第3話 心の霧

「御館様。戻りました、と。」


信玄の陣幕に、先程の隻眼の将が現れて言った。


信玄は椅子に座り、床几の上の陣形図に目をやっていた。


「勘助。この策実に面白いの。」


信玄は陣形図の駒を、愛用の軍配で動かしながら言った。


「…。」


勘助と呼ばれた男は黙っている。


この隻眼の男。


山本勘助。


口数の少ない男だが、この信玄軍の軍師である。


「景虎の慌てふためくツラをこの目で見たいものじゃ。」


「…。」


「あの霧をお主の術で晴らす事はできんかの?」


信玄は少し冗談気味に勘助に言った。


「拙者は、そのような術を持ちませぬ、故。」


勘助は少し困ったように言う。


「ははは。冗談じゃ冗談じゃ。いつも堅いお主をの、少しでも気休めにならんかと思っての事じゃ、気にするな。ははは。」


信玄はそう言うと、また床几に目をやる。


そこへ勘助は


「術は持ちませぬが、案はございます、と。」


信玄の眉が上がった。


「何と?」


「あの霧は、御館様の心の霧。ならば、少しでも晴らす案を、ば。」


「ほほう。面白い。どんな案じゃ。」



この言葉に信玄は勘助に意中を射られた気がした。


(よう心を読む男ぞ。)


と、信玄は感心した。


信玄の心の霧は、宿敵景虎の動きが読めない所にあった。


この戦場に先に到着したのは、上杉軍であった。


で、あれば。


妻女山近くにある、武田方の海津城攻めは確実と思われていた。


海津城を取られれば、戦局がどうなるかは火を見るより明らか。


しかし、上杉軍はその海津城を攻めずに妻女山に陣取った。


(軍神とも畏怖される上杉景虎。どんな策を)


武田方は、景虎の読めぬ動きに動揺を隠せなかった。


兵の心を読むに長けた信玄は、軍団の士気低下を危惧し、山本勘助と馬場信房に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。 

 

 山本勘助と馬場信房は、兵を二手に分ける、別働隊の編成を献策した。


 この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉本軍を麓の八幡原に追いやり、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。


 信玄はこの策を採用したものの、一連の上杉軍の動きに、信玄の心の霧は晴れる事は無かった。


その心の霧と、目前に広がる霧を晴らして欲しいと軍師に頼むと、その軍師は心の霧を晴らすという。


「八幡原に、て。諏訪の音色、をば。」


勘助が言う。


(!!!!!)


信玄の目が開いた。


信玄は椅子から立ち上がる。


「勘助!!良い案じゃ!諏訪の太鼓でこの霧を晴らすか!」


「既に帯同しておりまする、と。」


「ははは。なんとも。」


信玄は手を叩き喜んだ。


「勘助!我が陣の後ろにて叩かせよ!霧を晴らし、各将を鼓舞せい!」


「御意、と。」


勘助は応じると、外に出て行った。


(無骨な男よ。しかし、あやつは何手先まで読んでおるのか…)


信玄は感服しながらまた椅子に座った。


程なくすると、信玄の陣幕の後ろに20名程の人影が現れた。


(来たか。)


ばっ!!!


旗の上がる音がした。


信玄はその旗に目をやる。


「諏」


と書かれた旗が目に入ると同時に


「せいや!」


と、掛け声がかかった。


信玄はこの瞬間がたまらなく好きであった。


よく抑えた高揚感がここに極まる気がしてならないのであった。


「ドン!!!ドン!!!!」


信玄の五体を、太鼓の音色が響く。


細胞一つ一つが起こされるような気がした。


「ドン!!ドン!!ドドン!!」


信玄はたまらず陣幕を出た。


前方の霧の先に我軍の勝利を確信できる程の高揚感。


周りの兵もこの音色を聞き武者震いしている。


(この戦。儂の心の霧が晴れぬうちは勝てぬ。)


信玄はそう思うと、目を閉じた。


「ドン!!ドン!!ドドン!!」


「チャリン!!チャリン!!」


鈴の音も加わると、信玄はまた目を開いた。


(晴れた!!!!)


信玄は心の霧を太鼓の音色と共に、その強靭な精神力で晴らした。


と、その時。


「お。ははは。勘助め。本当に霧を晴らしよったか!」


と、信玄は言った。


八幡原の霧が徐々に晴れて行ったのであった。



「!!!!!!!!!!!!!」



第三話 完


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