30.予感

当然のことだけど、想像と実際はぜんぜん違う。


憧れだった歌手のライブに行ったら、思ったより上手じゃなかったり、

輝いて見えていたひとと手を結んでみて、その手の厚みが頑なに思えたり。

当然のように思い描いていた未来が、当然のように来なかったり。


なら、夢はどうなのだろう・・・?


また、あの夢を見た。

土壁の中、淡々と歩く二人を。

いつも通り片方はたぶん「わたし」で、もう片方はだれか、何かわからない。

そしてわたしは、相変わらずどちらが「わたし」なのかもわからない。


今回はどこかで少し覚めていて、ああ、そういえば前回はなんだか嫌な終わり方をした気がする、続き? めんどうだな・・・と、惰性で広げた週刊誌を読むような気持ちになった。余裕? ううん、そういうのとは、たぶん違う。俯瞰ふかんしているけれど、気持ちは離れていないというか。

いつも通りだ。わかることなんてない。


でも。

今思えば、他人事でありたかったのかもしれない。


夢なのだから「普通は」なんてあってないようなものだけれど、こつこつとも、ひたひたとも足音がしない。質量のない二人が、甲羅の奥のような土壁の道を行く。

暗闇は、延々と続いている。


どのくらいの距離だろう。夢というものは、時間をたやすく溶かしてしまう。

二人とも、何も言わない。言う気配もない。右左の脚の動きだけが、先へと進んでいることを推測させる。


夢の中の登場人物は、夢を見ているひとの断片。

どこかで読んだあの記述が本当なら、目を上げたのは、3・・・のうち、だれだったのだろう。


感覚はない。けれど、何かの香りを、嗅いだ気がした。


土壁の奥。暗闇の濃度がちがう気がして、そのおぼろげな輪郭が、曲がり道のように見えた。知っているかもしれないし、知らなかったかもしれない道を。


夜の病棟の、非常口の明かりに似ていた。

それをかすかに目視して、そのときわたしは目が覚めた。



中途半端な夢を見ただけあってか、目覚めもひどく中途半端。

おまけにというか、朝食に茹でた冷凍うどんも生煮えで、朝からいろいろと損な気分だった。冷凍うどんって、変な生うどん買うより、おいしいよね。

冬は別売りのうどん用油揚げを乗っけるけれど、今日もじっとりと暑いので、

疲労回復の効果も期待して、さっぱりとポン酢でいただく。

もちもちとした冷たくこっくりした酸味が、のどをするりと落ちていく。


朝 9時。いつもなら出勤している時間だけど、今日は公休日だ。

何も心配することはないし、まあそもそも、するつもりもない。

相変わらず思い出したころに変な夢を見るけれど、もう慣れたものだ。

きっと今日も、ひりつくような日差しがコンクリートを焼いているだろう。

そういう絵本があったよね。「ふらいぱんじいさん」だったかな。

たしか、太陽の熱で目玉焼きを焼くんだっけか。ちがうかもだけど。


長瀬さんから「お礼に」もらったフロランタンを手に取る。

割れてしまいやすいお菓子だけど、カバンの中で無事に持ちこたえてくれた。


個包装されたパッケージには、会社近くの有名な洋菓子屋さんの名前が載っていた。たぶん長瀬さんが好きなんだろう。包装はカントリー風のデザインで、中身はナッツをまとった、オシャレなこげ茶色だ。そういえば、長瀬さんはマカロンじゃなくて、フロランタンのほうが似合うなと、本人不在でどうでもいいことを思う。


何も心配することはないとは思う。

わたしがそれを作らなければ。もしくは実際に、そういうことがないのであれば。


佑都くんに会って、2週間が経っていた。

このまま延長しないのなら、借りた「折り紙の文化史」の、返却期限でもある。


紙自体の製法が高麗こうらいから日本に伝わったのは、610年のことだとされている。同時におおよそこのくらいの時代から、紙を使ってのやりとりが始まっていたらしい。やがてこの製紙技法は日本独自のものに推敲され、さらに普及していった。

その過程で、もともと高麗から渡った製紙技法、「溜めき」は、その後の800年代前後に、「流しき」という技法に拡充していった。


ところで、南北朝時代に描かれた「弘法大師行状絵詞こうぼうだいしぎょうじょうきえまき」に見られるように、紙は伝達や記録といった用途以外に、神事や祭事とのかかわりも深かったようだ。


その例として、縁起をかつぐ切り紙の「宝来ほうらい」、厄払いのための「流しひな」、儀礼に用いる扇子せんすが挙げられている。

さらには、紙を用いた形代かたしろを水に流すみそぎの儀式や、紙人形供養(おき上げ)は、現在にも受け継がれている風習だ。


ちなみに、話は飛んでしまうけれど、あの有名な「源氏物語」には紙人形や切り紙細工が登場するが、それも「折り紙の原点」のひとつだという。

また、時代が進んで鎌倉時代には、公家社会・武家社会ともに物品を紙に包んで相手に差し出す、「礼の心」を示す媒体ばいたいとして、紙が用いられるようになった。その頃には短冊や色紙などがあったものの、まだまだ庶民とは縁遠いものだったという。


その後から江戸時代、昭和にかけて、紙鍋や着物、雛人形などの用途が徐々に普及し、主に貴族の嗜みだった折り紙も庶民にもなじみ深いものになり、今では海外からも親しまれている。

長くなるので後半はだいぶ端折はしょってしまったけれど、「折り紙の歴史」は、おおよそこんな感じ(だと思う)。


・・・といった豆知識をそらで言えるわけではないけれど、それなりにおもしろかったので、なんとなく雰囲気で覚えてしまった。覚えたともいうし、これ以上は覚えていないともいうけれど。けれども思った以上に、「折り紙」という世界は歴史が深く、何だかんだでいまだに残るその文化は、やっぱりいいものなんだなと思ったりもしたのだ。


「行くか・・・」


器を流しに運びながら、気が重くないといえば嘘になる。だいたい、佑都くんとの関係なんて、せいぜい良くて「顔見知り」程度だし、そもそも会う約束をしているわけでもない。・・・・・・それでも。


「・・・おお、美味しい」


フロランタンの、香ばしい香りが口中を満たしていく。

紅茶でもいいけど、コーヒーが合うかな。麦茶しかないけど。


器を洗う水だけが、まだ冷たくて安心する。

自覚はしている。わたしは、言葉を伝えるのが上手くない。

語彙ごいがどうこう、起承転結がどうこうとかじゃなくて、もっと感情的な面で。


それでも昨日、長瀬さんと、たぶん初めてちゃんと話せたときのように。

乗れる勢いって、あるんだと思うんだよね。

それに、たしかに話の種にしようと思っただけだったけど、わたしにも折り紙のことで、佑都くんと話したいことができてきたし。



少し早めの、13時50分前。わたしは、三回目の図書館にやってきた。

返却は先に終わらせて、ついでに中を見て回る。

小さい図書館だから、出入りはほぼわかる。

エコバックから借りた文庫を取り出して、日陰のレンガブロックに腰掛ける。

足元の少し先にアリがいて、腰を浮かせたついでに汗を拭く。


14時10分。ペットボトルのお茶が、そろそろ尽きようとしている。

電柱から、鳩がもの言いたげにこちらを見ている。


14時半前。なんだか、そんな予感がしていた気がする。


その日、佑都くんはやってこなかった。












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