戦国伏龍伝 覇道編

ヨーイチロー

第一章 巨星堕つ

第1話 伏龍の決意


「そうか。いよいよ危ないのじゃな」

 氏真は静かに目を伏せて呟くと、様々な思いが胸をついたのか、目を閉じたままぎゅっと眉根を寄せてそのまま口を閉ざした。対面する勝悟も、氏真の気持ちを推し量ったように、ただ静かに澄んだ目で真っ直ぐに見つめていた。


 氏真は今年還暦を迎える。だが蹴鞠で鍛えたその肉体は、背筋をピンと伸ばした美しい姿勢を保ち、腹部は見事に引き締まっている。その姿は初陣を迎える若武者にも負けないように見えるが、残念なことに民を思う優しい心が邪魔して、その優れた肉体を生涯一度も戦場で使うことはなかった。

 当代きっての文化人として生きることで、源氏の流れを汲む名家に生まれながら、名将と謳われた父と違って、次々と現われた覇者の死を見送るだけの人生だった。秀吉危篤の報に、万感の思いを胸に抱いたようなその姿は、同じ時代に生きた英雄を再び見送らねばならないという皮肉な思いもあるのだろう。


「勝悟殿も難しい立場に置かれますな」

 再び目を開いた氏真の口から出た言葉は、自連の政治的立場を憂うものだった。

「私がというより、自連がですね。今の代表は長安ながやす殿ですから」

 勝悟の訂正に、氏真は確かそうじゃと口走りながら頷く。



 図らずも三期と、長期政権に成った勝悟の後を引き継いだのは、土屋長安だった。天正十四年(一五四五年)生まれの長安は、勝悟よりも四才年上で今年五四才になる。長らく武田氏の金庫番として、駿府の経済界の重鎮として辣腕を振るっていたが、自連発足後に突然職を辞して駿府大学校に入学、政治学を学ぶ傍で商学の講師も務めていた。

 長安はそのまま在野の士として生を全うしたかったようだが、軍と政治を完全に分離したかった勝悟に口説かれ立候補を決意し、そのまま見事に当選してこの時代には珍しい文民宰相と成った。文禄三年(一五九四年)に誕生以来既に二期目に入った長安政権だが、その最大の試練は昨年度の第二次朝鮮征伐(慶長の役)への出兵要請だったであろう。

 文禄の役では出兵はおろか戦費の供出さえも、勝悟はきっぱりと断った。もちろん秀吉は激怒したが、自らの輝かしい戦歴さえも霞んでしまう強者と、これから大陸侵攻を行う状況で争う愚を犯すことを恐れ、辛うじて怒りを静めた。その例に倣い、長安も出兵要請を拒否したが、このときの秀吉は執拗だった。そこには文禄の役で朝鮮の全八道のうち七道を制覇したにも関わらず、朝鮮水軍に兵站を脅かされ、食糧補給が満足にできなかった背景があった。


 その当時の自連は勝悟の発案によって、産業革命の真っ只中にあったが、その始まりは伊豆に小規模な炭鉱が発掘されたことだった。

 秀吉の天下統一によって国内の流通経路が大坂に集中し、経済的発展に行き詰まりを感じていた勝悟は、その目を海外に向けた。しかし明、朝鮮は国を閉ざし闇貿易以外に取引がなく、大きな市場としては遠く離れた欧州しかない状況で、日本にはインド洋を渡りきる航海技術がない。加えて欧州に対して銀以外目ぼしい輸出品もない。これらを打開するためには、産業革命による機動性の高い大型帆船の建造と、工場制手工業を凌駕する安価で一定水準の品質を目指した機械制大工業へ転換が必要であった。


 勝悟は現役を退いていた土屋長安の旺盛な好奇心に火をつけ、二人で協力して自ら設計した蒸気機関の実現に成功した。伊豆の炭鉱は蒸気機関の完成後すぐに枯渇したが、今度は完成した蒸気船を使って、明確な支配者のいなかった蝦夷地に、武田に仕えていた金山衆を送り込んで炭鉱発掘を行い、大量の石炭の確保に成功した。さらに新たな工業資源として遠州で大量の綿花の栽培を奨励し、蒸気機関を利用した紡績機と織機を発明して綿製品の大量生産体制を構築した。


 自連の産業革命はそれだけでは終わらない。大量の石炭を活用した製鉄所の建築、そして海上機動力を大幅に向上させるスクリューの発明によって、当時世界のどこにもない総排水量一万トンの大型船を作り上げた。文禄の役の主力艦船である安宅船の排水量が千五百トンであることから、実に七倍の大型船が常時二十ノットの速度で航海可能になったわけだ。

 その上海上でも安定した広い船体は、確かな足場を必要とする新型フランキー砲を、八門も装備可能にした。新型フランキー砲は、大友氏が使用したフランキー砲の二倍の破壊力を有し、新船はまさに動く要塞として遠い欧州への航海の安全を確保した。出兵要請があった頃の自連は、名実ともに世界一の輸出大国であり、どの国にも負けない海の覇者として大躍進を遂げていた。それ故に秀吉は兵站の安全を確保しようと、しつように自連の海軍力を確保しようとした。


 長安は悩んだ。秀吉の要請は海上輸送のみであるから、自連の海軍力を持ってすれば危険は皆無と言える。秀吉の野望はともかくとして、戦地に赴く同胞の助けに成ることには意義を感じた。しかしこの戦いは異国への侵掠戦争となる。経済侵攻を是としても、一方的に他国を脅かす武力侵攻は、文民統治を信条とする長安の方針とは大きく異なる行為だった。

 結局長安は秀吉の要請を拒んだ。自連の武力は民の自由と安全を保障するためのものであって、侵掠に使うものではないという国是を貫いた形だ。この決定に際して、勝悟は一言も口を出していない。最終的に秀吉は要請をなかったものとして不問にした。理由は前回と同じで、いやそのとき以上に自連と戦をして、勝ちを得る自信がなかったからだ。



「秀吉殿が亡くなれば、朝鮮への遠征軍は撤退となるでしょうな」

 氏真は静かな口調で自身の見解を口にした。勝悟はこれに頷き、氏真の懸念を言葉にした。

「撤退する兵の安全を確保するためには、強力な海軍力が必要になる」

「当然自連には協力要請が来るでしょうな」

「それを長安殿がどう判断するか。難儀なことだ」

 まるで他人ごとのような勝悟の物言いに、氏真は堪えきれずに苦笑した。

「今回も勝悟殿は長安殿に対して沈黙を貫かれますか」

「当面はそのつもりです。私は大きく軍に関与した男です。助言すればその決定は純粋な文民の判断とはならなくなる」

「拘りますな。まあ、それも正しい姿勢じゃな」

 氏真は一人納得した風に、厳しい顔を崩した。氏真も既に議員を退き、公の立場にはない。隠居した者同士の気楽な気分に立ち戻ったようだ。

「それに、撤退の指揮をとるのが石田三成であれば、自連の立場を考慮して要請してこぬかもしれぬ」

 勝悟は豊臣政権で最も信頼する男の名を口にした。



 石田三成は自連の現議員以上に、自連の成り立ちに深い理解を示す者だった。その目は自連の国力を正しく計り、その頭脳は勝悟が掲げた国是の意味を疑うことなく理解した。それどころか自連を手本として、経済による全国統治を目指して、その働きはかなりの成功を収めている。反面、経済統治を急ぐ余り、その情熱は怜悧と誤解されて、感情論に支配された武功派の反感を買った。徳川家康はその真意は別として、これらの反三成派の旗頭的な位置に立った。秀吉存命の今は二つの勢力が表だって争そうことはないが、亡くなった後はどうなるか分からない。

 三成の影響力が強い状況ならば、自連の立ち位置を慮って自力で撤退を図るだろうが、そこに生じる不安要素が家康の存在だ。氏真は三成の影響力低下を心配し、勝悟はそれでもやりきる男だと信頼した。

 勝悟がそう思う背景には、大坂と江戸の間には自連が存在し、地勢的に両者の武力抗争の障害と成る。それを長安が政治的な力量で働きかけると信じているからだ。武田家臣だった頃に、共に武田の経済力を立て直した長安を、氏真以上に勝悟は評価していた。



 勝悟の発言の裏に潜む長安への信頼に気づいた氏真は、うんうんと頷きながらも再び顔を曇らせた。

「長安殿の働き次第で、難題は来ぬかもしれぬ。ただわしは家康という男をよく知っている。あれは腹の中の大きな野望を上手に人に見せぬまま、長い間耐え続けることができる者じゃ。そう言った人身掌握術では、当代一と言って差し支えないであろう。果たして自連に要請することさえせずに、この難局を自力で乗りきろうとして、三成殿が悪い立場に追い込まれぬか、それが心配じゃ」

「なるほど。幼き頃からの家康をよく知る氏真殿ならではの賢察ですな。それならば形の上だけでも、三成が要請し長安が断る方が、その後の安定につながるわけか。しかし三成殿はそういう腹芸はできまい」

 勝悟は言い終わってから、長安への提言を促すような氏真の視線を感じた。腹芸のできない長安も、勝悟の言葉ならば従うだろう。少しだけ勝悟の心に迷いが生じた。


「いや、私は沈黙を貫きます。政局がどれだけ難しくなるとしても、自連の未来のためには長安殿が自ら考え動くことが大事じゃ」

 しばしの沈黙を経て、勝悟は自分に言い聞かすように、きっぱりと言い切った。

「勝悟殿は国内の平和が損なわれることを小事と見なされるか」

 言葉だけを聞けば厳しかったが、氏真の顔には嬉々とした好奇心が覗いていた。

「小事でございましょう。一時の平和を得られても、長い時が流れれば必ず戦は起こります。そのときに頼りになるのは、目先の利害に左右されない信念のみ。未来のこの国の民のために、よしんば戦が起きるはめに成ったとしても信念を貫くべき」

「見事じゃな。だがもし戦となれば、軍には復帰するのであろう」

「要請があれば、自連軍の一将として」

「それは別の意味で楽しみじゃな。神の目の復活か」


 嬉々とした表情に戻った氏真を見ながら、ここにも好奇心という怪物に屈した者がいると、勝悟は思った。やれやれという感情と共に、自分にも予期しなかった期待が生じていることに気づき戸惑う。信念を貫いた先に待っている世の中を見たい、という年長者に不釣り合いな欲望を押さえることができなかった。そこには人命尊重や民の心の平穏などが、いつの間にか二の次となっている。

 ふとこの世界に来る前に、躍らない心に身をやつした日々を思い出した。平和な世の中で何不自由なく暮らしていたはずが、日々不満を募らせ鬱屈した心を持て余した若き日の自分の姿だ。

 目の前の氏真と若き日の自分が重なり、さらには今の自分も同じだと気づいた。その驚きはやがて苦笑に変わる。


「お互いに因果な性分ですな」

 氏真は勝悟の呟きに一瞬ぽかんとしたが、すぐにうんうんと頷いた。呟きの真意に気づいたかは不明だが、勝悟の復帰の決意をはしたなくも喜ぶ自分に気づいたのかもしれない。事態の深刻さを他所に二人の間に穏やかな沈黙が流れる。


 勝悟の脳裏には、勝悟だけが知る関ヶ原の戦いの結末が思い浮かんできた。今でははっきりと分かる。勝悟が苦痛に感じたその後の日本の礎は、勝者である家康によって築かれたものだ。この時代の日本人は、自分が大切に思う生きる姿勢を守るためには、命をかけて争うことを決して躊躇わない。それを失うことは死に等しいと信じている。

 それは家康が齎した社会構造の安定を第一とする考え方に、二百年以上の時をもって完全に塗り替えられてゆく。明治維新の時期に再び復活しそうになったが、徳川政権の打倒に伴いそれを指導した者たちは悉く死に絶え、結局元に戻った。その後狂気じみた二度の大戦を経て、その後の日本は社会体制の維持が一番の目標とされ、勝悟はそれに苛立ちを覚えたのだ。だがその点に関して、家康も傀儡にすぎないと勝悟は感じている。全てを操る影のフィクサーの存在に、勝悟は静かに闘志を燃やしていた。


 門の方で太郎の声がした。続いて廊下がきしむ音がする。

 いよいよ始まる予感に、勝悟の胸は激しく高鳴った。

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