第25話 聖母と人形





 狭い路地裏に華やかなタペストリーが飾られ、子供達のはしゃぐ声があちらこちらから響いていた。

 絶賛庶民モード満喫中のマリアージュは露店を回っている内に、ある一つの人だかりに気づく。


「あら、何のお店かしら?」

「ああ、あれは……」


 狭い路地の中でもひときわ人気を博しているだろうそこに、マリアージュは歩み寄っていった。すると甘い匂いが、ふんわりと鼻腔をくすぐる。


「さぁ、焼き立てのスフレケーキをどうぞ。お安くしておきますよ!」

 

 可愛らしい看板が立った露店には、朗らかな笑顔を浮かべる女主人がいた。

 プロポーション抜群なグラマラスな美人で、店前に並ぶ男達は皆、鼻の下を伸ばしている。


「じゃ、せっかくだから二つもらおうか」

「ありがとうございます!」

「うちの子供達のおやつに三人前頂こうかねぇ。ドナ、あんたの頑張りは町中のみんなが応援しているからね」

「心強いです。いつもありがとうございます」


 店の前に集まった客達は、ドナと呼ばれた女主人に好意的だった。

 こんなに人気ならばさぞ美味しいケーキを売っているんだろうと、マリアージュがさらに店に近づくと――



 客の影に隠れるように、露店の軒先には一人の少女が――いた。

 大きな大きな乳母車のようなものに乗せられて。

 異様なのは彼女が赤ん坊でも、小さな子供でもなく、すでに少女と思われる年頃だったこと。

 少女は大きな乳母車に乗せられた状態で、ただぼんやりと。



 まるで本物の人形のような生気のない顔で、何もない空中を見つめていた――




「コーリー、あれは」

「彼女はニーナです。ドナの娘で……」

「ニーナは昔罹った原因不明の病気のせいで、歩行困難な状態なんだよ」


 マリアージュが厳しい表情で問うと、ユージィンとコーリーが沈んだ口調で説明してくれた。

 大きな乳母車に乗せられた痩せこけた少女。

 おそらくオムツをしているのだろう。

 乳母車からはみ出した足の下から、わずかだが臭気がした。

 しかしニーナの異様な状態は下町では日常の風景のようで、誰一人として気に留める者はいない。


「あの子はいつもああしているの?」

「そうですね、ドナが露店で働いている時は大概……」

「年はいくつ?」

「確か今年で15になるはず」

「病気に罹ったのは?」

「確か10年ほど前かと……。あ、ドナ」


 その時ちょうどドナと目が合い、コーリーが笑顔で手を振る。


「こんにちは。私達にもスフレケーキ、三つもらえるかな?」

「まぁ、コーリー。帰ってたの? 久しぶりね」


 コーリーはマリアージュからのお小遣いをバッグ取り出し、早速ドナのケーキを購入した。その後すぐにニーナにも近づき、彼女と視線を合わせるようにしゃがみ込む。


「ニーナ、元気だった? 今日は天気もいいし、暖かくて気持ちいいね」

「……………」


 コーリーが話しかけると、一瞬ニーナの瞳がぎょろりと動いた。けれどすぐに視線を宙に戻して、無反応になってしまう。


「娘さん、小さい頃に原因不明の病気のせいで、動けなくなってしまったらしいわね?」

「……? あなたは?」


 次にマリアージュがニーナに近づいた。

 ドナの質問をまるっと無視して、動かないニーナの腕を取って脈を診る。


「ニーナが病気に罹った時の症状は? 高熱が出たのかしら?」

「ええ、それこそ体が燃えているんじゃないかと思うほどの熱が出て……。――って、コーリー、この人一体何なの?」

「ええと、そのぅ、安心して。友人のマリアは医術士なんだ」

「医術士!?」


 マリアージュが医術士だと知った途端、ドナの顔色が変わった。

 その変化を観察しながらも、マリアージュは黙々とニーナの診察を進める。


「どう? 腕のここを押してみたけど、痛みや感触はある?」

「………」

「ちょっと目を見せて。……あら、結膜が少し白いわね。貧血気味なのかもしれないわ」

「………」

「歩くことができないらしいけど、骨に異常があるのかしら?」

「あ、あの医術士様……」


 マリアージュがしゃがみ込みニーナの足の状態を調べていると、ドナが不安そうに声をかけてきた。


「ありがたいんですけど、うちは診察料を払えるほど裕福じゃなくて……」

「別にいりませんわ。私が気になるから診ているだけのこと」

「まぁ……」

「ドナ、安心して。マリアー……じゃなくて、マリアの腕の良さは私が保証するから!」


 コーリーの言葉に、ドナだけでなく周りの者も反応した。

 「ちゃんと医術士様に診てもらえてよかったじゃないか!」「これで少しでもニーナの状態が良くなればいいな!」――と、みな自分のことのように喜んでいる。


「み、皆さん、ありがとうございます。ニーナが高熱で倒れた時、あなたのような優しい医術士に診てもらえていれば、この子も今頃は元気だったかも……」


 ドナは周りに頭を下げながら、目尻に涙を滲ませた。憂いを含んだ微笑はどんな姿になっても我が子を愛する、聖母のごとき美しさだ。


「ユージィン、この町に医術士はいないの?」

「ああ、俺が知る限りではいないな。この辺りに住む人間は、病気になっても薬屋で薬を買って飲むくらい。あとは自力で治すかのどちらかさ」

「そうそう、大体医術士様に診てもらえたとしても、高額の治療費なんてオイラ達には払えないからな!」

「まったくだ! なんて世知辛い世の中だろうねぇ」


 ユージィンの言葉に乗っかるように、客達の口から世の中への不満が漏れた。

 わかっていたことだが、上流階級と庶民との暮らしには、天と地ほどの差がある。

 庶民は治癒士どころか医術士に診てもらえることさえ稀だという事実。

 それはヴァイカス王国の社会保障制度がどれだけ脆弱であるかを物語っているだろう。


「ニーナはもしかしたら腎臓に疾患があるのかもしれないわ。もしくは亜鉛欠乏症、もしくは糖尿病の疑いがある」

「えっ!?」

「ほら両手両足の爪を見てごらんなさい。表面に白い横筋が入っているでしょう? これはボー線条と言う特有の症状なの」

「あ、本当だ……」


 マリアージュは爪の色が見えるよう、ニーナの手を再び取った。ニーナの爪は血色が悪く、何かの感染症にかかっているのか一部は緑がかっている。


「ドナ、ニーナの父親は? 身内に腎臓疾患を持った方はいる?」

「お、夫はこの子が生まれてすぐ病で亡くなって……。私の身内に腎臓を悪くした者はおりません」

「なるほど。遺伝性ではないのかもね……」


 話を限り、どうやらドナはシングルマザーのようだ。

 きっと彼女は苦労しながら女手一つで、障害のある娘を育ててきたのだろう。


「ならば近いうちにニーナを王立医術院に連れていらっしゃい。詳しく検査するわ」

「えっ!? お、王立医術院!?」

「ドナ、言ってなかったけど、私もユージィンもファムファロスを卒業した後、王立医術院に就職したの。マリアはそこの医術士で……とにかく彼女に任せればニーナもきっと良くなるから!」


 王立医術院の名が出た途端、周りから「おおっ!」と大きなどよめきが起こった。下町からすれば王立医術院は雲の上の世界。普通ならば関わりあうことのない施設である。


「そ、そんな夢みたいな話……。本当によろしいのですか? 治療費は……」

「ニーナを研究対象としていいなら、無料で構わないわ」


 マリアージュは敢えて医術士という身分を強調して、自分が貴族であるという明言は避けた。

 ドミストリ公爵家の名前を出せば、ニーナの治療費くらい難なく出せるだろう。

 だがこの国で障害を持ち、苦労している親子はドナ達だけではない。

 その全てを救えるわけでもないし、マリアージュはそこまで慈善家でも篤志家でもない。

 だが医者の端くれとして、ニーナの病状を知ってしまった以上、無視することはできないと思ったのだ。


「本当にありがとうございます。なんとお礼を言ったらいいのか……。あ、そうだ!」


 ドナは満面の笑顔でエプロンのポケットから一枚の紙を取り出す。


「つまらないものですが、これよかったらどうぞ。私が勤めている食堂の無料券です」

「ここだけじゃなく、他所でも働いているの?」

「はい、夜は東通りにある『踊る仔兎亭』で給仕をしています。お礼に今夜の御夕食をごちそうさせて頂きます」

「やったぁ! マリア、仔兎亭のポークチョップは超絶品なんですよ!」

「あら、それはちょっと楽しみ」

 

 こうしてマリアージュは、本日の夕食にありつけることになった。

 ――が、皆が楽しそうに話している傍らで、やはりニーナは人形のように静かに虚空を見つめているだけだった。





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