03.

 ――ヤマアラシ症候群。


 それは突如背中からヤマアラシの針が生え、筋肉が収縮する病。体は前方向に丸まり、日に日に体温は低下する。最終的には低体温症で死に至ることがあるにも関わらず、いまだ治療薬が開発されていない病気だ。


 処置として有用なのは抱擁ほうよう。石のように固まった体を人肌で温めることで筋肉が弛緩し、針が抜けるのだ。


 しかし、この治療法にはリスクが大きい。前傾に丸まっている患者を抱き締めれば、抱き締めた者が針で串刺しにされてしまうのだから。針を医療機関で引き抜く治療法もあるが、硬くなった体は麻酔薬をうまく流せないため激痛を伴う。しかも保険適用外だ。


 そんなヤマアラシ症候群が、宵から情報提供があった日以降、流行り始めた。


 感染経路も発症原因も不明の病に街は震撼し、明日は我が身と怯えて引きこもる。一気に在宅勤務は加速し、日々ヤマアラシ症候群に関する死傷者が報道された。


 ヤマアラシ症候群を発症し、低体温症で亡くなった患者。そんな患者を救おうと抱擁し、大怪我を追った負傷者。


 抱き締めることで助けられる。だが抱き締めれば自分が貫かれる。患者を抱き締めたいと思うのは近しく大切な者ばかり。だからこそ患者は抱擁を拒み、体温は下がっていく。どれだけ毛布を重ねても、暖房を重ねても。ヤマアラシ症候群には人肌しか効き目がなかった。


「助けたいから抱き締めさせて」


「傷つけたくないから抱き締めないで」


 それは患者の周りで起こる会話であり、それ以外の者は「怖いから近づかないで」と距離を取る。医療機関は逼迫し、医者は冷えていく患者に成す術がない。貫かれれば医者の方が死に瀕してしまうのだから。


 だが、それが通用しない者がいる。異者は医者と異なる為に異者なのである。


 安心院という鬼女は日々増えるヤマアラシ症候群の患者を治していた。


 太いヤマアラシの針を背負った患者を診察室に通し、迷うことなく抱擁する。どれだけ腕が貫かれても、どれだけ腹部に穴が開こうとも。


 彼女は鬼だ。どんな傷もすぐ治る。切り傷だって弾痕だって。強靭な彼女の体は、首を刎ねられなければ問題ない。


 安心院だけでなく、治癒能力の高い異者は率先して患者を抱擁した。患者を救う為。人外科を社会に良い方向で知ってもらう為。人も人外も分け隔てない社会にしていく為。


 身を挺してヤマアラシ症候群を治療する異者達の元へ患者は押し寄せた。安心院の病院も例外ではなく、ほぼ毎日毎時間、彼女はヤマアラシの針を抜いたのだ。


「ありがとうございます、先生ッ」


 泣いて感謝する患者。感動して頭を下げ続ける患者。血だらけの安心院に頬をひきつらせた患者。


「お大事になさってくださいね」


 様々な患者を安心院は診察室から送り出した。白かった床は彼女の血で赤く染まり、白衣は穴だらけ。それでも異者は笑っている。


「せんせーストップ、受付閉める」


「駄目ですよ三珠さん。まだ診療時間です」


「先生」


「次の方を呼びましょう」


「安心院先生」


「大丈夫ですよ。ほら、私ってすぐに傷が、」


「安心院」


 地を這うような三珠の声を聞いても、安心院は笑っている。この鬼はいつもいつでも、笑っている。


 奥歯をすり合わせた三珠は安心院の両頬を挟み、三白眼を近づけた。


「治っても、痛みはあるだろ」


 太くなった三珠の尻尾。閉まった瞳孔は鬼女を見咎め、喉は重たく唸りを上げる。


 安心院は微かに目を見開いたが、その顔には、再び笑みが浮かぶのだ。


「ありがとう。それを知っている人がいるだけで、私は頑張れるよ」


 砕けた口調で安心院は肩を揺らす。どこまでも鬼らしくない。もっと我儘に、もっと非道に、もっと荒くなれば彼女だって楽だろうに。


 彼女もまた、偏見を身に染みて感じてきた人外だから。彼女は誰も見捨てられない。鬼らしくなることが出来ない。


 彼女は患者を治し続けた。痛みを喉の奥で噛み潰し、呻きを飲み、涙をこらえて。


 それでも病は迫りくる。


 ある日、開院前に安心院が倒れた。発熱と貧血。連日の治療で疲弊しきっていたのは火を見るよりも明らかだ。


 三珠は出入り口に〈休業〉の看板を掲げる。そこには今日も朝からヤマアラシ症候群の患者がやって来たが、三珠は門前払いした。


「無理っすねー。せんせー倒れちゃったんで。他の病院紹介するんでー」


「その、その間に症状が悪化したらどうしてくれるんだ!!」


 三珠の前で騒ぐ患者。その声に当てられて、他の患者の顔にも苛立ちが浮かんでいく。ヤマアラシ症候群である者もない者も、平等に。


「治療してもらう為に来たのに」「薬だけでも下さい」「どうして先生が倒れるんだ」「まさかヤマアラシ症候群?」「異者ならしっかりしてくれよ」「もっと責任を持ってくれないと困る」「助けてよ」


 数多の声に三珠は反応しない。光を反射しなくなった目は薄暗く、路地裏で伝染していく感情に吐き気がした。


 それでも彼は、倒れた安心院の為にも頭は下げなかった。


「別の病院に行け。薬は出せない。先生も生きてるんで倒れる。以上」


 膨れた罵詈雑言を背中に受けながら三珠は病院に入り、内側から鍵をかける。カーテンも閉め切って暫くその場で待機していれば徐々に外の声は離れていった。壁にどれだけ暴言を吐いても反応がないのだ。そんなの喉が疲れてつまらないだけだろう。


 三珠は安心院が眠る病室に戻る。彼女はゆっくりと瞼を上げ、傍に立った三珠を見上げた。男の六本の腕はそれぞれ動き、氷枕を確かめ、額を冷やし、熱を測る。解熱剤と飲み物を準備したトレイは傍に置かれ、安心院はぼんやりと同僚の動きを見ていた。


「ありがとう、三珠さん」


「一つ貸しですからねー」


「はぃ」


「嘘ですよー。さっさと治して旅行に行きましょーねー」


「行先も、決めてませんけど」


「ンなの出発してから決めてもいいじゃないですかー」


 三珠は安心院に何か食べさせようと考えたが、それより早く鬼女の手が解熱剤を掴む。三珠が止める前に安心院は薬を水で胃に流し込んだ。薬剤師は不機嫌そうに尻尾を揺らす。


「胃が荒れるぞー」


「鬼の胃、強いんで、平気です」


 力なく笑った安心院は枕に頭を預ける。一つ息をついた彼女は目を閉じて、三珠は引っ張ってきた椅子に腰かけた。


 静かだ。


 いつもの鬱々とした騒々しさがない。患者の声がしない。足音もない。不満も不安も去って行った。治された者達は治した者が倒れていようと見向きもしない。


 三珠は軽く奥歯を噛み、久しぶりに血だらけになっていない同僚を見下ろした。


 安心院は隈の浮いた目を閉じて眠っている。三珠は暫く鬼を見つめ、起き抜けに食べられる物を買ってこようと立ち上がった。枕元にメモを残して、近くのスーパーまで。


 三珠はしっかりと病院を施錠して、足早に買い物も終える。今日もヤマアラシ症候群の発症数が街の大型モニターには示されており、救急車がよく通った。


 そこでふと、三珠は背中の違和感に襲われる。六本腕の付け根。他の者とは違う背中の筋肉が引き攣り、足元から一気に悪寒が駆け上がる。


 ぐるりと視界を回した三珠は膝から崩れ落ち、買ったばかりの卵が割れた。


 冷や汗と一緒に呼吸が浅くなる。背中の皮膚を突き破られていく痛みを覚える。六本腕で自分を抱き締めるが、そんな行為は無駄なのだ。


 歩道の脇で一体の人外が蹲っている。背中からゆっくりと、ヤマアラシの針を生やしながら。


「あれって」「うわマジか」「誰か救急車呼んだ?」「誰か呼ぶだろ」「あれって近くに寄ったら移るんだよね?」「触ったら移るんだろ?」「とりあえず詳しい人とか何とかしてくれるっしょ」「行こう」「大丈夫」「誰かどうにかしてくれる」


 三珠の猫耳があらゆる声を拾い、自嘲させる。体が意思とは関係なく前に縮まり、寒さに奥歯を震わせながら。


 誰かが何とかしてくれる。ならばその誰かは、どこにいると言うのか。


 三珠の頭には、いつも朗らかな鬼女が浮かんだ。


「……嫌だなぁ」


 三珠は足を引きずって路地裏に入る。惨めな視線から逃れ、奇異の言葉を聞きたくなくて。

 

 三珠は暗がりで一人、体を丸くする。


 病院に帰りたいが、帰りたくない。帰ればあの鬼が傷ついてしまう。傷つけてしまう。そんなの猫は望んでいない。


 だからと言って帰らない訳には行かない。弱った彼女を一人にしていたくない。彼女を傷つけない為には、別の病院で治療して帰るのが最適。


 道路を再び救急車が通る。ニュースでは救急医療が追いついていないと原稿が読み上げられる。


「……八方塞がりかー」


 三珠は震える息を吐き、一時の現実逃避として、路地裏で目を閉じた。


 ***


「……三珠、さん?」


 目覚めた安心院は時計を確認し、思った以上に自分が眠っていたと知る。時計の針は最後に見た時から二周はしており、サイドボードには「買い出し行ってきまーす」と三珠の字と記入した時間が残っていた。


 安心院は気怠い体で起き上がり、頭を働かせる。そこで、胸騒ぎがした。三珠が買い出しに行ってから時間が経ち過ぎだと気づいたから。


 彼女は足を引きずりながら病院を出る。電話を片手に三珠がよく行くコンビニを覗き、いないと分かればスーパーの方へ向かった。まだ微かに火照っている体は重たいので、帰りは同僚に支えてもらう算段をしながら。


 彼女はそこで聞く。スーパーの方へ続く横断歩道ではなく、反対の路地から同僚の着信が聞こえることに。


 鬼女の心臓が重たく拍動した。


 彼女は恐る恐る足を運ぶ。横断歩道を渡る者達とは反対側。人通りの多い場所を離れ、着信音だけが響く薄暗がりへ。


 一歩一歩、進んで見つける。


 路地裏で丸まっている同僚を。


 背中から、ヤマアラシの針を生やした三珠を。


 安心院の体からは血の気が引き、熱も忘れて駆け寄った。


「三珠さん! なんっ、嘘、三珠さん、三珠さん聞こえますか!?」


「……うわ、せんせーだ」


 響く鬼女の声に猫は重たそうに瞼を上げる。冷たい体は関節が固く、安心院はすぐに腕を広げた。それを阻むのは三珠の腕だ。


「いやですよ、せんせー」


「黙ってください」


「いやです。ほんと、いやです」


「腕を退けてくださいッ」


「いやだ、ってば」


「治療させてください!」


「安心院に怪我させるくらいなら、治療しなくていい」


 三珠の言葉に安心院の唇が震える。三珠は冷たい地面よりも体温を低くし、早急に治療して欲しいと思うわけだ、と今までの患者達を思い出した。


 安心院には、頼むから知り合いの異者に連絡してくれ、と祈りながら。


「嫌だよ。君を治せなくて、なにが異者だ」


 そんな祈り、彼女には届かないのだが。


 三珠は鼻で笑ってしまう。自分の腕を掴んで引き起こす鬼の強さと、彼女の熱を知りながら。


 丸まった三珠を安心院は抱き締める。体を串刺しにされ、低い体温に凍えながら。彼女の体内で暴れる熱を伝染させ、少しでも早く彼が温まれば良いと視界を滲ませて。


「うわ、すげー」


 そこで彼女は、他人の声とシャッター音を耳にする。


 見たのは自分達にカメラを向ける通行人。何も知らない野次馬。何もしなかった雑多の一人。


 見物の火種など一人いれば十分だ。路地裏を物珍しそうに覗く目は非日常に興味を示し、記録に収めて過ぎていく。


「あれって鬼? 治療してるの?」「めちゃくちゃ痛そうだよね」「俺できねーわー」「こんな所でしなくてもいいのに」「あの血とか、感染源にならないのか?」「抱き締めたら治るってちょっと良いよね」


 安心院の拳に力が入る。歯茎が疼いて牙が伸びる。シャッター音がする毎に彼女の血液は沸騰し、動画を撮る音に頬が痙攣した。


「そんなに、面白いですか」


 三珠の背中から針が落ちていく。興味が失せた者は立ち去り、また別の者が少しだけ足を止める。


「彼がここにいるって、誰も気づかなかったんですか」


 針が地面にぶつかる音が木霊こだまする。鬼女の言葉は雑踏に踏み潰される。


 そこで彼女は見るのだ。


 数日前に病院を訪れた患者を。その目が安心院と三珠を一瞥して、興味なさげに去って行く姿を。


 気づけば彼女の喉は焼けるような熱さを覚え、角が赤く染まっていた。


「私達は、見世物じゃないッ!!」


 突然の鬼の威嚇に通行人は顔を青くする。そのまま足を速めて立ち去り、安心院は路地の奥へと三珠を運んだ。幸か不幸か、三珠は途中から意識を失っている。彼も連勤が続いていたのだ。無理はない。


 安心院の滲んだ視界が決壊する。彼女は針が抜け落ちた三珠を抱き締めて、人がいる通りを背にして声を押し殺した。


 熱い雫が三珠の頬に落ちて流れていく。


 かと思えば、熱を凍らせるほどの寒気が安心院を襲うのだ。


 関節を固め、彼女の筋肉を緊張させる病。背骨を軋ませ、皮膚を破る痛みが安心院の全身を駆け抜ける。


 鬼は予期せぬ症状に息を呑み、固く三珠を抱き締めた。体内で高温と低温が混ざって吐き気を生む。


 それでも彼女は歯を食いしばって、背中を破いた針には笑うしかなかった。


「もっと、タイミングくらい……考えてよ」


 毒づく安心院は三珠を離す。まだ、離せる内に腕を広げる。倒れた同僚が起きなかったのは、運が安心院に味方したのだろうか。


 薄闇の中で熱に浮かされた鬼が笑う。背中を丸めて、息を荒げて、渇いた笑いと一緒に涙がうだる。


「……異者とは、さよならが、良いんです」


 不意に響いたのは肉が裂ける音。無理やり何かを抜いた異音の後には、地面に固い物が投げられた。


 路地に転がるのはヤマアラシの針。肩で呼吸する安心院の背中は、血だらけだ。


 丸まろうとする筋肉を、鬼の筋力で無理やり動かす。震える右手が背中に回る。


 自身の針を掴んだ彼女は、息を止めて力を込めた。


 勢いよくヤマアラシの針が抜かれ、最初に転がった物の隣へ投げられる。脂汗を浮かべた安心院は浅い呼吸で地面に額を擦り付けた。


「……異者や、カウンセラーの元に、患者は帰って、来ないのが、一番」


 彼女は低い声で、学んだことを言い聞かせる。一本一本、針を重たく引き抜きながら。喉を競り上がる吐き気を飲み下して。信じていた考えで上塗りしようと心掛けて。


「忘れて、いい。医者にも、異者にも、関わらなくて……知らないままなのが、健康の証、だからッ」


 安心院の手が抜いた針を雑に投げる。脂汗と涙が混ざった液体を垂らした彼女は、砕けそうなほど奥歯を噛んで、呼吸した。


「これは、正しい。私のことは、私が、治す……のが、ただ、しぃ……?」


 血だらけの手が伸び途中の針の芽を摘んでいく。何度も何度も呻きを腹に沈め、血液で滑る手に力を込めて。


 今にも飛びそうな安心院の意識を繋ぎとめたのは、目の前で倒れている三珠の姿だ。


 彼女の指が震える。滑った指先が針を掠り、痛みだけが背中を走る。


「ちくしょう……」


 鬼女は大粒の涙を零し、血だらけの手で顔を掻き毟る。


「……ごめん、三珠さん」


 目元を赤く染めた鬼女と倒れる猫を建物の影が覆う。


「ごめんね」


 針を握り締めた手は力強く凶器を抜き、血と共に路地へ叩きつけた。


「……行こっか、あったかい場所」

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