05

「私としたことが…すまない。いま離れる」


【ちょい待ち…】


慌てて胸許から離れようとしたソラの細い肩を、啓司の大きな手が咄嗟に触れる。


【待てよ…。そんな急に、離れなくてもいいじゃねえか。……な?】


掴むほど大袈裟ではなく、かといって弱すぎない触れ方にソラは小さく息を詰め……やがてゆっくりと目をつむった。

こんな益体もない問答をしている場合ではないと、理解しているのに何故か、心が震える。

甘くて柔らかい、温もりを覚えずには居れない感情が脳裡にたれ込めていく…。


(─────ダメだ、それに触れてはいけない。

触れてしまったら最後、後には戻れなくなる!)


ソラは息を屈めて歯を食いしばった。

未分化の身体がまるで芽吹くように女性に変化していくのを感じながら、抵抗のつもりで下腹に力を入れる。

だが意図していないのにも拘わらず、依然として女性への「分化」は止まらない。

強制で未分化の状態に止めようとしているのに、自分の意思が全く働かないのが不安で、底知れない恐怖が迫り上がる。


「離せっ!! ……懲りない奴だ。また、恐ろしい目に遭うぞ」


不安への苛立ちを乗せてソラはきつく厳しい口調で啓司を突き放し、ぞんざいに言い捨てた。

そうすれば大抵の人間や霊魂は気分を害して離れていき、リスクは侵されない。

…これは予防線で、防波堤なのだ。

身体が、完全に女性として形成されてしまったら…なにが起きるか想像しただけでも恐ろしい。

居場所を得たとしてもソラ自身は人ではない上に、異形と人間がともに歩むには余りにも深すぎる溝がある。

予め決められた“別れ”を知りながら過ごすくらいならば、最初から手にしなければよいのだ。

これ以上、関わり合ってはならない。

……どうか、触れようとしないで。……


【な…んだよ。…んな急にデカい声で言わなくてもいいじゃねえかよ…】


「ふん。…不用意に触るな。また燃えたらどうするんだ」


気分を害したなら、それでよい。どうかそのまま嫌いになって、離れていけばいい。

口を尖らせて手を引っ込める仕草をする啓司を睨みながら、ソラは軽く全身を身繕いする。


「~~~~~~~~~っ!」


せっせと身繕いグルーミングして、何とか気を鎮めようと努めるが…その度、余計によく解らない感情がモヤモヤと思考を侵食していく。

それが理解できていない自身が不快で、理不尽に気ばかりが立った。


【それだって構わねえ。そうなったらお前が消してくれるだろ?】


「は?」


なぜ。なぜ笑う? 気分を害したなら、離れろ。

どうして思いどおりにいかない?!


「……まったく…。貴様という奴は、簡単に相手…それも他人を簡単に信用するばかりか、物事を楽観に考えすぎる…」


【そうかあ? 俺はお前のがカッテェ頭だと思うぜ。お前の場合、~~すべき! が多すぎんだよ。もうちっと、楽に物事考えようぜ】


「はあ、埒が明かない。頭が痛くなりそうだ…」


ソラは元来几帳面で、冷徹な性格である。啓司の楽観な人生観とは、どうにも反りが合わない。

それなのに不快ではないのだから、不思議なものだ。思わず眉間に寄ったシワを指先でならしながら、ソラは深く溜息をついた。


【俺さあ、絶対に体も記憶も取り返したら、お前と一緒に行きてぇ場所あるんだよ…】


「…なんだ、突然どうした。…一緒に、行きたい場所? お前のことだ、怪しい場所ではなかろうな…」


【まあまあ。それはそん時の“お楽しみ”だ。すぐ判っちまったら意味ねえだろ?】


不機嫌、しかも怪訝も露わに双眸をすがめるソラの態度にもめげず、啓司は飽くまでの希望をうそぶく。

そうでもして引き留めておかなければ、彼女が掻き消えてしまいそうだったから…啓司は苦い感傷を笑顔で誤魔化した。


「……そうか」


…ほんの少しだけでも腹を割って話ができたことを密かに喜んでいたソラは、胸に詰まっていた苛立ちがいつしか霧散している「理由」を不意に悟って、猛烈な羞恥にみまわれる。しかし、曲がりなりにも気分が浮上したソラは謎の追求を一時的に諦めた。

女寄りの思考をいだくことに対して、僅かな嫌悪が浮いては溶けていくが身体は依然として女性に分化しつつある。

未だ嘗てない性別の暴走に、不安は募っていくばかりだ。


「それも…そうだな。では、期が熟するまで楽しみに待つとしよう」


【そうそう。果報は寝て待て…って昔の諺にもあるだろ】


「…意外だな。コトワザを知っていたのか」


【いやいやいや、それくらい誰でも知っとるわ!】


「ああいや、莫迦ばかにしたんじゃないぞ? 純粋に驚いてだな…」


快活に笑う啓司の表情に危うく引き込まれかけて、ソラは内心慌てながら軽口を返す。


【ぬぁんだとう! なお悪いわっ】


「…だから、謝ったではないか。ヒトの話は最後まで聞……しっ……啓司、待て。静かにしろ…」


【お、おう…】


ようやく警戒心も薄れ、いつしか心地のよい応酬にすっかり馴染んでいたソラだったが、唐突に猛然と接近する「敵」の気配を感知し、左手で啓司を制した。


「口を閉じていろ、そのまま動くな」


じわり…紫灰色の双眸が猛禽の金碧にゆっくり変化していく中で、ソラは毅然と彼方の虚空を睨む。臨戦態勢をとる彼女の横顔をかんがみながら、啓司は受けた「指示」に固唾を呑んだ。


【うげえっ、臭え! なんだこりゃあ……まるで腐った下水に、生ゴミを混ぜたみてェな匂いだ…】


ゆっくりと空には暗雲が立ち込め、えた臭気が冷たい風に乗って充ちていく。

(※饐えた=腐って酸っぱい悪臭の意味。)


「下がれ」


逸早く汚臭と寒気を感じ取った啓司が、怯えた眼差しでソラを見つめた。


「…判ったか。そうだ、これがお前たちのような幽魂を食らう捕食者アン・シーリーの気配だ。避難する。とりあえず舌を噛まんように、しっかり掴まっておけ」


【は? ええ?! ふが…っ!?】


──ズオオオォン…ッ!!


視界を巨大すぎる残像が高速で横切った瞬間、ソラと啓司が座っていたベンチが細切れになり飛散する。

急遽来襲した「脅威」に色ボケた顔を打って変わって青くさせている啓司を咄嗟に肩に担いだソラは、軽やかな身さばきで攻撃を避けて水銀燈の傘に着地した。

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