第二十七話 絶望スイッチ
僕は夢の中で最強の力を持っている。その力を使えば、僕は危険な場面から絶対に脱出できるのだ。
やり方は簡単で、夢の中で一度だけ目をぎゅっと瞑ればいい。そうすれば次に目を開けた時は全く違うストーリーが始まっている。けれど、なぜか今回ばかりはそうもいかなかった。
「やめろ!! 煌希!」
電車が見えた時点で目を固く閉じたが、踏切の警報音は鳴り止まず、僕は怖いもの見たさでつい目を開けてしまった。直後、後悔する。真っ白な世界で、見慣れた電車の窓から煌希が飛び降りようとしていたからだった。これは僕がいつも見る悪夢だ。
「死ぬってば! やめろよ!」
踏切の手前で立ち止まっている僕には走っている電車がスローモーションで見えるが、実際はものすごい速度で電車が走っているはずだ。ただでさえ走行中の電車から身を乗り出すのは危険だと言うのに、それに加えてこの空間には底が無いので、僕はますます煌希が心配になっていた。今すぐにでもこの状況から逃げ出したいが、煌希の事は無視できない。
「誰か……! 誰か助けてくれ!!」
本当は僕が助けに行きたい。でも、遮断器が僕と煌希がいる場所を隔てる結界を作っているのか、僕が遮断棒の向こうに手を伸ばすと、何もないはずなのに何かに触れて感電したような衝撃と痺れが襲ってきた。僕は反射で引っ込めてしまった手を押さえながら、水平線のようにどこまでも長い遮断棒の先にある電車に向かって叫ぶしかない。
「お願いだから……誰か助けて!!」
この妙な結界があるせいで、僕はあちら側に侵入できない。代わりに助けに行けそうな人を捜したいところだが、あいにくこちら側に他の傍観者は見当たらなかった。それでも僕が唯一当てにしたのは、電車にいるもうひとりの乗客だった。乗客はあちら側にいる。その人物に声が届くまで、僕は何度でも叫び続けるつもりだ。
「やっと動いた!」
もうひとりの乗客は相変わらず顔が真っ黒くぼやけて見えるが、ここからでも身体の輪郭はなんとなく把握できた。体格は細身ながら骨格がしっかりしていて、首も女性より太いからきっと男性なのだろう。煌希の
「助けてあげようか?」
男性が組んだ足に自分の片腕を乗せ、愉快そうな口調で僕に話し掛けてくる。滑らかな音はそのままに、人間の肉声の質だけが機械的に加工されたような声だ。まさか向こうから声を掛けてくるとは思っておらず、僕はすぐに返事ができなかった。それもそのはず、さっきまで警報音が大きく鳴っていて、助けを呼ぶ僕の声を掻き消していたからだ。
今、何が起きているのだろうか。恐れすら感じていそうな必死の形相で脱出しようとする煌希も、スローモーションでも走っていた電車も、遮断機の信号の点滅も、何もかも完全に動きが止まっている。この空間で身体を動かせるのは僕と、煌希の奥にいる男性だけだ。彼が誰なのかわからない。
「まさかこんな状況になるなんてね。可哀想に」
男性が足に乗せた腕を動かし、自分の口元を手で隠す。乗客の顔に黒い
「助けて!」
「ただし俺が助けるのは君か、そこの彼か。二つに一つだよ」
彼は顔の近くでV字を外に向かって作り、人差し指と中指を二回軽く折り曲げて僕に選択を迫った。
悪魔の選択だ。それになぜ僕まで。
「君には決定権がある。彼を生かすも殺すも君次第さ」
男性が電車の中で立ち上がって僕に近付いてくる。
僕は慎重に声を出した。
「……お前が必ず助けてくれる保障は?」
「おい、さっさと選べよ」
彼は苛立ちを声音に隠さず、車両をぬるっとすり抜け、片腕を伸ばして手で僕の視界を奪おうとしてきた。怖くて僕が咄嗟に顔を背けると、すぐに黒雲で覆われた顔が僕の間近に現れた。そこは底が見えない黒い渦潮になっていて、僕はブラックホールに吸い込まれないように目をぎゅっと瞑る。
──嫌だ! 嫌だ!! やめてくれ! 早く終われ!
夢の終わりを強く願っていると、耳元で目覚まし時計のようなアラーム音が遠くの方からだんだん近付いてくるように聞こえてきた。
「あーあ、残念。時間切れだ」
乗客の声で弾かれたようにパッと目を開けると、僕の視界に現れたのは見慣れた寝室の天井だった。
何だ……。やっぱり夢だったか。
一安心したいところだけど、まずはうるさい目覚まし時計を止めなければいけない。
暴れている心臓を
僕はカーテンで光が遮られた部屋の中を移動して、教科書を収納しているカラーボックスまで近寄ると、気持ちを切り替えるために目覚まし時計のアラームスイッチを押した。
「あれ? おかしいな……」
スイッチを押してもアラーム音が止まらない。何度も押してみるけれど、やっぱり音が止まない。仕方ないので電池を外そうと持ち上げて裏面を見るが、なぜか電池カバーが無い。アラーム音は鳴り止まないどころか、次第に音が大きくなっていく。困った僕はこの迷惑な目覚まし時計を何とかする時間があるのか、部屋の壁掛け時計を確認した。
「は? 嘘だろ……」
電波式壁掛け時計の針が時刻合わせの時間でもないのに、勢いよくぐるぐると時計回りに回っていた。嫌な予感がして手元の目覚まし時計を見ると、こちらは反時計回りにゆっくりと針が回っている。もちろん僕は針をいじっていない。
一気に怖くなって部屋を出ようとしたけれど、あるはずのドアが見つからない。それならば窓から叫べば誰かが僕に気付いてくれるかもしれない。そう思ってカーテンを開けるが、開閉式の窓じゃなくなっているし、爽やかな朝日の光など一切無い空の薄暗さに絶望感が増す。
僕は最後の望みを掛けて勉強机の上で充電していたスマートフォンを手に取った。
「……どうなっているんだよ」
誰かに連絡を取りたかったけれど、それもできそうにない。通信障害なのかスマートフォンは圏外になっているし、ホーム画面にはブロック状のノイズが入っていて画面が乱れている。僕にはもう打つ手がない。ここは完全な密室だ。
恐怖を感じる僕をからかうように、目覚まし時計のアラーム音は波のごとく音量を大小で使い分けていた。
この現実を見ていたくない。そう思って僕は目を固く閉じる。
その時、僕の耳元で世界が切り替わる明瞭な音がした。
結論から言うと、僕は夢の中で夢を見ていた。しかもそれは夢から醒める夢だ。なんてややこしい。それが妙にリアルだったせいで、目覚まし時計を止めるのが遅くなってしまった。
「今度こそ壊れてなさそうだな……」
手元にある物を見つめる。これは何の変哲もない目覚まし時計だ。現実では、これが嫌な夢から強制的に目覚められる方法の一つだ。
夢の中でも目覚まし時計のアラーム音を嫌というほど聞いたせいか、自分が本当に眠っていたのか、そうでなかったのかが
「そうだ! 今日から学校じゃん!」
ぼうっとしていられない。急いで身支度を済ませなければ遅刻してしまう。
今日も今日とて眠りが浅く、僕の寝覚めは最悪だ。ぜひとも悪夢はこれっきりにしてほしい。
僕は誰にともなく心の中でそう願った。
✳
紅い椿の木は、僕の記憶と違わず祖父の庭にあった。それならばこの世は元の世界の状態に戻ってきていると言えるのではないだろうか。でも万が一、また同じように別の平行世界がこの世界に干渉してしまっているのなら……。
僕はそんな期待と、再び見た不吉な夢のせいで感じる言い知れない不安を同時に抱えたまま、新学期を迎えた。
「おっ、廣之じゃん。おはよう!」
「……委員長、おはよう」
「ん? まだ夏休み気分が抜けないのか? 反応が鈍いぞ」
「いやいや。夏休み気分が抜けていないのは君じゃないのか?」
久しぶりの教室に入って僕が一番最初に目に留まったのは、自分の机で夏休みの課題に取り組んでいる委員長だった。ちなみに、課題の提出期限は今日までだ。朝のホームルームまで残り十分もない。
「大丈夫だって! ちょうど今、終わったところだからさ」
「ああ、そう……。お疲れ様」
投げやりな感じで返事をして自分の席に着き、スクールバッグから教科書と宿題を取り出す。
僕は相変わらず明るい委員長にほっと胸をなでおろしていた。彼とは祭りの記憶こそ共有できなくなったものの、仲の良い友人という関係は何も変わっていなかった。それだけが唯一の救いだ。
満開の笑顔を見せてくれた委員長のお陰で、さっきまでの心配事がどっかに吹き飛んだのは大きい。心の支えがまた増えた。
「委員長はまた一段と日焼けしたね」
「おうよ。男前が上がったべ?」
「はいはい」
「軽くあしらうな。惨めな気持ちになるわ」
そう言いつつも委員長は楽しそうだ。やっぱり彼には笑顔がとてもよく似合う。
「そういや、廣之の爺さんの謎は解けたのか?」
「ああ、それなら僕より煌希に聞いた方がいいよ」
「煌希?」
「うん。彼の方がSFの知識もあるし、説明が上手だからさ」
どうやら委員長はきちんとマンデラエフェクトの話を覚えてくれているようだ。
委員長と記憶の共有ができていた事に安心した僕は教室の出入り口を見つめる。すると、ちょうど煌希が教室に姿を現したところだった。
「良かった……」
つい声を出してしまう。なんだ。夏休み前の日常と何も変わっていないじゃないか。煌希も僕の目の前から消えていない。
登校している間、僕はずっと自分が望む世界を頭に思い描いていたものの内心で怯えていた。ようやく緊張が解けたのは、普段の学校生活通り教室にいる煌希を見られたからだ。
──あれ? そういや、煌希が眼鏡をしていないな……。
「委員長、おはよう」
「おはよう、煌希。久しぶりだな!」
こちらに近付いた煌希と椅子から立ち上がった委員長が先に挨拶を交わす。ふたりは元々仲が良いから、煌希が僕より先に委員長に気付くのは当然だ。
「久しぶり。委員長はまた随分と日焼けしたね。君はよっぽど長く灼熱地獄にいたらしい」
「その通り! 聞いてくれよ。この夏の練習で唯一の冷気はキンキンに凍らせたスポーツドリンクだけだぜ。参っちゃうよな」
僕が横でそんなふたりの微笑ましいやり取りを見ていると、やっと煌希が僕に目を向けてくれた。
「おはよう、藤城くん」
ドクンと僕の心臓が大きく脈打つ。同時に得体の知らない何かが身体中を駆け巡る感覚がして、僕は思わず身じろいだ。
──大丈夫、僕らの関係は何も変わらないさ。なんたって、僕と廣之くんにも記憶の欠片があるんだから。
僕の頭にいつかの煌希の言葉が甦り、冷や汗がタラリと首筋を伝う。嫌な予感しかしない。
「藤城くん? どうしたんだい? 顔色が悪いよ」
──僕はね、未知の力によって記憶が書き換えられたり、周りの景色が変わったとしても、もう何かを失ったりしないよ。
「藤城くんってば」
──君が何者であろうとも、どこへ行こうとも、僕らはずっと友達さ。
記憶の中の煌希と、目の前にいる煌希が交互に話しかけてくる。
知りたくなかった事実があまりにも残酷すぎて、今までとは比べ物にならない恐怖を感じてしまう。その恐怖心の大きさは、僕の喉から出た声が掠れてしまうほどだった。
「そんな……」
「なあ、廣之。本当に変だぞ? 大丈夫か?」
動揺する僕を心配して委員長が声をかけてくれたが、僕は自分の世界に夢中だった。
通常、友人同士の呼び方が変わる場合は親交が深まった時が多い。しかし、僕の場合はそんな単純な話ではなかった。呼び方一つで世界までもが変わってしまうのだ。
「まさか、煌希まで……?」
声に出すと、目の前で叩きつけられた真実の重みが増した。委員長と煌希が何か話をしているが、ふたりの会話がどこか遠くに感じる。
この世界は僕を置いて、どんどん変化していく。目の前では今までと違う景色が広がっている。これが僕の定めなのだろうか。
「あっ、チャイムだ」
委員長が教室の壁掛け時計を見ながらそう言うと、他の同級生が予鈴に反応して各々動き出す。ただの習慣に縛られている同級生をよそに、僕だけは学校中に鳴り響くチャイムによって終末を告げられているような気分になっていた。
煌希、お願いだ。冗談だと言って笑い飛ばしてほしい。
「煌希……眼鏡は?」
「眼鏡? 僕は裸眼で充分視力が良いけど?」
警告音が鳴り止む。気付くのが遅かった。
──これでもう、僕は独りきりだ。
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