アメリカで小料理屋ひまらやを想う

「お疲れサマ。カレン」


 その日の午後、語学学校の帰りにミスター禅とホテルのラウンジで待ち合わせしたところ、予定になかった別の女性が彼の隣で泣いていた。

 ミスター禅はそのあだ名の通り、禅の瞑想センターの講師なのだが、そちらの生徒の相談を受けていたところらしい。


 ヒスパニック系移民だという四十台前半の黒髪のアップスタイルの彼女は、全身ネイビーのスーツに真っ白なハイヒール。

 見るからにエグゼクティブで、聞けばシリコンバレーでネットサーバーのプログラム会社を経営しているそうだ。

 昨今、ビッグテック、いわゆるIT系の巨大企業に押されて業績が悪化しており心身の不調を抱えていたところ、仕事関係でビジネス展示会のコーディネーターをしているミスター禅と知り合って彼の禅センターに通うようになったらしい。


「もうダメよ、駄目なのよヴィクター! 頭が破裂しそうになるほど苛立って、部下に八つ当たりしないようにマインドフルネスマインドフルネスって唱えるけど追いつかない! 上手くいかない!」


 いつもなら週末の禅センターの講習日に参加しているのだが、そこまで自分が保たないからとミスター禅に連絡を入れてきて、カレンが来るまでの時間ならと話を聞いていたらしい。

 ちなみにヴィクターというのがミスター禅の名前だ。


「カレン、ちょっとごめんネ」

「平気、彼女の話を先に聞いてあげて」


 同席しても嫌がられなかったので向かいのソファに座って、彼らの話が終わるのを待っていたのだが。


(うーん。ミスター禅は座禅を教えてる先生でしょ? この人に必要なのは座禅とか瞑想っていうより……)


 もはや精神科や心理カウンセラーの領分ではないのか? と彼女の激しさに内心で首を傾げた。

 だが日本でも人に「精神科に相談したら?」などと面と向かって他人に言うのは失礼や侮辱に当たることが多く、カレンの前職の会社の社内カウンセラーですら利用を躊躇う人がいたぐらいで。

 アメリカだとだいぶ事情が異なり、ビジネスエグゼクティブならむしろ利用してないほうがおかしい。


 彼女、サンドラは経営するプログラム会社のエースプログラマーをビッグテックの一つに奪われたと言って憤慨している。


「4万ドルの年俸上乗せでエースを持っていかれた! 相談してくれれば私だって報酬見直しぐらいしたのに!」


(いやあ、それ転職した後でどんどん上がっていくやつでしょ。さすがに天下の大企業様とやり合うのは分が悪いと思う)


 そんなこんなで、朝イチで部下の社員から「今日で仕事辞めます、世界一のSNSの会社からヘッドハンティングされたので!」と聞かされたサンドラ女社長は頭に血が上って相手を殴りそうになったらしい。

 何とか寸前で抑えられたが、部下には説得の甲斐もなく逃げられ、ランチを取る心の余裕も失い、世話になってるミスター禅に電話してアポを取って今ここ、ホテルのラウンジに至ると。


 アメリカ映画やドラマでしか見ないような、派手な身振り手振りで怒り狂うサンドラはそれから20分ほど怒鳴るようにミスター禅に愚痴って、やがて沈静して小さく謝った後で帰って行った。


「ヴィクター。彼女、カウンセラーに行かせなくていいの?」


 それか病院、と仄めかしたカレンにミスター禅はそれはダメなんだ、と手を振って否定した。


「カウンセリングだと時間がかかるし、もう通ってる。精神科に行けば薬を処方されて感情コントロールはできるけど、今度は人格が変わったり薬が手放せなくなったりする。難しいネ」

「そっかあ」


 自分だったら、サンドラと同じようなトラブルに見舞われたら、必要なのは座禅マインドフルネスでも精神科への通院でも心理カウンセラーでもない。

 自棄酒だ。


(ああ、小料理屋ひまらやが懐かしい)


 日本のセイジ情報では、結局店主のオヤジさんの消息は不明のままだという。

 ロサンゼルスであの店のような雰囲気の場所となると、探すのは難しいかもしれない。

 のんびり、ほっこりしたあの時間がカレンはふと恋しくなってしまった。


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