第20話 夜の深み



 月明かりの無い闇の中を、少年はただ走る。


 どこを走っているのか分からない。

 どこへ向かっているのかも分からない。

 ただ分かっているのは、止まってしまったら命が無いという事だけだ。


 血の匂いが満ちている。

 悲鳴が上がるたびに、周りから人が居なくなる。

 自分を護ってくれるべき者が、また一人倒されて行く。


「フェル!後ろを見ないで走りなさい!」


 ダーヴィッドの押し殺した声が飛んだ。

 こんなに暗いのに、どうしてそれが見えるんだよ。

 文句を言いたかったが、声を出すとまた叱られるから、少年は黙って走り続ける。


 でも、声はすぐ後ろで聞こえた。

 ダーヴィッドが近くに居る。

 だったら大丈夫だ。

 どんな難関だって越えられる。


 ・・・また悲鳴が上がった。


「待った!フェル、止まって!」

 急に襟首を掴まれて、少年は後ろに倒れそうになる。


「何だよ、走れって言ったり、止まれって言ったり!」

「静かに。耳を澄ませてごらんなさい」


 言われた通りにすると、少年の足元のはるか先から、かすかにゴウゴウと勢いよく水が流れる音が聞こえる。

 「何だ?」と思ううち、辺りがほの明るくなって、ぼんやりと様子が見えてきた。


 少年の目の前に、深い谷底が口を開けていたのだ。

 足元のはるか下の闇の奥には、どうやら急流が流れているらしい。

 ダーヴィッドが止めてくれなければ、今頃は奈落に真っ逆さまだ。


 冗談じゃない、ヴァイゼを連れていないんだ。

 少年はふうっと息をついた。

 だが、だからと言って、命の危機を脱した訳ではないらしい。


「フェル、私の側を離れてはなりませんよ」


 ダーヴィッドは少年を振り向いて、剣を抜く。

 長い黒髪をひとつに束ねて、錫色すずいろの瞳をした青年の、端整な顔立ちが歪んでいるのが、はっきり見える。


 辺りが明るくなったのは、追っ手が松明たいまつを灯したからだ。

 同士討ちを避けるためか、標的を確実にしとめるためか。

 それとも、味方にこの場所を知らせるためか。


 視認できるだけで、敵はこちらの倍の人数だ。

 周囲を囲まれて、背後は奈落。

 逃げ道はすでに無く、まさしく背水の陣。


「クリント殿!クリント殿はおられるか!」

 道案内役の名を呼ばわるが、返事も無ければ姿も見えない。


「・・・はかられましたね。ヴァイゼが居れば、フェルだけでも逃げられたものを」

 右手で剣を構え、左手で少年を庇って、ダーヴィッドが低く言った。

 その視線は、すでに倒れている味方の数を見ているようだ。


 気合の声を上げて、味方の兵士が敵の只中に突っ込んで行く。

 また一人、また一人、どうにかして死地を脱しようと、必死の抵抗を試みる。


 少年も剣を構えた。

 すかさず敵の兵士が打ち込んで来る。

 それを弾き飛ばしたのはダーヴィッドの一閃いっせんだった。


「そんな事をしていないで、あなたは逃げる好機チャンスうかがっていなさい!」

 細身の身体からは想像もつかないくらいの、力強さ。

 その確かな腕前に、打ち込んだ兵士の構えが変わる。


 優男やさおとこり役だと軽く見ていたら、命を持って行かれる。

 そう感じたのだ。


 しかし少年は、その背に隠れるのを良しとしなかった。

「嫌だ!皆が俺のために戦っているのに、俺だけ逃げるなんてできるもんか!」


 そう言って少年は、敵に取り囲まれた味方の兵士の加勢に入る。

「ああ、コラ!離れるなと言ったでしょう!」


 ダーヴィッドの声を聞こえないふりをして、少年は襲い掛かる敵の剣をぎ払い、的確に急所を穿うがつ。


 その躊躇ちゅうちょ無い剣さばきに、敵兵からどよめきが上がる。

 たかが15の子供とあなどっていたのだろう。


 次に来た兵士は上段に構える事なく、体勢を低くしたまま飛び込んで来る。

 少年は身体をひるがえしてそれをかわし、敵の延髄えんずいを切った。


 その戦いぶりは味方の兵士を鼓舞こぶし、気持ちをふるい立たせる。

 兵士たちは劣勢をくつがえそうと、必死で剣をふるった。


 しかし数の多さに敵うはずもなく、次第に味方の兵士が力尽きて行く。


 それは少年も同じであった。

 時間が経つにつれ、動きが鈍くなってくる。


 剣は血と脂で切れ味が悪くなり、敵の剣を受けるたびに刃こぼれが起きた。

 切れなくなった剣は刺すのも抜くのも重く、少年の体力を容赦なく奪って行く。


 敵兵の一撃を、少年の剣が受けた。

 だが、受けきったはずが、剣に付いた血糊で滑り、弾き損ねた敵の切っ先が、少年の額を切り裂く。

 吹き出した鮮血が、少年の視界を奪った。


「フェルッ!」


 血を吐くようなダーヴィッドの叫び。

 剣を受ける音、弾く音、何かを切り裂く音。


「ダーヴィッドッ!」


 赤く染まる視界に入ったのは、だらりと垂れた腕から血を流すダーヴィッドだった。

 しかしそれでも彼は、敵の足を払い転がらせ、その首に留めの一撃を加えた。


 額に傷を負う少年の前に立ち、ダーヴィッドの目は戦況を冷静に見定めていた。

 そして


「・・・フェル、もはやこれまでのようです」


 そう、静かに言った。


 それを聞いた少年は、何だか気が楽になって


「うん、そうだな」


 と、気丈に握っていた剣を放した。

 もう構えるだけの力すら、残っていなかった。


「あなたに謝らなければなりません。私は、自分の一番大切なものの為に、あなたを利用し、あざむきました。その結果が、これです」


 少年は、ダーヴィッドが何の事を言っているのか、よく分からなかった。

 でも、もう死んでしまうのだから、それでもいいと思っていた。


「俺の方こそ、道連れにして悪いな」


「・・・いいえ、行くのはあなただけです」


「えっ?」


 次の瞬間、ダーヴィッドの残った腕が、少年を谷へと弾き飛ばした。


 えっ・・・!


 その勢いのまま、少年の身体は空に放り出される。


「生きなさい、フェル。あなたの人生を今、あなたに返します」


 微笑むダーヴィッドの背後に、敵兵が迫ってくるのが見えた。

 動く方の手に剣を持ち替えて、彼が振り返る。


 少年が最後に見たのは、ひと房の黒髪が沿うダーヴィッドの背中。


「いやだ!ダーヴィッド!ダーヴィッドーッ!」


 谷底へと落下しながら、少年は泣き叫んだ。

 何度も名を呼ぶ声だけを残し、少年は奈落へと吸い込まれて行った。




 苦しそうなうめき声に、ローズの目が覚める。


「・・・ダーヴィッド」


 フェルの声だ。

 消えた焚き火の向こう側で、横になっているフェルの姿があった。


 見上げれば、降るような星空があり、まだ夜中のようだ。

 ローズは、ヴァイゼとカイムを起こさないように、注意深く離れて、フェルへと近寄った。


 びっしょりと汗をかいている。

 眠ってはいるようだが、苦しそうな・・・いや、悲しそうに顔を歪めて、うなされていた。


 ダーヴィッドとは人の名前だろうか?

 どこかで、フェルがこの名を口にしたのを聞いたような気がしたが・・・。


 悪夢を見ているのなら、起こした方が良いだろう。

 ローズはフェルへと手を伸ばす。


 その時、眠っていたフェルの目が急に開いた。


 次の瞬間、ローズの顔は何かにくるまれる。

 視界が奪われ、驚く間も無く身体ごと地面へと押し付けられた。




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