マクガフィン -代替えの花嫁が本物の花嫁になる-

豆茶漬け*

プロローグ

第1話

 夜も更けてきた頃、とある部屋の前で慌ててきた様子の寝巻き姿の女性が、息を切らして立っていた。女性は走ってきたのか肩を上下に揺らしながら、乱れた息を整えようと数回深呼吸を繰り返した。月明かりが照らす廊下に女性のくるくるとしたブロンズの癖毛が反射して輝いているようにも見える。

 女性は息を整え終えると、ごくりと唾を飲み込んでから部屋の扉を叩く。コンコンと乾いた音が誰もいない廊下に響く。部屋の中からはしばらく何も返ってこなかった。しかし少し待つとゆっくりと扉が開いた。中からは女性と同じ色の髪をしたストレートロングの女性が立っていた。

「リーン……?どうしたの、こんな夜更けに」

 ストレートヘアの女性は夜の色を溶かし込んだような蒼い瞳を見開きながら癖毛の女性、リーンを出迎えた。

「部屋に入ってもいいかしら、お姉様」

 リーンは明らかに困った様子を見せながら上目遣いで姉である女性を見つめる。姉と呼ばれた女性、カルラは戸惑いながらも身体を少しずらしてリーンを部屋の中へ迎える。

「どうしたっていうのよ。明日は大事な結婚式の日なんだから、ゆっくり休まないといけないでしょ?それとも、緊張しているの?」

 リーンはカルラの言葉には返事もせず、部屋に備え付けられているソファに腰を下ろした。いつも周りを振り回すほど元気いっぱいな彼女とは一変して、とても落ち込んでいるようにも見えた。その様子はとても明日結婚式を迎える花嫁のものとは思えなかった。

 元気が見られないリーンは明日、とある殿方と結婚することになっている。昼間のリーンはそのことを嬉しそうに話し、結婚式の準備に追われていたのをカルラは見ていた。そんな幸せそうなリーンを見てカルラも安心していたのだが、今のリーンの様子を見ると何かあったのは確実だろう。

 だけどカルラはマリッジブルーか何かだろうと考え、悪いよには考えていなかった。だからこそ、次の瞬間リーンから出た言葉に自分の耳を疑った。

「お姉様……私、明日の結婚式には出ることができませんわ」

「……はぁ?」

「だから、結婚はしないと言ってるんですの!」

 リーンの言葉をうまく頭で処理できず聞き返すとリーンは強い口調で言い直してきた。

 結婚しないとはどういうことか。

 リーンのこの婚約は数ヶ月前に決まり、両家で結婚の段取りをよく話し合いようやくここまできたのだ。それに相手は首都で有力な貴族で、こちらから縁談を申し入れている。もちろんそれはリーンの希望あってのもであったはずだが、それなのに今になって結婚しないとは一体どういうことなのだろう。

 相手方の殿方も親族もすでにこちらに到着している。元からリーンは周囲を振り回す才能があり、いつもカルラ達はそれに振り回されてきたが、今回ばかりは本当に何を言っているのか理解したくなかった。

 花嫁がいない結婚式なんて前代未聞であろう。

「リーン、あなた……自分の言っていること、本当にわかってる?少し落ち着いたら?……それよりもどうして急にそんなことを言い出したのよ。分かっていると思うけれど、結婚式は明日なのよ。今更はいやめます、なんてできるわけないのはリーンにもわかるでしょう?」

 カルラは頭が痛そうに片手で頭を抱える。リーンの気まぐれで出た言葉にしてはタチが悪すぎた。

「十分理解してますわ。でも、私は結婚できないのです」

「あぁ、リーン。お願いだから冗談は明日を乗り切ってからにして。お姉ちゃん、流石にその冗談には乗ってあげられないわ」

「冗談なんかじゃありません!……私には他に好きな殿方がいるんです!だから、だからこの結婚はしたくないって言ってるんです!」

 リーンの涙を流しそうなほど必死の訴えにカルラの動きが止まる。

 先にも述べたが、この縁談はこちらから申し入れをして決まったものだ。もちろん発起者は目の前で泣きそうな顔をしている妹であるリーンだ。今回の婚約者に想いを寄せていたからこそ、リーンはこの縁談を押し進めたのだと思っていた。

 はっきり言えば、カルラの家と相手の家では身分に違いがあった。カルラの家は地方のど田舎の領主で、相手の家は首都に住む有数の公爵様だ。そんな身分違いの演縁談を進めるのに周りがどれだけ苦労したのか、リーンだって分かっているはずだ。そのどれもがリーンの幸せを願って背負った苦労だったはずだが、今、目の前で彼女はその人達の努力を踏み躙る言葉を口にした。それは決して言っていいことではなかった。

「リーン。今の言葉は聞かなかったことにしてあげるから、一旦落ち着きましょう」

「いいえ、お姉様。私は十分落ち着いていますわ。それに私は本気ですわ」

 カルラはクラクラとしてきた頭をなんとか持ち直して、リーンの横に腰を下ろす。そしてリーンの冷えた両手を取った。

「リーン。あなたは少し気の迷いを起こしているだけよ。一人でいるとあれこれ考えてしまうのなら、特別に今日は一緒に寝ましょう?」

 努めて優しく、小さな子供に言い聞かせるように話すがリーンは頭を横に振る。こうなったリーンは意地でも自分の意見を曲げることがないことをカルラは経験則上知っていた。

 面倒なことになった、とカルラはリーンの手を離し顔を覆いながら深いため息を吐いた。カルラはこの問題は一人では手に負えないと匙を投げたい気分になった。いくら可愛い妹とはいえ、庇える範囲には限度があるものだ。

「お姉様の言いたいこともわかりますわ。私もこの想いを秘めたままでいようかと最後まで考えましたわ」

 できることならそのまま胸の内に秘めていて欲しかったとカルラは放棄した思考の中で思った。

「ですけど、やはり自分に嘘をついて生きることは違うと思ったのです!」

 力説してカルラに語るリーンには申し訳ないが、どうか嘘をついてでも明日の結婚式までは乗り切って欲しかった。カルラはリーンの幸せを願っているが、今回ばかりは「協力してあげる」とは言ってあげられそうにない。

「……お姉様?聞いていますか?」

 リーンが何を言っても反応を返さないカルラに不安そうな瞳で顔を覗き込んできた。カルラは顔を覆っていた手を退けると疲れた様子で愛想笑いを浮かべた。正直何と返せばいいのかもうわからなかった。

 この件はカルラ一人では手に負えないと、カルラは判断した。今はリーンの話に合わせて、夜が明けたら家族と一緒になんとかしてリーンを説得するしかないと考えた。できることなら一晩経って、リーンの気の迷いであることを心の中で祈りながら。

「リーンの気持ちはわかったわ。だけど流石に私一人ではどうすることもしてあげられないから、明日父さんに相談しよう、いいね?」

「お父様は許してくれるでしょうか?」

 十中八九無理だろうと予測しながらカルラはまた曖昧に笑って誤魔化した。

「さぁ……もう休もう。明日のことは明日考えよう。リーンも部屋に戻ってゆっくりおやすみ。……あぁ、そうだ。明日父さんに相談するまではくれぐれも変な気だけは起こさないと約束して」

「……はい。分かりましたわ。……こんな夜遅くにも関わらず、お話を聞いてくださりありがとうございました」

 リーンは礼儀正しくお辞儀をすると素直に立ち上がり部屋を出て行こうとする。

 カルラは何とかやり過ごすことができたと胸を撫で下ろす。だが、その判断は大きな間違いであったとすぐに認識を改めることになる。

 カルラ派忘れていた。素直なリーンほど突飛なことをやらかす人間はいないということを。

 次の日の朝、使用人達が騒ぐ声でカルラは目を覚ます。ぼんやりとする頭をはっきりさせるように頭を左右に振ると大きな欠伸をした。年頃の令嬢とは思えない姿を父や兄、もしくは作法に厳しい教育係に見られたら間違いなく喝を入れられるだろう。

「カルラお嬢様!カルラお嬢様!」

 ベッドの上でうつらうつらとしていると急に勢いよく部屋の扉を叩かれる。そしてカルラが返事をする間も無く使用人の一人が部屋に入ってきた。

「リーンお嬢様はこちらにきていませんか!?どこにもお姿が見えないのです!」

 扉が外れるのではないかというくらい勢いよく開いたのと同時に使用人が泣きそうな顔で尋ねてきた。カルラは寝起きの頭で使用人の言葉を理解するまでに数秒かかった。そして使用人の言葉を飲み込むと、頭を抱えた。

 本日の結婚式の主役であるリーン・ウォーカーは、その結婚式を目前にして家出をしたのだった。

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