第二十三話 託された記憶の欠片《前編》

 僕らにとって、これが最後の希望だった。

「皆川倫也さんだっけ? 悪いけど、ウチでは雇っていないなあ。人違いじゃないのかい?」

 結果は悲惨なものだった。

 皆川さんが勤めていた町の小さな工具修理屋こそちゃんとあったものの、喜びも束の間、僕らの対応をしてくれた人事担当者のおじさんは皆川さんの存在を完全に否定したのだ。僕は絶句するしかなかった。

「君、大丈夫か? 顔色が悪いよ。今日はとびきり暑いんだし、水だけでも飲んでいきなさい」

「……いいえ、大丈夫です。お邪魔しました」

「えっ? ちょっと君!」

「彼なら本当に大丈夫です。ありがとうございました」

 お礼もそこそこにその場から立ち去ろうとする僕をおじさんが呼び止めた。けれど僕はその呼び掛けに応じる気など一切なく、後ろで煌希が代わりにお礼を伝えていたのをいい事に迷わず足を前へ進めた。

 正直に言うと、僕はこれ以上あの場にいたくなかっただけだ。あのおじさんは何も悪くない。誰も悪くない。僕が耐えられなくなっただけ。それだけだ。

「廣之くん! 待ってくれよ!」

 いつの間にか僕の足はバクバクと飛び跳ねるような心臓の拍動に急かされ、早歩きから変化していた。

 ──嫌だ!! やめてくれ! もうたくさんだ! 僕らを追いかけて来るな!

 僕の背後から不気味な気配がする。ひょっとしたらずっと前からそこにあったのかもしれない。それは、僕らを混沌の渦の中に引きずり込もうとする無数の手だ。まるで日本神話に登場するヤマタノオロチのような手の束は、正しく蛇と同じ動きで僕に襲い掛かろうとしている。大蛇は音も立てずに地面を滑り、炎のような赤い舌を伸ばしていて、僕は自分に絡みつく悪戯いたずらな運命を振り切れそうにない。

 僕はとにかく無我夢中で走り、気が付けばあの公園に戻っていた。僕が木々の間に立ち止まると、吹き抜けた風が身体にあたった。その風が意味を成していないほど、僕の服は汗でびっしょりしている。その感覚が、ただただ気持ち悪かった。

「廣之くん」

 僕が乱れた呼吸を整えていれば、少し時間を空けて後ろから煌希が現れた。

「そろそろ僕たちも覚悟を決めようよ」

 煌希はやっとの思いで僕に追いついたのか、荒い息遣いのままそんな言葉を吐き捨てた。僕は煌希の言う覚悟が何を指しているのか聞く勇気がなかった。

「これは僕らに対する警告だよ。恐らく次に消えるのは、僕らふたりの内のどちらかだ」

「そんな覚悟しないよ!」

 僕は自分でも珍しく声を荒げた。煌希が悲しそうに顔を歪める。僕はその表情に胸が締め付けられて心臓がギュッと苦しくなった。

 自分でもわかっている。これは八つ当たりだって。でも、煌希が促した覚悟は諦める事と同義だ。心の底から受け入れたくない現実が煌希の手によって改めて突きつけられた。僕はこれ以上、煌希にまで失望したくない。

 僕らに悲劇を繰り返させる陰謀の犯人は別にいる。けれど僕らが怒りの矛先を向けるべき相手は姿を現さず、そもそも捜したところで見つかるような相手ではない。僕はずっと、それがもどかしかった。

「まるで地獄じゃないか……。僕はこんな現実なんか、ちっとも望んでいなかった」

 絞り出したような僕の弱々しい声は風に揺られて消えてしまいそうだった。実際にそうなれば良かったのだ。僕の願いも虚しくその声は僕と同じように全てを知る、最後のひとりによってしっかりと拾われてしまう。

「僕だって、こんな辛い現実はごめんだよ」

 ふらつく足取りで僕が先に近くのベンチに腰掛けると、煌希も僕につられるように隣に座った。

 しばらくの間、沈黙が僕らを支配する。

「煌希。さっきはごめん。完全に八つ当たりだった。煌希は何も悪くない」

「僕の方こそごめん。言い方が悪かったよ」

 僕は取り乱した自分が情けなくて横にいる煌希の顔がまともに見られなかった。俯いたまま話す僕の様子が普段と違う事を微塵も気にしていないのか、煌希はいつもと変わらない声の調子で応じてくれた。相変わらず煌希の声は冷淡だけど、話す言葉は僕を気遣って慎重に選んでくれているような気がする。僕は本当にいい友人を持った。

「でもさ、廣之くん。もはや誤魔化しようがないんだ。僕らだけではとてもこの現状には太刀打ちできないよ」

「……うん。わかっている」

 認めるしかない。僕らには為す術がまるでないのだ。それでも僕は悔しくて、悲しくて、やりきれなくて、今すぐこの場で踏ん切りがつかなかった。

 僕が自分の膝の上で固く組んだ両手に力を入れた、その時だった。

「僕はずっと君の味方でいるよ。例えこの世界がどう変わろうともね」

 優しい風が僕の耳に運んできたのは煌希の柔らかい言葉だった。反射で僕は少しだけ手の力を緩める。僕はまだ顔を上げる気にはならなかった。

「僕らはマンデラエフェクトが宇宙から来た何者かの陰謀で成されている現象だと認識しているよね? この場合、彼らは地球において絶対的な支配者だ。なんせ支配者が作った空気に僕らが逆らうと村八分になるからね。その権力というのは、権力を信仰して出る杭を打つような集団社会では絶大な力を持っている。だけど、一個人には無力なんだ」

 いつも通り理屈っぽい言い方だ。でも僕はそれを不快に思わなかった。

 僕は今ほど時間が一陣の風のように流れるのが惜しいと思った事は他にない。涙ぐみそうになり、僕は煌希に隠れて唇を噛みしめた。

「つまり、この広い社会の誰かが記憶をなくしても、他の誰かが必ず憶えてくれているって事だよ。大丈夫、僕らの関係は何も変わらないさ。なんたって、僕と廣之くんにも記憶の欠片があるんだから」

 どこかで聞いた事がある話だ。それに気付いた僕がハッとして顔を上げると、煌希は目が合った僕に控えめに笑ってくれた。

 僕が煌希の顔を見たのを皮切りに記憶が蘇ってくる。それは、ジャズバーで出会ったばかりの頃の僕とマスターの会話だった。

 ──廣之くんは今日ここで私から話を聞き、忠助さんが大切にしていた紅い椿の花を思い出したね。私も君の顔を見て、あの幸せそうな家族写真を思い出したんだ。それまでは記憶の奥深くに埋まっていたよ。

 ゆっくりと語るマスターにテンポを合わせるように、店内に流れていた曲もリズムが落ち着いていた。

 そうだ。あの時、僕らをしっとりとした雰囲気で包み込んでいたのは、僕が好きなビル・エヴァンスの"Emilyエミリー"という曲だった。

 ──きっと、きみたちが言う気付きの種は埋もれたり、腐ってしまっても、誰かとの縁で必ずまた復活するんだ。人と触れ合って初めて互いの気付きの種が芽吹くように、誰かと過ごした思い出も必ずどこかの誰かの心に欠片かけらが残っている。その場所は自分の心かもしれないし、他の人の心かもしれない。

 きっと、あの時のマスターは祖父を想っていたのだろう。

 ──人はね、互いにとって愛しい時間を忘れる事なんかできないのさ。愛された記憶は絶対に誰も奪えやしないよ。

 マスターの言う通りだ。一度でも愛情に触れてしまえば、ありふれた時間ですら心に深く刻まれる。それは第三者がどんなに干渉しようとも、決して消えない。どれだけ平行世界に飛ばされようとも、僕らは身を持って絆の強さを実感している。

 僕は足元に視線を落としてそっと目を閉じた。僕が目を閉じたのは祖父や祖母、それに皆川さんとマスターの姿を思い浮かべるためだ。今ならわかる。僕は色んな人から愛されてきた。

「廣之くん。僕たちはつい目の前にある現実ばかり見てしまうけれど、じっと眺めていても現実は何も変わらない。未来を作り出せるのは自分だけだからね」

 煌希の言う通りだ。自分の足で前に向かって歩くしかない。今度こそ覚悟を決めた僕は目を開けて自分の足元を見る。そして、足が地に着いている感覚に神経を集中させた。

「世間はあらゆる方法で僕らを現実に縛り付けようとするけれど、本当はそんなの無視していいんだ。この現実は誰かの脳が作り出した幻想に過ぎない。自分らしく人生を生きるって言うのは、実はそんなに難しくないんじゃないのかな」

 こんな時に何を言い出すのか。あまりにも楽観的な見解に驚いた僕が煌希の顔を見ると、彼は僕に向かって穏やかな表情を浮かべていた。

「廣之くん。僕らは日々、目や耳から様々な情報を取り込んでいる。だからこそ、どんな時でも自分を見失ってはいけないんだ。僕らは情報を受け取る度に、現実と言う名の迷路に誘い込まれているのさ」

 僕は煌希を食い入るように見つめた。彼の一言一句を漏らすことなく受け止めようと、全身の感覚を研ぎ澄ませる。

 煌希の発言からは不思議としなやかな強さが感じられた。凛とした物言いなのに雰囲気が温かいままなのはなぜだろうか。

「現象、つまりは結果を知りたいと思う事は罪じゃないが、自分らしくる事をおろそかにすれば人生は空っぽのままだ。気が付くと自分がいる迷路が誰かの箱庭になっている。その時、君には何も残らない。要するに、他人が作った結果で自分が変えられてしまってはダメなんだ。君の思考で現実を作るんだよ」

「僕の思考で現実を作る……?」

「ああ、そうだとも」

 煌希は先生が悩み事を抱える生徒に優しく言い聞かせるように教えを説いた。僕にはなぜか彼のそんな姿がマスターと重なって見えている。

「君や僕が想えば、皆川さんもマスターもここにいる。僕たちの意識の中にずっとだ。だから君は迷路に置いていった自分を捜してあげるといい。君が最初に置いてけぼりにしたのは、お爺さんじゃない。自分自身だったんだよ」

 衝撃を受けて頭の中で火花がはじける。それは暗闇の中でひらめきが見えたようだった。身体を走った電気の影響なのか、さっきまで僕の背後にあった嫌な気配は消えていた。

「自分自身から目を逸らして、君が楽になれるならそれでもいいさ。でもね、今が辛くて困難を避けたとしても、廣之くんは置いていった自分といつか必ず向き合わなきゃいけなくなると思う」

 煌希が身体の向きを変えて前を向く。眼鏡のレンズが影になり、彼のその横顔はより一層寂しそうに見えた。大勢の子どもが利用する公園には似つかわしくない、浮世離れした雰囲気だ。煌希はもうずっと前から孤独で、この広い宇宙の中を漂っていたのかもしれない。

「この現実があるのは、君に盲点を気付かせるためなんじゃないのかな」

「それって……僕がこの現実を作ったって事か?」

「いや、違うよ。重要なのは、誰がこの結果を作り出したかじゃない。これから君がどんな未来を創造したいかだ」

 僕が煌希を凝視すると、彼はその顔に慈悲深い笑みをたたえていた。

「外の世界と他人がいるのは、自分の真の願望に耳を傾けるためだ。他人は自分を映す鏡だとも言うしね。さっき言っただろう? 思考が現実を作るって。行動の前には必ず意識が伴う。要するに、自分の願望を実現するには、いつもその事について考えていなきゃいけないんだ」

 なぜだろう。以前と似たような違和感を感じる。一体、煌希の説明のどこに……。

「洗脳は潜在意識に蓄積されていく。だから自分の願望を実現させるには、外から来る情報を打ち負かさなきゃいけない。なおさら普段から願望を意識する事が大切だ。廣之くん、本当の自分と向き合うのは怖いかい?」

「えっ? ああ……」

 別の事に気を取られていたせいで反応が遅れてしまった。ここには僕しかいないのだから、名指しされるのは当然だと言うのに。

 煌希は一瞬だけ何事かと眉を寄せたが、すぐに表情を緩めた。

「大丈夫。君が何者であろうとも、どこへ行こうとも、僕らはずっと友達さ」

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