柏駅のハルキシさん1



<第五章 柏駅のハルキシさん>


なにかを考える余裕を、結局一晩経っても持つことができないまま、容赦なく次の日はやってきた。


かろうじて、「明日会おう」と沖田くんに誘われて、ハイと返事をしたのは覚えている。


ベッドの上は、散乱した私の服で布の海となり果てていた。


当たり前ながら、何度見直しても、同じ服しかない。今までも一応それなりに気を張った服装で沖田くんとは会っていたつもりだけど、彼女となった(はずの)今、なにを着ていけばいいのだろう。


彼女。


沖田くんの。


私が。


「うぐうっ!?」


謎の奇声を上げながら、なんとか理性を持ち直して服を選ぶ。私にはかわい過ぎるかと思って敬遠していた水色のワンピースに、思い切って袖を通した。


時計の針は、恐ろしい速さで回っていった。


遅刻は絶対にしたくなかったので、余裕をもって家を出る。約束は十一時、待ち合わせをしているのは沖田くんの家の近くのカフェで、うちからは三十分くらいで着くところ。


本当は沖田くんが、私の家の近くのお店で会おうと言ってくれたのだけど、うちの近所というのがなんだか恥ずかしくて、頼み込んで柏のお店にしてもらったのだった。


柏駅に着いた時、時刻は十時だった。早過ぎる。でもいい、先に行って待っていよう。




改札からロータリーへ出た時、夢見心地で歩いていたところに、冷や水を浴びせられたような気持になった。


独特の銀髪。痩せた長身。昼間に見るといっそう存在感を放つ、黒を基調にした服装。後ろ姿だったけど、見間違えるはずがない。


「ハルキシ、……さん」


どうしていいか分からずに立ち尽くしていると、向こうがくるりと振り返った。


「あ。いやがった」


ハルキシさんはつかつかと私の方に歩いてきて、すぐに、一メートルほどまで距離が詰まる。


「瀬那の駅が柏で、お前もこの辺だって聞いてたから、一日張ってれば会えるかもと思ってな。とはいえ、二三日で収穫がなければやめるつもりだったけどよ。まさか一日目の朝に見つかるってのは、おれ、ついてんな。あー、黒い服あっつい」


「あ、の……沖田くんに、なにか。それとも」


「どっちでもよかったんだけどな。お前にはお前で言っておきたいことがあったから、お前でいいや。ちょっとつき合えよ」


「わ、私、待ち合わせをしていて」


「どこかの店に入ろうってんじゃねえよ。そこの駅ビルでいいや。日陰でっつってんだよ」


明るい時間帯のせいか、ハルキシさんは、夜に会った時よりも、どこか毒気がなかった。こころなしか、体も小さく見える。まるで、家に帰る道を忘れてしまった女の子のように。


昼間だし、人目もあるし大丈夫、と私は後をついていく。


駅ビルのガラス扉をくぐると、ハルキシさんはすぐに、くるりと私に向き直った。


「……いいか。お前にだけは、言っておく。それくらいは、悪くもないだろう」


「は、はい?」


ハルキシさんは、すうっと目を細めると、小さく息をついて、言った。


「……あたしは、女だ。手術も受ける。自分の金で」


すぐ傍を、人が歩いて通り過ぎていく。


「そう……なん、ですか」


そう答えるのがやっとだった。


「そうなんですかとは冷たい女だな」


「ち、違います! そういうつもりじゃ……で、でも、どうして私に……」


「瀬那には嘘ついちまったな。でも、……いや、だからこそ、この世に一人くらいは、瀬那の周りで、本当のことを知ってるやつがいてほしい。でないと、あたしがかわいそう過ぎるだろ?」


かわいそうかと訊かれると、私には、なにも言えなかった。はいともいいえとも。


それでも、ハルキシさんが、色んなことを考え尽くした結果、私にこの吐露を告げているのだということは分かった。


あのナイフを向けてから、一晩、この人はなにと向き合って、なにを決めてここに来たのだろう。


それを考えると、私もできる限り、誠実であろうと思えた。


「だから、疑うな。信じてろ。あたしの性別が変わる、その日までは」


「……信じますよ」


きっと、覚えています。


それは約束できる。


ハルキシさんが視線を足元に落とした。そして、軽くえづくようにして言う。


「瀬那は、さあ。あたしと、会ったことを、さあ、人生の、無駄だったとか、損したなとか、思うのかねえ」


「……そんなわけがないです。出会ったのも、好きになったのも……ハルキシさんでよかったって、そう思ってるはずです」


これも、確信を持って言える。


「瀬那のやつ、仕事はしないし歌舞伎にも来ないんじゃ、もう会えないよなあ。あたしは、瀬那と会えなくなるのは、凄く寂しいんだけどなあ」


「会いたいって言えば、会えますよ。沖田くんは、絶対に嫌がらないです」


「は。絶対かよ。ああ、だめだ。やっぱり、明るい時は気が緩んで」


そういうものなのか。でも、それを承知で、ハルキシさんはここに来た。


「……あの、ハルキシさん」


「なんだよ」


「沖田くんに、手術が終わったら、そうと教えてくれませんか」


十秒か、二十秒か。


沈黙の後、いったん背筋を伸ばしたハルキシさんは私に合わせて軽くかがみ、


「考えとくよ」


「……あ、でも」


「ん?」


「沖田くんは、ハルキシさんが手術を受けたら、遠くに離れていてもそれが分かるような気がします。なんとなく」


ハルキシさんが半眼になった。その目の細め方が、どことなく沖田くんに似ている。


「こええよ」


「す、すみません」


ハルキシさんはくるりと背中を向け、「帰る」と呟いた。


「あ、あのっ! 私でよかったんですか!? 沖田くんに、会った方がいいんじゃ!」


細い背中がこちらを向いたまま、返事が返ってきた。


「瀬那を男娼にしたことは、今は後悔してる。いや、ずっと悪いとは思ってはいたのに、やめさせなかった。だってそうしておけば、あいつが傷ついた時、ほかの誰よりあたしのところに来てくれるだろ? ……だから、今は会えないね」


「でも、ここまで来たじゃないですか。私と沖田くんどっちかなんかじゃなくて、本当に会いたかったのは、」


「お前意外に食い下がるな。その気力に免じて、あと一個だけ教えておいてやるよ」


ぱらぱらとある人通りにちらりと目をやって、ハルキシさんはもう一度私のすぐ前に来た。


ささやくような声は、空気を最小限に震わせて、私の耳に届く。


「あたしがあいつの初めての相手なんて嘘だよ。男役も女役もどっちもしてない」


「それは……聞きました」


「そうか。あいつ、バニラだからな。顔がいいから客はよく食いつくけど、そのせいで、仕事でもリピーターは多くはなかったな」


なにか重要事項のように言われたけれど、今一つ意味が分からなかった。


「……アイスの好みですか?」


「あん?」


「バニラってなんです?」


するとハルキシさんは、呆れたような笑顔を浮かべた。


「さああねえ。瀬那に訊けばいいだろ。喜んで教えてくれるわ。ちゃんと訊けよ。今のが、あたしがお前にくれてやれる中で、一番いい話かもしれないんだからな」


ハルキシさんが私から身を話す。


冷房の中でかすかに感じていた体温がすっと離れ、ひどく物悲しい気持ちになった。


ハルキシさんと私は、仲良くもなんともない。お互いに知らないことや、知っても分かり合えないことがきっと多い。


でも。


「ハルキシさん、もう手首切ったりしませんよね」


「ああ、手首ね。しばらくは予定はねえな。ほら」


ハルキシさんが、ズボンのポケットからひょいと細長い刃物を出したので、ぎょっとした。一応鞘はついていたけど、その鞘を、細い指が外してしまう。昨日のナイフだ。


「見てみろ。分かるか? 昨夜は見えなかったろうが、刃が潰してある。もうずっと前から、あたしはこのナイフしか持ってない。……カッとなった時に包丁出したのは、……悪かった」


ハルキシさんが、左腕を差し出した。明るいところで見ると、赤と紫の筋がいくつも走っているのがよく見えて、一層痛々しい。


でも、目を背けはしない。


「よく見ろ。切り傷はどれも古いもので、新しい怪我は打撲ばかりだろ。このナイフを叩きつけた跡だよ。どんなに痛くても、死ぬことはない」


死なないからって。


どうして、そんなことをするんですか。そんなナイフで、なぜわざわざ自分を傷つけるんですか。


そんな私の疑問は、顔に出ていたのだろう。


「本当に死んでしまわないようにと、思うようになったんだ。そうでないと、捨て猫みたいなクソガキが、会いに来れなくなるから……」


ハルキシさんは、切れ味を失った刃先を見つめる。


「昨夜、ずっと考えてた。……あたしをこんな風に変えた、あいつのこと……そうしたらこんなところまで、ノコノコとな……ははは」


私は、たまらない気持ちになって、スマートフォンを取り出した。


「連絡先、交換しませんか」


「冗談だろ」


私はバッグから手帳を出して一枚破り取り、


「じゃあ、これ私のハンドルネームです。変わった名前だから、人違いはしないと思います。私、ネット上で小説書いてるんです。ネットでお話しませんか。したい話だけすればいいんです。私にだって、沖田くんにだって」


あっけにとられているハルキシさんのポケットに、紙片を突っ込む。


「お前、友達めちゃくちゃいるか、めっぽう少ないかのどっちかだろ」


「……後者です」


「……まさか、瀬那と巳一郎だけか?」


「いえ、クラスに三人、趣味で一人、女子の友達もいます。友達がほぼゼロだった中学の時から考えたら、破格です」


ハルキシさんは、憐みの視線を隠そうともしないまま小さく嘆息して、


「あたし、小説なんか読まねえぞ」


「いいですよ。……沖田くんに読んでもらって、知ってる人に読まれるとどんなに恥ずかしいか思い知りましたし」


「連絡もしねえ」


「いいです。時々、あいつなんかやってるなって見てさえくれれば。そのつもりで、投稿し続けます」


「は」


ハルキシさんが背中を向けた。


今度は、振り返らずに歩いていく。


そして、


「このナイフはまだ持っておく。必要なくなったら、捨てる。多分そうなる」


周りにはばからずに、大きな声でそう言った。


「はい!」


ハルキシさんの姿が、駅に消えた。


私も、沖田くんとの待ち合わせ場所に歩き出す。


今あったことのなにを話して、なにを黙っておこう。


ぐるぐると考えていたら、カフェにはすぐに着いてしまった。


すると、沖田くんもちょうど来たところで、一緒にお店に入って、私はアイスティ、沖田くんはアイスラテを注文した。


「むう……」


「な、なに、沖田くん?」


「衿ノ宮、今日はいつにも増してかわいいな。もっともこれは、改めて彼女として君を見るおれの欲目かもしれないが。まあ、欲目を差し引いても事実は変わらないので、どの道かわいいわけだけど」


沖田くんの独特な――少なくともほかの男子がこういう女子の褒め方をしているのは聞いたことがない――褒め方は、直球さが増した分、ひときわ照れくさい。


「あ、ありがとうございます」


「ますって」


私は今、沖田くんと、彼氏と彼女として向かい合っている。


今さらながら、夢を見ているみたいだった。


やがて飲み物が届いた時に、ふと思い出して、沖田くんに訊いてみた。


「沖田くんて、バニラなの?」


「アイスの趣味か? いや、どちらかといえばチョコレートが」


「そうじゃなくて、ハルキシさんが、沖田くんはバニラだって言ってたの」


沖田くんの顔が固まった。


ハルキシさんの名前を出したのはいけなかっただろうか。でもどの道、さっき会ったことを隠すつもりはない。


けれど、意外なことに、沖田くんはどんどん赤面していった。初めて見る顔かもしれない。


私は慌てて、ハルキシさんに言われたことを説明した。バニラだから「仕事」のリピーターが少なかった、というようなことも。


「あの……野郎……余計なこと……。いや、事実だよ。事実だけどな。最初のデートで、する話か……」


デート。私は、そっちの単語に一気に意識を持っていかれかけた。


あれ、でも、バニラというのはデートの場にふさわしくなかった?


沖田くんが、向かいの席から立ちあがって、私のソファの横に座った。


「お、沖田くん?」


「静かに。あのな。多分そんなに一般的な用語じゃなくて、おれらの周りだけだも知れないが……」


耳打ちされて、恥ずかしくもくすぐったいような気分に浮かれていたのは、最初だけだった。


「……だからつまりだな、結合を伴わないで、そういうことをするやつのことを……ちょっと揶揄する感じで……由来はよく分からないけども……バニラと……」


言葉の内容を解説されるにしたがって、私はどんどん立つ瀬のない気分になっていった。


説明を終えた沖田くんが、向かいの椅子に戻った。


「ほかに、あいつなにか言ってたか?」


「言ってたけど、……言えない」


「そうか……そんなに過激な用語を……」


「じ、じゃなくて!」


「……そう約束した?」


うん。


「それならそれでいい。……ハルキシの性別の話でもしたのかと思った。おれは、今でもあいつは女だと思ってるから」


ぎょっとして、慌てて表情を引き締める。遅かったかもしれないけれど。


「ハルキシは、気に入った相手には嘘をつくんだ。そうして、お互いに遠ざからせるところをよく見た。とはいえ、あいつの話ばっかりで貴重な衿ノ宮との時間を消費したくないな。というわけで、話を変えよう」


「はい……そうしましょう」


バニラのせいですっかり小さくなった私に、沖田くんが視線で「顔を上げて」と言ってくる。私はそろそろと背筋を伸ばした。


「単刀直入に言うぞ。衿ノ宮の小説は消さないでほしい。消去しようと思えば、いつでもできるだろ。でも文章って、同じ書き手でも、二度と同じものは書けないような気がするから」


「……うん。そう言ってもらえるの、嬉しい。で、でも、沖田くんたちがモデルのやつだけは消すね。これは、私が、そうした方がいいと思うから……」


沖田くんが苦笑してうなずく。


「なんだかいろいろあったけど、夏休みもうすぐ終わるな」


「うん。……いろいろあったね」


「二学期が始まる前に、いろんなところに行こう。衿ノ宮の行きたいところも、おれの行きたいところも」


「うん」


八月の太陽は、窓の外で眩しい光を注ぎ続けている。


いくつもの変化が、この一月あまりで私たちには訪れた。


そのどれもが思い出に変わっていくとしても、まるで昨日のことのように、この夏を私は思い出す気がする。


目の前の人の、特別な笑顔とともに。



二学期が始まり、やがて九月の終わりが近づくと、さすがに残暑は弱まってきていた。


沖田くんは熱があるということで学校を休んでおり、放課後の屋上のパラソルの下には私と神くんだけがいた。


「よーしよし、過ごしやすい季節になってきたなあ。エリーは、今日は瀬那の見舞いに行くのか?」


「うん。神くんは?」


「おれは、間もなく始まる生徒会役員投票の準備で忙しくてな。まあ、危機にあってもあえて会わない仲こそ、真の信頼関係があるといえよう」


「沖田くんと、会いづらい?」


空を仰いでいた神くんが私の方へ向き直る。


「……なにかのかまかけか? エリーにしては珍しいが」

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