第44話 百鬼家での平和な日々

(もう寝たのか)


 食事を終えてしばらくのうちはお土産や観光用の地図を眺めているようだったが、いつの間にか蒼葉は布団に移動していた。


 まだ夜十時にすらなっていない。


 朝方まで仕事をする生活に慣れている行雲は全く眠たくなかったが、旅先では夜更かししてもすることがない。


 暇つぶしに買った本を閉じ、灯りを消して彼女の隣に転がる。


「やはり俺は美味しいものには勝てないな」


 行雲はふっ、と息を漏らして笑う。


 旅館に着いた頃から蒼葉はいつもの自然体に戻っていた。

 結局、何が原因で機嫌を損ねていたのか、何のおかげで機嫌を直したのかは分からないままだ。


 惣田の手引き書とやらを無視したのは正解だったのだろう。

 結果的に蒼葉が楽しく過ごすことができたのならそれで良い。

 

 新婚旅行と言いながらも、行雲にもまだはっきりと夫婦の自覚があるわけではない。

 ただ、蒼葉には一番に好いていてもらいたく、逆に蒼葉を護るのは自分でありたいとは思っている。

 

 自分が『美味しいもの』以下の存在であることは些か虚しいが、旅行中楽しそうに過ごす蒼葉を見て、急いで何かを変える必要はないと感じた。


 夫婦になるのならこれから二人の時間はたくさんある。

 これからは二人で色んなところへ行き、色んなものを見て、そのうち夫婦の意識が芽生えれば良い。

 

 行雲は彼女の柔らかな髪を撫で、「おやすみ」と言って背を向ける。すると後ろで身じろぎする音がして、細い腕が行雲の体に回された。


(これは……)

 

 こういう時、男はどうすれば良いのか。

 惣田の手引き書に夜のことも色々書かれていたが、馬鹿らしいと思って読み飛ばしていた。

 

「……蒼葉?」

 

 単に寝相が悪いのか、何かを抱いて眠りたかっただけかもしれない。

 暗闇の中、行雲がもぞりと振り返ると一瞬柔らかいものが額に触れた。

 

「おやすみなさい! 美味しいものと同じくらい旦那様のことも好きですよ」

 

 蒼葉はさっと布団をかぶり背を向けてしまう。

 

(……。……。今触れたのは唇か?)

 

 突然の出来事に行雲は固まった。


 彼女が何を思ってこのような行為に出たのか、自分は一体どうすれば良かったのか。あれこれ考えているうちに朝が来る。

 

 一睡もできなかった行雲に向かって、朝、蒼葉は少し照れた様子で「無事に新婚旅行が終わりましたね」と言うのだった。

 

◇◆◇

 

 蒼葉は「新婚旅行をやり遂げたぞ!!」という気持ちで百鬼家に帰って来た。


 事前学習のかいあって新婚旅行の催しをそこそこ上手くこなせたように思ったが、夏帆に話したところ「それは色々違うと思います……あの本で何を勉強したんですか?」と言われてしまった。

 

 帰り道、行雲に喋りかけても返事がなかったのは、蒼葉との新婚旅行に満足がいかなかったからかもしれない。


(名誉挽回しなくては!)


 しかしながら、旅行している間に若い使用人が二人も増えていた。

 二人とも他の家でお手伝いをしていた経験がある優秀な人材で、蒼葉は家事労働で名誉挽回する機会を失った。


 なんでも、お義母様はこれを機に家事は全て使用人に任せ、趣味事をしながら暮らすのだという。


「というわけで、家事は私たちの仕事になるので、蒼葉様ものんびりお過ごしください」


(ええ……!)


 することがなくなってしまった蒼葉は行雲のもとを訪れたが部屋は空っぽだった。彼は帰ってきて早々忙しくしているらしい。

 

 仕方なくレイにお土産を渡しに行くと、彼女は実家の人間を呼び寄せ百鬼家を引き上げる準備を進めているではないか。

 

「レイさん、ご実家にお戻りになられるんですか?」


 てっきり彼女はここへ残り、蒼葉と行雲を巡った女の闘いを続けるものと思っていた。


「そうよ。言っておくけど貴女に負けて出ていくわけではないから」

 

 レイは髪をばさりと払って言う。

 彼女曰く、行雲より素敵な人と出会ってしまったらしい。


 その人は頭に毛がなく無精髭を生やしていて、強くて優しく、渋くてかっこいいそうだ。

 「散歩中、車にひかれそうになったところを助けてもらったの。運命だと思ったわ」と頬を染めて語っていた。

 

 彼女から意中の人物について話を聞けば聞くほど、脳裏に大佐の顔しか浮かばないがきっと偶然だろう。


 お土産の干物は要らないと断られてしまったが、彼女はとても機嫌がよく、最後は「貴女は堅物な旦那様とどうぞお幸せに」と蒼葉を祝福して出て行った。


(一件落着……なのかな?)


 図らずしも百鬼家での『すろーらいふ』が幕を開けた。


◇◆◇


(ふんふんふ〜ん)


 夜、蒼葉は鼻歌を歌いながら自室で縫い物の練習をしていた。

 

 旅行から一ヶ月ほど過ぎた現在、蒼葉は少しずつ家の手伝いをさせてもらいながら、踊りの稽古に行ったり、お裁縫の練習をしたりしている。

 

 なんと、お裁縫はお義母様が教えてくれることになった。


 恥ずかしくて外には習いに行かせられないという建前だったが、お義母様なりに蒼葉を百鬼家の嫁として認めてくれたのかもしれない。


 叱られることはあれど、以前のように箒で殴られたり、倉庫に縛り付けられたりすることはなくなった。

 

(旦那様は元気でやってるかな……いたっ!)


 他所ごとを考えたせいか、久しぶりに指に針を刺してしまった。


 行雲は謹慎処分が解けて以来、遠方の妖絡みで忙しくしているようで、なかなか顔を合わせる機会がない。


(寂しいけど、お仕事だから仕方ないよね)


 本当は旅行した時のように一緒にご飯を食べたり一緒に出かけたりしたいが、それは蒼葉の我儘だ。

  軍人の妻というのはこういうものだろうと自分に言い聞かせている。


「蒼葉様、ちょっと良いですか?」


 こんこんと扉を叩く音がした後、僅かに開いた隙間から夏帆の声が聞こえた。


(こんな時間に何だろう?)

 

 彼女について洋館の応接間に向かうと、白い着物が衣桁いこうに掛けられ置かれている。

 西洋風の部屋とは雰囲気が合わないが、ここしか置く場所がなかったのだろう。

 

「これは?」

「結婚式の衣装です」


 夏帆はさらっと言ってのけた。


「けっこん、しき?」

「今週末、お知り合いを招いて正式に祝言しゅうげんをあげられるそうですよ」


 蒼葉は瞬きを繰り返す。

 百鬼家で結婚式が執り行われる予定など、何も聞いていない。今週末とは急な話だ。


 「どなたの結婚式でしょうか?」

「行雲様と蒼葉様のに決まってるじゃないですか! さぁ、衣装を合わせましょう」

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