに俺は上段に立つ身分じゃないからしょうがないけど。

 これでは、俺一人敵陣に残された気分だ。

「皆、鎮まれ」

 皇帝陛下が立ち上がり、俺も含めてその場にいるすべての者が跪いた。

 皇帝陛下の声は大きな声ではないが、一瞬にして空気を変え、周囲を圧倒させるだけの迫力を感じる。

「今日集まったのは他でもない。我が娘、マリー=ルイーズの婚約のことである」

 皇帝陛下が一言、一言発する度に身が引き締まる思いがする。やはり、皇帝として尊敬されるだけのことはある。

「ロラン君。立ちなさい」

 皇帝陛下は、俺の目の前に歩み寄り優しく声を掛ける。

「はっ!」

 俺は委縮しながらも立ち上がる。

「この者は、我と先祖を同じくする、ロラン・グランフルール・クローデルである。本日、マリー=ルイーズ皇太女の婚約者として…」

「お待ちくだされ!陛下」

 皇帝陛下の言を遮るように老境を迎えた貴族が声を上げた。

「ヴォルジー公、皇帝である私の言葉を遮るとはそれなりの覚悟があると思って良いな」

 皇帝陛下の鋭い眼光、重々しい声、佇まいもすべて圧倒的なまでの威圧感だ。

「こ…この者は、本当に皇太女殿下の婚約者としてふさわしい者でしょうか」

 ヴォルジー公は全身を震わせながらも声を絞り出した。

「お前の処分は後で考えることにして一応話を聞こう」

「この男は、陛下と先祖を同じくしておりますが、身分は卑しく悪名高き家の者。また、この男の祖父モルガンはのし上がるためなら何でもする偽物貴族、母親は低俗な物書きですぞ。その血を継ぐこの男もろくなものではないでしょう」

 ヴォルジー公は最初こそブルブルと震えていたが、だんだん饒舌になってきた。

 なるほど、不義男爵家批判にクローデル家批判も加えてきたか。

 祖父のことを突かれるとちょっと痛い。俺が下剋上を狙っていると思われても仕方がないだろう。

「横から失礼しますわ。陛下。私に発言の許可を」

 ベルナデット大公妃がすくっと立ち上がる。

 皇帝陛下は手振りだけでベルナデット大公妃に許可を出した。

「他国に嫁いだ身なので部外者ですが、私からも少々。モルガンは野心のある者と聞いておりますが、すでにこの者の幼き頃に他界しその影響は少ないものと考えます。クローデル家現当主は手堅い領地経営をし、領民からも慕われているとのこと」

 大公妃は、意外にも俺を助けるかのような言いぶりをしている。ルーに近づく男は陛下以外すべて敵ではなかったのか。

「デジレ先生は、帝国内外の貴族の子女の間でも人気の作家で、私も愛読させていただいておりますわ。ヴォルジー公の意見はあまり的を射たものではありませんね」

 さらに母上のファンとは!息子としては少々恥ずかしいが嬉しい限りだ。

「ただ…。この者が本当に私の愛する姪にふさわしい相手かという点については私も疑問に思いますわ。」

 ベルナデット大公妃は扇子を口元に当て、冷ややかな視線を俺に浴びせる。

 やっぱりこの人は敵だった!

「ベルナデットよ。なぜそう思う」

「この男には確固たる後ろ盾がなく、結婚したとしても何も利益がありません。後ろ盾がないならば何か実績をと考えたいところですが、それも彼には何もありません」

「では、どうすればよいと思うか」

「そうですね。彼には奇跡を起こしてもらいましょうか」

 奇跡を起こす?何だそれは。

「誰もなしえなかったことをしてもらうとか」

「話が見えないな。具体的なことを言え」

 皇帝陛下に苛立ちが見えるが、わざと苛立っている振りをしているのだろうな。

「例えば…、マリー=ルイーズ皇太女殿下が魔法を使えるようになるとか」

 大公妃は片頬に手を当てて悩まし気な表情をした。

「それは面白いな」

 皇帝陛下は口をほころばせているが目は座ったままだ。

「ええ、陛下。今まで誰も実現できなかったことですわ。これが実現できれば…」

「マリー=ルイーズが聖剣だけでなく魔法も使いこなせれば他国へけん制材料がさらに上がるな」

 皇帝陛下は形の良い髭をいじくりながら思案していた。

「マールが魔法を使うところを私もこの目で見てみたいものです」

 甘い甘い声でベルナデット大公妃はささやいた。

 俺の背後で貴族たちもそれに賛同するような声が聞こえてきた。

 魔法が使えなくてもこの国では生きていけるのに、貴族たちが気にしているということはやっぱりエクレール王国との関係で何かあったんだろうな。

「ふむ。ではこうしよう。婚約者指名の最終試験として、マリー=ルイーズが魔法を習得できるようにすること」

 な、なんじゃその試験は!

 俺は口答えできる立場ではないので、ただただ、顔をひきつらせた。

「お父…いえ、皇帝陛下、それはいくら何でも!」

 ルーが皇帝陛下の胸倉をつかみかかるんじゃないかという勢いで前に立ちはだかった。

「さすがにロラン君一人でできることではないことは分かっている。手段は特に問わないよ。誰か魔法に通じている者を呼んでも構わない。持てる知力、人脈を使って何とか頑張ってくれ。期限は……」

「今日を含めて一週間でお願いしたいですわ。再来週にブルイヤール大公国の式典があるのでそれまでには帰らないといけませんの」

「そうか。それは寂しくなるなぁ。では、一週間後のこの時間に、ここに皆集まるように。以上、解散!」

 皇帝陛下はマントを翻して退出した。皇后陛下もそれに続く。

 今まで魔法の使えなかった人間を一週間以内に使えるようにしろって無理だろうが!と叫びたいが敵地に取り残された俺は暴れることはできない。

「どうなるか見ものですな」

「なあに、何もできずに一週間が過ぎていくさ」

「実質、婚約指名取り消しだろうよ」

 俺は茫然としながら貴族たち全員が謁見の間から出ていく姿を見送るしかできなかった。

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