01

「…私が生まれたのは1475年、スイスの貧農地帯だった」


【へっ、スイス?!】


「ああそうだ。そうだな、今からすれば548年も前になるかな」


ソラの口からすべり出した途方も無い歳月を前に、啓司はなんと返すべきか思い倦ねて開きかけていた口をまた閉めた。


「……なんだ、その顔は。お前が教えろと言ったのだろうが」


鳩が豆鉄砲をくらい、さらにバケツ一杯の冷水を浴びたような表情で硬直する啓司の反応を見たソラは「やはり止めようか」と溜息をつく。


【いや…】


しかし、間髪入れずに入った「待った」の声に目を瞠った。


「…止めないで続けてくれ。その…時間のスケールのでかさには驚いたけど。お前の話を、もっと聞きたい」


「続けて、いいのか?」


【ああ、頼む】


降ってきた優しい手に髪を撫でられ、ソラは反射で目を閉じる。意図しない反応に戸惑いながらも、やはり反駁は起こらなかった。


「そこでは、貧しかったが医師を志す兄と祖父と共に暮らしていたんだ。けれど貧しさに病はつきもので、診療所を訪れる患者が尽きない忙しい日々を生きていた」


【医者、だったんだなお前も。…痛っ】


話を聞きながら、啓司はふい走った強い頭痛に蟀谷こめかみを押える。話を聞いている最中にも軽い痛みを感じていたが、気にするほどでもなかったので気の所為だと思い込んでいた。

だが…まさかここまで強い痛みになるとは、考えもつかなった自身の浅慮に眉間のシワを深めた。


「どうした。痛むのか?」


目を閉じた啓司の脳裡に、アナログテレビの砂嵐が乱れる。ひとしきり特有のノイズが流れたあと、音声のない「映像きおく」が鮮明に映し出された。

……医者になりたくて、両親の反対を押しきって上京したこと。ボストンバッグひとつ抱えて、慣れない一人暮らしを始めたこと。働きながら6年間大学に通い、やっとの思いで研修医になれたこと。

自分の年齢と名前以外を忘れ果てそれまで長らく虚ろだった啓司の中へ、不意唐突に、極彩色の記憶が濁流のごとく流れ込んだ。


「…大丈夫なのか? 私の話ならいつでもできるから、ムリをするな」


今にも消えてしまいそうな状態で明滅を繰り返す啓司を心底慮ったソラは、顔を顰めながら掌に自身の魔力を溜めるとその胸元に触れた。


【温かい。心配してくれんのな。嬉しいなぁ…】


性質は異なるが、少しでも存在を保つ糧になればいいと願いながら瞼を閉じるソラを、啓司は感極まりながら見つめる。


「と、当然だ! このまま消えたら寝覚めが悪いだろう…」


毒づきながらも、ソラは魔力を注ぎ込む掌を決して離さない。


【お前はそういう奴だよな、サンキュ。そう簡単に消えないから、安心しろよな】


魔力というか、個人を想う心があれば霊は充分充たされるので、啓司は優しくも確りとソラの手を握りとった。


「ならば良い。それで、お前が問題ないのなら…な」


複雑な心情を隠しもせず唇を尖らせる様子はただの女性でしかなくて、啓司は目を瞠ったあと赤くなった顔を隠すために掌で口元を覆った。


【話のコシ折って、悪かったな。続き、話してくれよ。今度こそちゃんと聞く】


「っ、…ああ」


長い時間を生きてきたが、今かつてここまで真剣に話を聞こうとする奇特な人間は、終ぞいなかった。

けれど、それなのに今は嘘偽りのない、真っ直ぐな眼差しが返事を待っている。

嬉しいのか、腹立たしいのか、さまざま雑多な感情が満ち溢れてきてソラは唇を強く引き結ぶ。

それ程までに心が掻き乱れて、ふいに足元から崩れていく錯覚に囚われた。


「その年の末に、発疹チフスで村人が大勢死んでな……。その治療にあたっていた祖父も…やがて同じ病で死んだ。あっという間のことで、私たち兄妹きょうだいは何も為す術はなかった…」


【それでもお前は、自分が最大限でできることをしたんだろ…】


「それは、そうなんだがな…」


【大勢死んでいく壮絶な環境の中で、お前はよくやった。並大抵の子供じゃ、堪えられなかっただろうぜ】


「啓司…」


【!】


初めて名を呼ばれ、嬉しい感情が沸き立つけれど、しかし啓司はいま最も優先すべき方を選んだ。それは、言うまでもなくソラのこと。

自分の事を説明するのが不得手な彼女のことだ、こちらから訊ねていかないと応えてはくれないし、しかも密かに静かに傷ついていくのだろう。


【なあソラ…】


死は生きていれば、いずれは等しく訪れるものだが、ここでいう大量死は生半ばでのものだ。


【ということは、お前に、身寄りはいないのか?】


「いや、兄が……一人いた」


【そっか…】


「兄がいたんだがな、訣別したあの日のことは今でも…一片ひとひらでさえ忘れられない」


大人しい口調とは裏腹に、こちらを見つめ返すソラの瞳は冷たく凪いでいた。


【訣別した? そりゃ、なんでまた…】


微妙な表情で小さく訊ねる啓司の反応を見て、ソラは内心で「何をしているのだ」と自身を嘲笑った。

彼は多分、それしか反応を返す方法がなかったのだろう。

身の上話を訊ねたら、突然に重い話をされたのだから無理もない。

動揺と落胆を悟られないように誤魔化しながら、衣類を総て出し終えた段ボールを畳んで脇に畳んで重ねた。


「兄はな、私たち兄妹を除いた全村人が死んだ日…村中に油を曳いて火をつけた」


【え…!?】


「兄は医者であると同時に、錬金術師でもあった。ゆえにだ、生家を始発点として特殊な陣形を描き…自身と祖父含めた全村人の命を礎にして、賢者の石…エリキシを生み出したんだ」


【おいおい、ちょっと待て。自分の身すら犠牲にして、村に火をつけた? お前の兄さんは、何でそんなことしたんだよ…】


身を乗り出す啓司を押し返しながらソラは溜息を吐く。


「それは、私にも解らない。家族のように暮らした親しい村人を亡くして…おそらく凡てに絶望した…のだろうな。遺された形見の賢者の石エリキシを携えて、当時15歳だった私は遠縁の親類を頼って生きるほか、手立てはなかった」


【15歳か。苦労したんだな】


15歳のソラを想像しようとして、啓司は当然ながら想像力の壁に突き当たる。

一人称が私なので、やはり当時から女性と捉えてよいのだろうか…迷うところである。


「ありがとう。でもその時代、10代で職に就くのは仕方がなかったよ。そうしなければ生きられなかった。それに、兄は左腕と賢者の石を残して、どこに消えたかも分からない。遺された賢者の石エリキシのせいで、私は人ではないものに寿命も身体も変質してこの通りさ。賢者の石エリキシが同調する気配があるから、おそらく兄は何処かで今もこの日本くにのどこかに存在し続けていることは確かだろう。私は兄を見つけ出して、すべてを終わらせる為に旅を続けているのだよ…」


ソラはイスナ荷物の中から写真を拾い上げる。母子が並んで写っている、おそらく家族写真だろう写真だった。

箱から取り出された写真はたったの1枚だけで、他は全て見慣れない道具ばかりが整然と並んでいる。

ソラ自身には母親の記憶はないので、しっかりと血縁をもつイスナが僅かばかり羨ましかった。


「さて、重くて暗い話は…これでお終い」


ソラは沈んだ空気を追い払うように微笑む。

そんな彼女がどうしようもなく痛々しくて、啓司は為す術もなく言い淀んだ。

これが、ソラを過去に繋ぎ止める禍根で、絶望。


 

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