第十九話 背中に委ねられた選択

 僕と山近の長い会話で店内の雰囲気がガラリと変わり、来たばっかりの時は蒸し暑く感じていた店内は肌寒くなっていた。僕はその冷気に悪い意味で背中を押され、つい弱音を吐いてしまう。

「大切な人をまもるって言っても……。自分のすぐそばに洗脳手段がたくさんあるんだ。ここにいる僕らだけが洗脳社会に気付いたって意味がない。ひとりひとりが真実を見極めるのは難しいよ」

 正しいとされる情報が、いかに普段の生活から意図的に植え付けられてきたのか。地獄の抜け道は極めて狭い。それに加えて、みんなで脱出しようとしても、抜け道の後ろから火の手が迫ってくる。僕らが必死に考えて足を動かしても、連中は追い打ちをかけるように火を放つ。それは校則や政策など、一般人が破れないルールの追加だったり、小さな集団ではどうにもならない経済や国際情勢の悪化だったりするかもしれない。

 放たれた火に巻き込まれた被害者は、僕もよく知る人物たちばかりだ。亡くなった祖父や祖母、僕との思い出を消された委員長まで。僕の両親と姉は間違った記憶と常識を刷り込まれてしまった。言い方は悪いけど、頭に火傷を負っているようなものだろうか。まるで生存を賭けたテストで合否の焼印を押されたみたいだ。それなら、平行世界に次々と飛ばされている僕はどっちなんだろう。僕自身、まさかこんな形で思考停止だったツケを払う事になるなんて思いもしなかった。

 暗い気持ちになり、僕の背中は丸くなっていた。そんな僕を見かねてか、皆川さんが重い沈黙をすんなりと破る。

「藤城くん。みんなに今の君の背中を見せてあげればいいよ」

「えっ? 僕の背中ですか?」

「そうそう」

 どういう意味だろうか。皆川さんは軽いノリで笑っている。いや、それよりもさっきまでの空気は何だったんだ。悩みを笑い飛ばされた僕は集中力が切れてしまい、理由わけがわからず呆気にとられていた。けれど、皆川さんの態度が変わった理由をすぐに知る。

「お待たせ。切るのに手間取ってしまったよ」

 マスターは恥ずかしそうにそう言うと、カウンターテーブルに大きな皿を置いた。皿には食べやすい大きさに切り分けられたサンドイッチがある。

「お! ついに例のアレがお出ましだ!」

「例のアレ? 何ですか?」

 声を弾ませてはしゃぐ皆川さんに対して、山近の冷静な疑問が投げかけられる。質問に答えたのはマスターだった。

「昨日、常連の社長さんから自家製の生ハムを頂いたんだ。これがとても美味しくてね。すっかり倫也くんのお気に入りさ」

「そうそう! ちょっぴり濃い目の塩味が酒のつまみに最高でさ! 塩で肉の旨味がギュッと詰まっていて、かすかな脂気との組合せが堪らないんだ」

「これは精製された塩じゃなくて、自然塩を使っているからね。ミネラルが豊富で肉の旨みが凝縮されているんだ」

 さっきまで普段より頭を使っていたせいか、ふたりの話を聞くだけで僕の口から涎が垂れそうだ。今や僕の視線は目の前のサンドイッチだけに集中している。今すぐ食べたい。

「藤城くんと山近くんにもぜひ食べてほしいんだ。今日、ここでしか食べられないよ」

 皆川さんがいたずらっぽく笑う。

 僕を明かりの灯る方へ導き、前を向く力をくれるのは山近だけじゃない。僕の縁はこの場所で強く結ばれた。人の温かさに触れた嬉しさで想いが込み上げる。僕はその想いと共に唾を飲み込んだ。

「藤城くん。君に選択の余地はないよ」

 反応がない僕を気にしたのか、山近が僕に耳打ちをする。続けて皆川さんが表情を緩めながら僕に言葉を掛けた。

「マスターのご厚意だ。せっかく用意してもらったんだし、嫌いな食材じゃなかったら遠慮せずに食べてごらん」

「はい。いただきます」

 僕は大きな白い皿の一角にあるふかふかの食パンを優しく掴み、口を大きく広げてサンドイッチを頬張った。途端に食パンの甘さを感じて、頭が食べ物でいっぱいになる。何度か噛むと、今度は生ハムの脂気としょっぱさが舌の上で弾けた。

「うまっ!」

 思わず敬語を忘れて小さく叫ぶと、皆川さんとマスターは声を出して笑っていた。

 手元のサンドイッチをよく見たら、何かがパンの中に塗られている。このコクと香りはバターだろうか。二つの具材をとても良くまとめていて、シンプルながらも最高の食べ物だ。

「藤城くんが食べたのは、生ハムとバターのサンドイッチだね。こっちは生ハムとチーズで、山近くんが食べているのは生ハムとポテトサラダだよ」

「食べごたえがあって美味しいです」

「良かった。ふたりとも大絶賛じゃないか」

 マスターも皆川さんも、僕たちの感想を聞いて嬉しそうだ。

 マスターがサンドイッチの説明をしている間にも、僕は黙々とサンドイッチを食べていた。サンドイッチだけでも魅力的なのに、他にもカレー粉をまぶしたチキンスティックや、秋田県ではポピュラーな山菜である「みずの実」の醤油一夜漬けや、野菜がたっぷりのキッシュオムレツがあり、迷うほど料理の種類が豊富だ。ここまで用意してくれるなんて、かえってマスターには申し訳ない。

 僕はふたりに感謝を伝えた。

「マスター、皆川さん。今日のために準備をしてくださって、ありがとうございます。この生ハムをみんなと食べられて嬉しいです」

「そうかい。藤城くんが元気になってくれて良かったよ」

 マスターが目を細めて笑う。皆川さんは僕に満足げな顔を見せるだけで何も言わなかった。僕はみずの実を箸で一口分つまみ、口に入れた。シャキッとする歯ごたえと、トロッという食感に出汁の旨味が効いた醤油がよく合う。変なクセがなくて箸が止まらない。ああ、でも他のサンドイッチもたくさん食べたいな。

「本当にどれも美味しいです。特に生ハムは最高ですね」

「そうだろう? まだたくさん余っているから、切ったのをそのまま出そうか」

 マスターは僕の言葉にゆっくりとしたテンポで言葉を返すと、生ハムを取りに行くべく機嫌よく奥に引っ込んだ。それを見計らって皆川さんがやっと口を開く。

「藤城くん。生ハムはじっくり塩漬けして乾燥させたお肉だ。でも実は、長く熟成させるほど美味しくなるというものではないんだよ」

「そうなんですか?」

「ああ。熟成期間が長すぎるとクセが出てくるし、短いと肉の味が目立ってしまう。それに日本では塩漬けが熟成という認識だったのに対し、ヨーロッパでの熟成は熟成庫での乾燥の事を言うんだ。 だから大事なのは、現象や概念を自分がどう認識して、それを誰にどんな形で届けたいか考える事さ」

 途中から店内の音楽が気にならなくなるくらい、僕は皆川さんの話に聞き入っていた。それは皆川さんが話をまとめたところで声のトーンを変えたからだ。僕は皆川さんが、僕にこの局面を切り抜けるための知恵を授けてくれるような気がした。それが正解かのように、皆川さんはサンドイッチを食べる手を止めて話を続けた。

「土地柄に合う製法がいくつも生ハムにあるように、君が描ける未来だって何通りもある。君が概念や知識をもって、この世界を観測する分析官になったところで、脳は熟成されっぱなしでいずれ腐ってしまう。それは本来の自分を狭い場所に固く閉じ込める行為だ。深い眠りから覚めて、そこから抜け出す方法はただ一つ。今この場所で、自分が『いかに在るか』を追求する事さ」

 この世界で何をするかではなく、自分がどう在るべきか。皆川さんはそう語る。

「全ての現実は今ここにある。この仮想空間にあるのは、過去や未来じゃない。連続した『今』があるだけだ。この世界を観測してどのように認識するのか、それは君だけができる事だ。君は俺とは考えが違うからね。だとすると、この世界を動かせるのも藤城くんしかいない。君の人生が、君の視点でのみ語られる物語であるなら、最初から君が世界の中心だったんだよ」

 青天の霹靂だった。

 世界は誰かが作り出した概念で成り立っている。概念は人の生死の数以上に存在し、常に動いていて、時代と共に変化するものだ。だから僕らは変わり続けるこの世界に対して思考を停止してはいけない。それを理解しても、僕にはその先がぼんやりとしか見えなかった。

 現実世界が仮想空間で、プログラムの書き換えが可能なら、僕らはその事実を単に知らなかっただけだ。つまり、僕らみんながそれぞれの物語の創作者であり、主人公だった。そうなると、僕の思考と行動が変われば、周りの世界もつられて変わる事になる。皆川さんが言いたいのはそういう事なのだろう。

「みんなに背中を見せるって、そう言う事でしたか……」

「伝わったみたいだね」

 皆川さんは僕の反応に安心したように穏やかな表情を見せてくれた。

 僕が変化を恐れていた「世界」というものは、ただの概念に過ぎない。生かすも殺すも自分次第だ。どうやら僕はまだ、とある思想の集合体である観念に強く縛られていたらしい。

 僕の人生は一つの物語だ。大きな宇宙に広がる星のように、壮大な歴史がある。みんなに僕の物語を知ってほしい。そして、僕より先に歪な世界のことわりに触れ、その存在を訴えても理解されなかった祖父の想いに寄り添ってほしい。どうか一目でいいから、自分の身を燃やす星の輝きに目を向けてくれないだろうか。僕たちは遠く離れた場所にいる地球の仲間を思いやり、必死に危険を知らせている。誰かを救いたいという想いをエゴだと言われてしまえばそれまでだ。

 僕は他人を変えるのは容易ではないと知ってしまった。だからそこはもう期待しない。代わりに願うのは、他の物語がハッピーエンドで終わる事だ。僕の生き様がその手がかりになれるのならば、少しは祖父や祖母の心が報われるだろうか。 

 ──僕はこれからも「僕」で在り続けよう。

 夜空を眺める感覚でいいから、誰かに僕の後ろ姿を見ていてもらおう。この物語の結末はまだ決まったわけじゃないんだ。僕には強力な味方もいる事だし、俄然やる気が出てきたぞ。

「皆川さん。僕、背中で語れる漢になります!」

「うん。その意気だ! 期待しているよ」

「なんか違う方向に行ってる気がするなあ……」

 僕は張り切って拳を前に突き出した。僕が背中に皆川さんの張り手を食らうと、山近には体育会系のノリだと勘違いされたらしい。山近は口をもぐもぐ動かしながら首を捻っていた。

「おや、盛り上がっているね」

 陰でこっそり僕らのやり取りを見ていたマスターと目が合い、僕と皆川さんは意味もなく声を出して笑った。そうだ。どうせなら僕は楽しい未来を引き寄せたい。前を向く力は悲しみや怒りだけじゃないんだ。

「それで、藤城くんはどちらの道に進みたい? このまま世界の本質に迫るか、平行世界への移動を止めるのか。君は今、何を望む?」

 笑いが収まると、皆川さんがカウンターテーブルに肘をついて僕を試すような質問をしてきた。

 誰のために、何を望むか。僕は胸の中で自分に問いかける。

「僕はこの現実を真正面から受け止めます。でも、悲惨な現状に飲み込まれません。幸せはすぐ目の前にあるって気付けましたから」

 概念との向き合い方がなんとなくわかった気がする。対立や盲信は本当に大切なものから人の目をくらます手段だ。相手の考えに否定から入らなければ、調和から生まれる平和がある。そこに自分にとって大切なものが変わらずに存在すると思いたい。

「藤城くんも急に大人びてきたね。これからも成長が著しい君から目が離せないな」

 僕は皆川さんの感想を聞きながら箸でペラペラの生ハムをつまんだ。半透明な赤身を見ていると、ぐにぐにと弾力のある食感と、抜群の塩加減に合った肉の味を思い出す。僕は無意識で頬を緩ませ、口に生ハムを入れた。

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