第二章 本論

ままならぬ国衆たち

 巷間よく知られているとおり、武田晴信(後の信玄)は天文十年(一五四一)、父信虎を駿河に追放して甲斐国守の地位に就いている。


 この時期の晴信に関しては、初陣以降特筆すべき実績が今日に伝わっておらず、当時としてもほとんど無名に近い存在ではなかったかと考えられる。

 英邁ゆえに将来を嘱望され、宿老に推戴されてクーデターに及んだとするのは脚色された伝説であり、実権を持たない御輿みこしとして担がれたというのが実態に近かっただろう。


 当時、武田信虎は諏訪頼重と同盟を締結し、その矛先を佐久一本に絞っている最中さなかであった。ところがクーデターの翌年、新生武田家はにわかに従来の方針を捨て、諏訪攻略に乗り出すことになる。

 この同盟破棄は従来、武田、村上、諏訪の三者が協力して切り取った佐久の領土を、諏訪がこれら同盟相手に断りもなく、山内上杉に譲った盟約違犯が原因とされてきた。


 しかしその盟約違犯について、村上家が沈黙している点はいかにも不自然である。

 村上は、武田家と同じく協働して佐久を切り取った立場なのだから、晴信に加勢してもよさそうなところだが、諏訪攻略戦では蚊帳の外に置かれている。

 

 つまり盟約違犯云々は口実にすぎず、武田家による諏訪攻略戦は、その領土獲得を目指した純然たる侵略戦争だったと位置づけるべきなのである。

 ではなぜ武田家は従来の佐久進出を棚上げして、諏訪攻略に乗り出さねばならなかったのか。


 前述のとおり信虎は統治晩年、佐久方面進出を志向していたが、佐久への進出は、関東管領山内上杉氏の干渉を呼び込む危険な外交方針でもあった。

 このころ既に鎌倉府は瓦解し、関東管領といっても名ばかりの権威に堕していたと見られることが多いが、武田家には名ばかりの権威すらなかったわけだから、巨大な権威との争いに尻込みする国人領主や軍役衆は多かったはずだ。

 また山がちだった佐久は地味ちみにも乏しく、そのようなところにこだわるよりは、より往来しやすく土地も開けた諏訪方面への進出を目指した方がはるかに合理的でもあった。

「なぜ諏訪ではなく佐久なのか」

 この疑問を抱く甲斐国衆は少なくなかっただろう。


 となると、今度はなぜ信虎は諏訪攻略を目指さなかったのかという疑問に突き当たることになる。


 天文四年(一五三五)八月、武田信虎は郡内の山中やまなかで北条氏綱に大敗している。

 甲斐に雪崩れ込んできた北条勢約二万四千に対し、信虎は二千人をかき集めるのがやっとで、諸方で高名の武士が討たれる存亡の危機であった。


 信虎が辛くも虎口を脱したのは、同盟を結んでいた扇谷上杉朝興が小田原に討ち入るという風聞が持ち上がったからだが、これほどの大敗を喫したあとでは他所よそを切り取るどころの話ではなかったに違いない。


 事実信虎は、大敗の翌月には諏訪大社に直接足を運び諏訪頼満と和睦している。

 郡内山中における大敗が外交上の足枷になって、諏訪と和睦せざるを得なくなり、甲斐の国衆が求める諏訪進出論に応じられなくなった信虎が、その代替策として地道に佐久蚕食に取り組むこととなった構図である。

 外交上のリスクが大きく、しかも利益に乏しい佐久進出に一本化しなければならなくなった結果、信虎は国衆の支持を失い、その主導によって追放されたというのが真相だったのではなかろうか。


 父信虎の追放劇を間近に見た晴信は、国衆に利益を提供できなければ自分もそうなるという恐怖を覚えたはずである。

 晴信は信虎を追放する際、自ら駿河国境まで見送ったと伝わる。信虎追放は晴信の目の前で行われたのである。

 穿った見方をすれば、これは

「俺たちに利益を提供できなければお前もやがてこうなるぞ」

 という宿老たちの恫喝とも取れる。


 信玄治世においては、甲斐国衆はみるみる富貴となり、身形みなりが良くなっていったという。利益を求める国衆の意向を汲むかたちでせっせと外征に繰り出し、新たに切り従えた他国の人々を危険な前線に立たせ、さらに他国の財を掠めとるという、戦国大名の基本的な成長構造がここに暗示されている。

 利を求めて止むことのない国衆の存在は、その後の武田家を制約し続けることになるのだが、一方の信玄の側も、唯々諾々と国衆の欲望に従うだけではなかった。

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