第5話 地下室で 2

「にゃあ」


 薄暗い地下室で、猫の鳴き声がした。


「なっ。猫? なんで? どこから?」


 地下室のドアは閉じられたまま内側からカギがかかっている。通気口はあるが鉄条網で封をされているので猫など入り込む隙間は無い。カエスは慌てたように猫を捕まえようとするが、猫はするりとの手を逃れる。


「カエス、放っておけ」

「し、しかしレクター様っ」

「初めて見るか? それがチェシャ猫だよ」

「チェシャ猫? ……これが?」


 カエスはまじまじと猫を見る。だが、その猫はどう見ても普通の猫にしか見えない。手を伸ばそうとしても猫はそれを拒絶するように逃げていく。


「なんでチェシャ猫が?」

「この少女が気に入ったのかのう? 召喚した時から一緒にいた……もしかしたらあちらの世界でこの少女に懐いていたということかもしれん」

「ううん……本当にチェシャ猫なんですか?」


 カエスが疑わしげに猫を眺めていると、今度はレクターが猫に近づく。


「お主はこの子を助けたいのか?」

「にゃあ」


 チェシャ猫はレクターの言葉が解っているかのように小さく鳴く。


「ふむ……そうじゃのう……ワシ等もこの子を助けようとしておるのだが。少し素材が足りなくてのう」

「……レクター様?」

「もしよければお主の爪を少しだけ分けてくれんかな?」


 レクターがまたおかしな事を始めたと、カエスが微妙な顔でレクターを見る。レクターは気にすることもなく猫に近づいていく。

 今度は猫はそのままそこでレクターを見つめていた。


「ほんの少しじゃ、このハサミで爪を切らせてくれ」


 レクターが左手を伸ばすと、猫はチョンとその手に自分の手を乗せる。カエスが息を呑んでそれを見つめる中、レクターがパチリと猫の爪を切る。


「ふむ、大事に使わせてもらう」

「にゃあ」


 レクターはその爪を大事そうに手に包み、そのまま作業をしていた水槽に近づく。


「な、何をするつもりですか?」

「組織の培養に少しだけ混ぜてみる」

「へ? そんなことして大丈夫なんですか? せっかく竜の素材を使っているのに」

「チェシャ猫の爪じゃ。竜などとは比べ物にならないくらい貴重なものだぞ?」

「いや、貴重とかそういうものじゃなく……」

「ワシもどうなるかは分からんがな。このチェシャ猫が躊躇いもせず分けてくれたんじゃ。きっとうまくいく」


 そう言うと水槽の中に爪をはらりと落とした。


 ……。


 チェシャ猫についての報告はかなり古い。有史以前より存在したのではと言われている。当然その存在について研究をしようとした者は多く居たが、人が触れようとすると煙のように消えてしまう。魔法やガスなどで眠らそうとしても成功した事もなく、謎ばかりが山のように積み重なる存在であった。


 唯一、その存在を確認できるのが召喚の儀で行われる座標固定である。その術式は神が残したともいわれ、召喚によりチェシャ猫と、その周囲の人間を巻き込んで召喚できるということで現在でも行われているが、その術式は元々チェシャ猫を呼ぶための物であり、異世界人の召喚は副産物でしか無いという考えもある。


 なぜチェシャ猫が存在するのか。なぜそのチェシャ猫を呼ぶ召喚式が残されているのか。……その意味、理由なども不明であり、全く謎な生物だった。


 そんなチェシャ猫に記録上初めてレクターが触れることが出来た。しかもその爪を得ることも出来たのだ。レクターの興奮たるや想像することは容易いだろう。


 レクターは必死に興奮を抑えながらしばらくそのまま水槽の中を見つめていた。爪はブクブクと泡を立てて羊水の中に消えていく。

 すると、一瞬だが羊水が光ったように感じた。


「おお……」


 だが、その光は長く続かず、スグ消える。

 レクターは、確信した用にうなずく。


「見たか?」

「え? はい?」

「いや、なんでもない」

「はぁ……」


 レクターが聞くも、カエスは水槽を見ていなかったため何のことだか分からない。


「きっと面白い事が起こる」

「そうですかね? 捕まらないと良いんですけどね」

「大賢者と言われてきたが、己の仕事に満足したことなぞない。……今まではな」

「そろそろゆっくりと余生を楽しみますか?」

「ぬかせ。お前ももう少し楽しみを見出すが良い」

「嫌いじゃないんですよ……寝れさえすれば」

「ゆっくり寝るのは、死ぬときだけで良いんじゃよ」

「……」



 やがて羊水の調整も終わると、二人で少女に呼吸をするための管などを取り付けていく。それも完了するとそっと少女を持ち上げ、羊水の中に沈めた。


「さて上手く行ってくれよ」


 レクターが、そう呟きながら生命凍結の魔法を切る。


 シューシューと空気を送る魔道具が始動する中、二人は少女の呼気のマスクや管に水漏れがないかを確認する。心臓も昨日のような不整な動きは起こらずに安定した鼓動を刻んでいく。


「ふむ……なんとかなりそうだな」

「それは、私の命を削って作ったハイポーションなので」

「おおげさな。ほれ、手が止まってるぞ」


 レクターは器具を手に、羊水の中に手を突っ込みながら肉を切り開き、砕かれた骨などを除去していく。慌ててカエスも同じ様に作業を手伝い始める。


「でもこれでは元の骨が残ってアンバランスになりませんか?」

「造骨システムはすべて新しいものに置き換えるんじゃ。人の骨や細胞など5年もすればすべて置き換わる」

「じゃあ、完成するのは五年後ということですか?」

「何をもって完成か、という話じゃがな。まずは五年見るより、今の命を繋ぐことを優先じゃ」

「レクター様も長生きしないとですね」

「これが上手くいくようなら、ワシの体も若く作り直しても良いな」

「それこそ……教会に始末されますよ?」

「かっかっか。教会なんぞ取るに足りんわ」

「またそういう事を……他所でそんな事言わないでくださいよ?」

「お前と違って場をわきまえれるからな」


 二人の眠れない日々はまだまだ続いていく。

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