第18話 別れ
大善にとり上げられた龍は、生まれてから翌々日に這い出した。そうして五日後には立ち上がり、よちよちと歩いて、しのぶ姫を驚かせた。ただ龍は、しのぶ姫の姿が見えないのか、愛染明王の屏風に向かってばかり進み、しのぶ姫を悲しませた。
「龍や、龍。……母が見えるだろう。声が聞こえるだろう?」
抱きしめて、何度も何度も語りかけて初めて、その声は龍に届いた。
翌日、龍は「お母様」と言葉を話し、しのぶ姫を驚かせただけでなく、呼ばなくても、彼女のもとに帰ってくるようになった。
生まれて10日目のこと……。龍は凛々しい少年の姿をしていた。
「この方は?」
彼は、奥の間に寝ていた大善の枕元に座り、母親を見上げた。
しのぶ姫は隣でひざを折ると、「龍を取り上げ、名をくれた偉い坊様ですよ」と教えた。
「どうして寝ておられるのです?」
「腕を切り、沢山の血が流れ出したからです。もうそろそろ、目覚めても良さそうな頃」
そんな予感がした。
しのぶ姫は手拭いを濡らし、大善の唇を湿らせた。それから左腕を切り落とした傷口に薬草をはる。龍の成長が早いように、傷口の治りも早かった。
「大善さま」
龍が声をかけると、それを待っていたように大善が目を覚ました。
「おお、龍か。大きくなったな」
龍は愛らしい笑顔で応じた。
大善の声を聞きつけたしのぶ姫が台所から駆け付け、彼の前に両手をついて涙する。
「大善様。私が悪うございました」
大善は身体を起こし、謝るしのぶ姫のうなじをじっと見つめた。その視線で彼女の胸のうちまで見透かしているようだ。
「しのぶ姫よ。まだ謝るのは早い」
「何と申されます?」
「そなたの
翌日、大善は歩けるほどに回復し、龍は筆を取って読み書きをするようになった。
大善は、龍の手を取って筆の運びを教え、文字の意味を語った。
「龍は、何故にこうも成長が早いのでしょうか?」
不思議に思うしのぶ姫は、龍が運ぶ筆を追いながら大善に尋ねた。
「龍は別の時代を生きておるのだ」
大善が語ることは、
「別の時代と言いますと?」
「人も、車も、言葉も。何もかもが速く走る時代だ。そこでは時が滝のように流れおち、人の心がうつろうのも早い」
「私も、そのような世界を見てみたい。でも、心がうつろうとは、
「いずれ見るだろう。お前は永遠不滅。全ての時代に存在する。
「どういう意味でしょう?」
「それはいずれ分かる。龍の命、無駄にするのではないぞ」
それは食うなということだろうか?……しのぶ姫はゾッとした。自分の腹を痛めた子供を食うなど、ありえない。
「森の獣でも我が子は
「表はそうじゃ。しっかし、その実、我が子を捨て、殺す者も少なくない」
「私は違います」
「うむ。信じよう」
大善が、すっと立ち上がる。
「私は、少しばかり旅にでる。私が繭の外に出たら春がこよう。もはや食べ物の心配はいらぬはず。今以降、決して人の肉を食ってはならぬぞ。もし、口にしたら、永遠に救われぬことになる。
「旅など。……まだ雪が……」
しのぶ姫は板戸に目をやった。外の景色は見えないけれど、板と板の隙間から吹き込む風に雪が含まれている。
「なんの、心頭滅却すれば……。いや、愚僧はまだ煩悩の中を彷徨う身。悟りも遠い。だからこそ、旅をしなければならぬ」
大善は愛染明王に経をあげ、手足にぼろ布を巻いて旅の準備をすませた。
しのぶ姫は大善を引き留めたいと思いながらも、彼の肩に蓑を掛けてやった。
「今、明王に祈願し、お前の罪は死者の里に封じた。そこへは決して立ち入るなよ」
「それはどこに?」
「死者の里はどこにでもある。お前を戒めるために現れるのだよ」
現れなければ踏み入ることなどないものの。……しのぶ姫は、大善のいう死者の里に不条理なものを感じた。
「さて、右腕まで食わせる時が来るのだろうか?」
片腕の大善はつぶやき、残った腕で板戸を開けた。氷のような大気がわっと彼を包む。
大善は立てかけてあった錫杖を握った。
――シャン――
錫杖を土間に突くと頭部についた金属の輪がなる。
しのぶ姫は大地が鳴ったと感じた。
大善が経を唱えながら、降り積もった深い雪の中に足を踏み出す。
しのぶ姫は出入り口に立ち、不安を胸に彼の背中を見送った。その足元を小さな影が駆け抜けた。
「大善さま!」
大声で呼び、後を追うのは龍。
「龍、お待ち!」
しのぶ姫の声は届かないのか、息子は飛ぶように行ってしまう。子供を追いたい気持ちはあっても、彼女の脚は地べたに張り付いたように動かなかった。
「大善さま、龍を止めてください!」
その声に応えず、大善はもくもくと足を進めている。その足跡を龍が追う。
一歩二歩……、その一歩が一日の時を刻んだ。
龍は九十歩。つまり、三か月に相当する期間、大善を追ったが、降る雪の激しさで見失い、追いつくことができなかった。
息を切らせ、あきらめて元来た道を振り返る。
彼が見たのは雪景色ではなかった。自宅に続く坂道は、福寿草や水仙が花をつけ、木々には芽が吹いていた。残る雪はわずか。
龍が下り坂を振り返る。そこも早春の景色に変わっていて、大善の背中を見ることはできなかった。
「大善さま。どういうことなのでしょう?」
空に向かって訊いた。
一陣の強い風が吹き抜ける。
龍は額に手を当て、眼を細めて風をやり過ごした。
風が止む。
龍の姿形が青年のそれに変わっていた。
背は高く、髪は肩近くまで伸びている。ジャケットとGパンを身に着け、ポケットにはスマホと財布があった。
目に留まった建物まで坂を上る。
「ここは?」
青年は庭の桜に目を細める。淡い桃色の花が満開だった。
「お帰りなさい、龍。大きくなって、……その
しのぶ姫は、大人になった息子を迎えた。もはや他人のようだ。
「いや……」
青年が戸惑う。
「龍……」
息子の手を取り、次の言葉を探す。
先に青年が口を利いた。
「僕は龍斗です」
別の時代を生きている龍に違いない。……しのぶ姫は悟り、目を細めた。
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