第二十九話 椿の花

 僕は平行世界に散らばったみんなを救うため、今この世界にいる煌希と委員長に全てを包み隠さず打ち明ける事にした。

 僕はまず始めに、煌希が最後に唱えた説である、「僕と祖父だけがこの世界に固定されていて、他の人や物体に違う平行世界が干渉している」という事をふたりに説明した。それだけで朝のホームルーム前の時間は使い切ってしまったので、その後は授業を何度か挟み、授業と授業の間の十分しかない休み時間や、昼休憩などの空いた時間を利用して解説した。

 解説した内容は多岐にわたり、今この場にいる僕ら三人ですらそれぞれ全く違う世界の住人である可能性がある事。それと皆川さんとマスターの存在や、そこでは記憶エラーや気付きの種の話も含めて、他に何を話したのかもふたりに伝えた。話すべき事はたくさんあるのに、圧倒的に時間が足りない。僕は要点をまとめて話すのに徹したが、そもそもどれも理解し難い話だ。それでも地頭が良いふたりは最低限の質問だけすると、どんどん自分なりの解釈で話を理解していった。

 結局、どんなに無駄な時間を削っても僕が全てを話し終えるまで、ほぼ一日かかってしまい、残すは終礼の後のこの掃除の時間しかなかった。これ以上に話し合いを深めるのなら、あとは放課後しか空いていない。とは言っても、委員長は放課後に部活があるので、その時間帯に全員で長話する余裕があるとは期待できなかった。

 今日はもう話を延長できない事を全員承諾した上でこの短い掃除の時間に臨んだけれど、幸運な事に、僕らは掃除のグループが同じだった。しかも掃除する場所が第三階段の全てだったので、僕らは見回りがいないのをいい事に掃除をサボり、最上階の踊り場で箒を片手に立ったまま話し合いを再開させた。本当は腰を据えて話し合いたかったが、全員立っているのはサボっているところを誰かに見られた時の対策だ。

 僕らが声を潜めつつ、お互いの状況を改めて確認している内に新発見があった。案の定、煌希と委員長にも記憶エラーが起こっていたのだ。

「じゃあ、その世界の僕は夏休み中に藤城くんと一緒に皆川さんという人と陰謀論を語っていたのか……。すごい細かい話で驚いたな」

 煌希が驚きに打たれたのも無理もない。僕だって最初に聞いた時は信じられなかったのだから。

「それに僕はジャズバーに行った記憶が全くないよ。だって僕と藤城くんは、夏休みの間は各自でマンデラエフェクトの調査をしていたんだから。調査結果は夏休み明けの今日、放課後の教室で発表し合う予定になっていたんだ」

「俺だって、夏休みは毎日部活動で忙しかったぜ。お前らとファミレスで会う暇もないよ。お陰で課題が終わらなかったのは、お前らもご存知の通りさ」

 あまりにも委員長があっけらかんとしているので、僕と煌希は苦笑いをする。彼が自分を追い込むべき場面は絶対にそこじゃないと思う。まさか、そのメンタルの強さは野球とは全く関係ないところで培われたものなんじゃないだろうか。

「そうだ。委員長、君にも確認したいんだけど……。今年の土崎港曳山まつりは誰と行った? というより、その祭りはこの世界にあったのか?」

「祭り? ああ、それならまだ先だ」

「えっ?」

「いつも八月末にやるんだ。だからお祭り男の俺としては、甲子園の決勝戦と日程が被るのが複雑でさ。まあでも、今のところは二年連続でお前と祭りに行けているぜ」

 委員長は白い歯並びを見せながら屈託のない満足そうな笑顔を見せてくれる。一方の僕はというと、祭りがある事の安心感よりも驚きの方が勝っていた。

 そんな僕の心情を察したのか、煌希が僕より先に口を開く。

「その様子を見るに、どうやら藤城くんが元々いた世界とは何かが違うようだね」

「うん、そうなんだ。……そっか。ここでは祭りの時期がずれているのか……」

 たった今、自分で呟いた言葉をふと思い返す。

 ちょっと待て。僕は大事な事を見落としていなかったか?

 ──そうだ。何で今まで気が付かなかったんだろう。

「時系列がおかしいんだ……!」

「えっ? 何だって?」

「藤城くん。どういう事だい?」

 戸惑っているのは何も僕だけではなかった。様子が変わった僕に委員長と煌希の視線が集中する。

「祖父が亡くなったのは六月だ。そこから僕が過ごした七月から夏休みにかけての時系列がおかしいんだよ」

 頭の中で今までの出来事の流れを整理する。

 僕が委員長に煌希を紹介され、平行世界やマンデラエフェクトについて調べ始めたのは七月の中旬だ。そこから調査に行き詰まり、気が付いた時には夏休みの半ばだった。お菓子屋の看板の件で皆川さんと会ったのはその頃で、後日に皆川さんとの出会いを委員長に報告した。僕はその報告の場で祭りがみんなの記憶から消えてしまった事を知ったんだ。

 通常であれば、土崎港曳山まつりは夏休み直前の七月二十日と二十一日に開催される。そして僕の高校の夏休み期間は、七月二十二日から八月二十六日までだった。つまり、マンデラエフェクトの調査が進展していなかった夏休みの半ばというのは、八月八日になる。その日以降、祭りはまだかと僕が気にしていたと言う事は、僕は少なくとも人の二倍は夏休みを過ごしていた事になる。

 僕は日付の矛盾に気付き、ふたりにその事を説明すると、煌希は顎に手を当てて深刻な顔で疑問を口にした。

「そんなに前から藤城くんの周りだけに、違う平行世界が干渉していたのか……。そうなると、ここにいる僕はどの世界線から来て、今どんな場所にいるんだろう……」

「煌希……」

 SF好きな彼が不安そうな表情を見せるくらいだ。やっぱりこれはとてつもない規模の異常事態なんだ。僕とは逆の立場になって考えてみると、彼が心細そうにするのは当然だと思う。

「逆の、立場……」

 ここで僕はようやく何度か感じていた違和感の正体を察知した。それは突然神様から使命を与えられたような衝撃だった。

 僕は今までとんでもない勘違いをしていたんだ。僕の周りにいるみんなが平行世界へ飛ばされていたり、移動した先で架空の記憶を与えられていたんじゃない。

「僕が……。が、平行世界に移動していたんだ……」

 だから祖父は亡くなる直前に「家に帰りたい」と言っていたんだ。あれはそういう意味だったんだ。

 自分が見慣れない場所にいたのは周りの世界が変わったんじゃなくて、自分こそが全く違う世界に飛ばされていたからだった。その証拠が、紅い花を咲かせるあの椿の木に違いない。記憶エラーと辻褄合わせの記憶の補正によって、僕は桜の木が椿の木に戻ったとばかり思っていたけれど、本当はそうじゃなかった。僕は桜の木がある世界線と、椿の木がある世界線にそれぞれ移動していたんだ。そうすると、僕の平行世界への移動はこの二回では済まないだろう。

 僕は今どの時間軸の、どんな平行世界にいるんだろうか。僕はこれまで平行世界への移動を何回していたんだろう。不自然な時系列の謎が思い付きで立てた僕の仮説によって解き明かされていく。

 きっと今まで僕は時間に対しての違和感を持つ事、すなわち思考する能力を奪われていたんだ。それは時間を把握できる認知機能の異常であり、これこそが本当の記憶エラーだったのかもしれない。そもそも僕は今までどうやって時間を認識してきたのか、考えた事がなかったのだ。

 僕はこの仮説の詳細をふたりに話すべく、自然と下がっていた顔を上げた。

「藤城くん。どうかした?」

 僕の変化を敏感に感じ取った煌希が僕の肩に手を置く。僕はたった今思いついた仮説を伝えるため彼に声を掛けた。

「あのさ、煌希……」

「ちょっと待って。肩に埃がついているよ」

 そう言って煌希は自然な動作で長袖に通した腕を伸ばしてきた。その手が僕の首の後ろに回る。

「……ごめん」

「えっ?」

 ──カチッ。

 煌希が何かを囁いたと思ったら、次に金属のような硬い感触がぐっと僕の首裏に当たった。瞬間、僕の身体に稲妻が走ったような異変が起こる。

 なんだ……? これ……。

 何かを話せば話そうとするほど、ドロリとした重怠い感覚が僕の全身を支配する。その重苦しさは肺にまで到達し、僕は呼吸すらままならなくなった。それと同時に襲いかかる強烈な眠気と焼かれるような胸の痛みで、僕はついに前に倒れ込んだ。

「おい! どうした!? 廣之!!」

「藤城くん! しっかりして! 目を開けるんだ!」

 僕の身体はギリギリのところで目の前にいた委員長に抱き留められたので、床への衝突は避けられた。そのまま委員長に上体を支えられ、なんとか起きていられるが身体にほとんど力が入らず、更には意識がぼんやりしてきた。委員長と煌希の呼びかけに応えたいのに、口は呼吸するだけで精一杯だし、瞼は重くなる一方だ。

 僕の抵抗したい気持ちとは裏腹に、意識がどんどん遠退いていく。

 ──もしかすると、また違う平行世界に移動するのかな……?

 心配してくれているふたりをよそに、僕はそんな場違いな事を思いながらあっさりと意識を手放した。


   ✳


 沈む意識に身を任せていたら、ふっと目が覚めた。

 ……ここはどこだろうか。さっきまでいた階段の踊り場の埃っぽさも、薄暗さも感じられない。代わりにここにあるのは、どこまでも澄み切った空気と、陽だまりのように長閑のどかで優しい暖かさだった。寝そべっていた身体を横に少し動かし、色も形もない鈍く光る床に手をついたけれど、やっぱり触れている以外の感覚が何もない。ここは夢の世界なのだろうか。

 自分が置かれている状況を確認するため上半身を起こしてから立ち上がると、あの重苦しさが嘘だったかのように身体が軽い。まるで重力がないみたいだ。

 改めて辺りを見渡してみると、あまりの変わりように驚くしかなかった。僕の周りには、ぼんやりとした光で逆に白く見える空間しか広がっていなかったのだ。

 ふと、視界に大きな影が落ちる。どうやら僕は何かの下にずっといたらしい。振り返りその影の主を見上げると、それは僕にとって思い入れが強いものだった。

「椿の木だ……。しかも、紅い花が咲いている……」

 あまりの美しさに息をのむ。

 先端が尖った濃い緑色の葉と紅い花のコントラストにもぐっと引き込まれるが、何よりも一番見惚れてしまうのが、この椿の木の存在感だった。

 紅い椿の花はこの真っ白いだけの空間に彩りをもたらしている。それだけでは椿の木だけが浮いてしまうものだが、よく見ると少しぼやけた白い空間は雪が降っているかのように淡い光を帯びていた。その光景がまるで、ここが銀世界であるかのように思わせていた。

 すると突然、無音だった空間が騒がしくなる。その音の出どころは僕以外の存在だった。つまり、目の前の椿の木しか有り得ない。どこからか吹いてくる風で、いつかと同じようにカサカサと揺れる椿の葉が僕に呼びかける。でも今までと違うのは、本当に誰かが僕に語りかけてきた事だ。

 ──お前おめはもう、あの庭に帰れいげ

 頭の中に直接響くその声は、どこか懐かしかった。

 僕が記憶を手繰り寄せている間にも風は強くなり、葉音も重なるように増していく。

 ──こっちにこちゃるもんでない

 僕がギリギリ理解できるくらいの訛りをそんな声で言ってくるのは、僕の知る限り一人しかいない。

 ──なんも心配すな。おら任せろまがへれ

 突風のような強風で紅い花が一枚一枚散っていく。尻すぼみになって消えていく声の代わりに、椿の花弁が舞い散るその様は僕に別れを告げているようだった。

 不意に僕が思い出したのは、平行世界の基準地になっていた祖父の椿の木だ。

 これも大きな変化の前触れなのだろうか。

「爺ちゃん?」

 思い当たる声の主の名前を呟いた瞬間、僕の身体がじんわりと温かくなる。僕を包んでいたその紅い光は、ほのかな輝きの範囲を拡大させていく。

 ──廣之。おらはそこで、ずっと見守ってっからな……。

 紅い光とは反対に葉音はだんだん弱まっていき、手を伸ばす僕の目の前で、人影だけが輝きの増す光に埋もれて消えていく。

 もう一生会えないと思っていた祖父との二度目の別れを悟った僕を、子守唄のような優しい葉のざわめきが深い眠りに誘う。

 ──爺ちゃん、ありがとう……。

 祖父は僕の大切なものを守ってくれていた。僕と同じように違う世界に飛ばされても、ずっと僕を心配してくれていたんだ。

 ここでは僕の声は届かない。そんな気がした僕は祖父への感謝の気持ちを胸の中にしまい込み、ゆっくりと瞼を閉じた。

 

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