第35話 この気持ちが愛じゃないというならば

 草世は鶏を飼っている農家から卵をもらって、ちょうど家に帰ってきたところだった。


「今夜は卵の袋とじ煮にしよう。油揚げの中に卵が入っているのを見たら、真珠、驚くぞ」

「先生っ! 真珠が!!」


 春子は玄関先の柱に手をつき、ゼーゼーと肩で大きく息をする。髪は乱れ、気の強い顔は涙で濡れている。


「どうした? 真珠がなにか?」

「狐……狐かもしれなくて……」


 草世の体から血の気が引き、目の前が真っ暗になった。

 真珠は清楚な外見によらず、食いしん坊だ。おいしいものを食べてびっくりし、獣耳か尻尾を出してしまったのでは! との考えが草世の頭をよぎった。

 なんと言って誤魔化そうか。懸命に言い訳を考えていると、春子の震える声が言い訳を打ち砕いた。


「毒を飲んで、倒れて、目を開けなくて……」

「毒⁉︎ どこにいる!!」

「私の家に……」


 草世はすぐさま竹でできた水筒に水を入れると、外に飛びだした。草履が片方脱げたがそのまま走り、途中でつまづき転んでも、手についた砂を払う暇を惜しんで走り続けた。

 春子の家の庭先に青い着物が見える。


「真珠っ!!」


 力なく横たわっている真珠の上半身を起こして、口を開かせる。口の中にはなにも残っておらず、刺激臭もしない。水筒の水を飲ませる。


「真珠!! しっかりするんだ!!」


 大好きな人の声に、真珠はうっすらと目を開けた。かすかに微笑む。


「草世……わたし、死んじゃう、かも……」

「馬鹿なことを言うな! 絶対に助けてやるからなっ!!」


 ぐったりしている体を抱きしめる。生気を失っていく体はあまりにも弱々しく、抱きしめても返ってくる力はない。


「白狐が来たのか⁉︎ 掟を破った罰として、毒を飲ませたのか!!」

「違う……」

「だったら、誰がっ⁉︎」

 

 真珠は苦しそうに顔を歪めると、意識を手放した。再び閉じられた、まぶた。

 意識が途切れたことで変身が解け、白狐の姿に戻った。

 草世の腕にすっぽりおさまるほどに小さな、狐。草世が贈った揺れものかんざしが地面に落ちた。


「真珠! 真珠ーーっ!!」

 

 草世は、簪をズボンのポケットに入れるとすぐさま立ちあがった。真珠狐を抱え、春子の家を後にしようとする。

 庭から出てすぐの生垣で、息を切らせている春子と対面した。

 草世の腕の中にいる白い子狐。春子の目が驚きで見開かれる。


「……やっぱり、狐、なの……?」

「誰が毒を飲ませたんだっ!」

「私が……」

「君が⁉︎ なぜ⁉︎」

「村にいた虚無僧が、真珠は狐だって……人間を騙しているって、だから、私……」

「虚無僧が? なんの毒を飲ませたんだ⁉︎」

「知らない。だけど、人間には害がないけれど、狐には毒になるって……。吾平に飲ませてもなんともなかった。だから、私……」

「ああっ、もう!!」


 草世は気が狂いそうなほどに混乱し、この世を呪いたくなった。


(なんで虚無僧が毒を? 人間には害がないけれど、狐には毒になるって、どんな毒なんだ⁉︎ 聞いたことがない。どうやって真珠を助けたらいいんだ!)


 春子は泣き濡れながら、自己弁護をする。


「真珠は狐だった! 人間じゃなかった。狐が人間に姿を変えて、私たちを騙していたの! 人間だったら、こんなことにはならなかった。私は悪くない! 先生は騙されていた。私は先生を助けようと……」

「真珠が狐だって、最初からわかっていた! わかったうえで、受け入れたんだ!!」

「へ……」


 驚いて、声が裏返る。涙と興奮が静かに引いていく。


「真珠が狐だって、最初から知っていた……?」

「それよりも、毒のことを教えてくれ! 解毒法を聞いているか⁉︎」 

「知らない。なにも、知らない……。ねぇ、先生。狐なのに、なんで真珠と一緒に暮らしているの? お嫁さんにするの? そんなの、おかしい。狐は人を騙す悪い生き物なのよ。真珠は、みんなを騙そうとしてここに来た。そうよね……?」

「もういいっ! 君と話しても埒が開かない!」


 苛ついている草世。彼の腕の中には、ぐったりとしている白い子狐がいる。

 春子の本音としては、狐だからといって真珠を見殺しにしたいわけじゃない。真珠の純粋さをよく知っているし、一緒に過ごした日々は楽しかった。人間を騙す悪い生き物だとは、到底思えない。

 けれど、人を騙す悪い狐だと思わなければ、自分のしたことの恐ろしさから逃げられない。


「ねぇ、先生。別に助けなくても……だって、狐だし……。狐なんて、山にたくさんいる。し、しろい狐って、変わっているけれど、でも、狐だし……。人間じゃないんだもの、死んだっていいじゃない。……先生は、真珠に愛情を感じているわけじゃないんでしょう? 寄ってきたから、仕方なしに面倒を見ているだけなんでしょう? 愛とか、そういうものではないんでしょう?」


 お願い、愛じゃないと言って——。すがるように、祈る。

 草世は、真珠狐に視線を落とした。柔らかな毛と体温と心音を感じながら、想いを口にする。


「この気持ちが愛じゃないというのなら、世の中の愛の定義のほうが間違っている」

「先生……」


 草世は泣き崩れた春子に目を向けることなく、走りだした。

 

 白藍は言っていた。「困ったことがあれば、私を頼ってください。お助けいたします。小麦峠で、白藍と、私の名を呼んでください。白狐村に入る、異界の扉を作ります」


 草世には、白狐の体について知識がない。真珠をどうやって助けてやったらいいのか見当がつかない。 

 白藍は信頼できるのか。不安は拭えないが、他に頼れる者がいない。白藍に頼んで、白狐族の長にとりなしてもらおう。

 真珠を助けたい。その一心で、草世は小麦峠へと向かった。


 

 



 

 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る