2日目 木曜日

雛祭さんは解かりたい 1

 木曜日。いよいよ修学旅行の準備をはじめるやつらが増えてくるなか、おれは雛祭ちかなのことが気になって仕方なくなっていた。

 なぜなら、休み時間のたびにおれの席に来て、図書館で借りた本のことを聞いてくるのだ。指をさし、ここの言葉の意味を教えろだとか、ここの文章はこういう解釈であっているのか、とか。

 そう―――雛祭ちかなの記憶は、まだ戻っていない。

 今日も朝いちで、母親に連れられ病院に行ったらしいが「時間に任せるしかない」といわれたらしい。本気か、医者!

 とにかく、あんな美少女に付きまとわれては、男女問わず、気にならないわけがないんじゃないか。視界に入れば雛祭さんのことを目で追ってしまうし、すがたが見えなかったらついつい、どこにいるのか探してしまう。ストーカーだけはやめようぜ、おれ。

 そうだ。雛祭さんは、記憶がないんだ。不安だから、おれのところに来るだけなんだ。

 雛祭さんは―――おれが、雛祭さんを召喚した「召喚士」だと思っているから、引っついてくるだけなんだよ。だから、頼むから、肋骨のなかで暴れんな、心臓。


「鯉幟くん」

「ひゃっ」

「どうしたんですか、びっくりして」


 雛祭さんが、きょとんとした顔でおれを見おろしている。

 授業、いつのまにか終わっていたのか。うわ、まずい。さっきの数学、まったくノートを取っていなかった。まっ白なノートを呆然とながめ、ため息をつく、おれ。


「やべえな」

「何が、やばいんです?」


 雛祭さんがおれの顔をのぞきこむ。大きな茶色がかった瞳に、おれが映りこんでいて、なかば強制的に心臓が暴れはじめる。おい、こんなの反則だろ。


「数学、ノートとってなかった」

「あら、なら……わたしのノートでよければ、写しますか?」

「雛祭さん、日本語書けるようになったのか」

「日本、はこの世界の名前でしたよね。ええ、もちろん。もう完ぺきですよ」


 昨日のこと。おれは図書館で、雛祭さんにこの世界のことを教えることになった。地頭がとにかくいいから飲みこみが早く、おれも教えるのが楽しかった。

 おれは雛祭さんにこの世界の名前を「日本」と教えた。そのほうが色々と便利だったからだ。

 いや、だって、他の国の説明までしてたら、時間がいくらあっても足りないぞ。

 雛祭さんの記憶はすぐに戻るだろう。だった、異世界転生ごっこは、そんなに壮大にならなくていい。この小さな国のなかの、小さな町のなかで終わらせればいいんだ。


「どうぞ、わたしのノートです」

「ごめん……助かる」


 ありがたくノートを受け取る。雛祭さんの字は、記憶を失う前と同じ、きれいなままだった。硬筆のお手本に似た、上品な字。ノートに書き写された板書も、バランスよく、すっきりとして見やすい。こんなきれいなノート、初めて見たぞ。

 ノートに見とれていると、雛祭さんがおれの前の席に、座った。向かい合わせになった雛祭さんは、あいかわらず美少女だ。窓から差しこむ光のなかで、クラスの誰よりもきれいだった。つやのある黒髪を耳にかける動作も、どこかのモデルの動画のように映えていて、なんでこんな人がおれのそばに座っているんだろうと、いっそ不思議に思えてくる。


「そうだ、鯉幟くん。エーデルリリィでは、学校のことをなんというのか、教えてあげましょうか」

「……はい?」


 美少女の口から飛び出てくる、異世界用語には、あいかわらずまだ慣れない。


「あー。エーデルリリィ語は、ギアルしか知らないな……」

「そうでしょう? だからわたし、考えたんです。これから、鯉幟くんに日本語を教えてもらう代わりに、わたしはエーデルリリィ語を教えてあげようって」


 まじか。おれ、これからも雛祭さんに日本語を教えることになっていたのか。昨日で終わったんだと思ってたぞ。

 そして、雛祭さんはおれにエーデルリリィ語を教えてくれるって。いや、待て。これって、いいのか? おれ的には、雛祭さんとの時間ができるのは、ちょっと……いや、かなり嬉しい。

 だけど、おれといっしょにいるときに、突然、雛祭さんの記憶が戻ったら……。不可抗力で女性専用車両に迷いこんでしまった雄子羊のような、完全アウェー試合じゃないか。

 考えるだけで、ゾッとしてしまう。危険だ、かなりデンジャーだぞ。


「いや、でもそれって……」

「何か問題でもありましたか?」

「うーん、問題というか……」

「ねえねえ、ふたりで何を話してんのー」


 おれが答えを出しきれず、うじうじもじもじしていると、天野川みくりがどこからともなく、ひょこっと顔を出してきた。

 まん丸の瞳を好奇心いっぱいに開いて、おれと雛祭さんを交互に見てくる。


「あれー。大知ってば、数学のノートぜんぜんとってないじゃん」

「おい。見んなよ、みくり」

「ふはは、先生にいいつけてやろっか?」

「悪ガキムーブやめろ。めんどくせえな」

「へへ、わかってるよ。じょーだんだよ」


 まったくこいつは、小学生のころから一ミリも成長してないな。休み時間が終わる前に、雛祭さんのノートを書き写してしまわねば。カリカリとシャーペンを動かしていると、「あの」と雛祭さんが急かすように声をあげた。


「鯉幟くん。さっきの話ですが。了承ととって、いいんですよね」

「あ」


 この一瞬で、忘れていた。雛祭さんの異世界言語レッスン。

 いや、まじでどうすればいいんだ。雛祭さんに日本語を教えるのは、かまわない。でも、突然記憶が戻ったとき、雛祭さんにがっがりされるようなことがあれば、おれは泣いてしまうかもしれない。そのまま、富士の樹海に突っこむかも―――。


「雛祭さん。何の話?」


 みくりがパッと顔をあげて、面白そうに身を乗り出した。


「鯉幟くんから日本語を教えてもらう代わりに、わたしも彼にエーデルリリィの言葉を教えるという話です」

「え! 何それ、ちょー面白そう。あたしも仲間に入れてよ」

「もちろん、天野川さんもいっしょにどうぞ」

「いえーい! エーデルリリィの国語の授業だってさ。がんばろーね、大知!」


 待て。なんだ、この展開。みくりのやつ、なぜこうも一枚噛んでくるんだ。

 無心でシャーペンを動かすおれは、まるで修行僧のような顔をしていたことだろう。


「ねえねえ、スマホ見て」


 いわれて、おれと雛祭さんは、スマホを開いた。みくりが勝手に作ったグループライン『異世界言語教室』に、おれと雛祭さんが入れられていた。

 ラインの使い方をみくりに教わる雛祭さんは、目をきらきらと輝かせて、大興奮だ。


「これは、エーデルリリィの精霊・ロロロンのようなものですね。ロロロンは、契約者から伝えたいことがある者たちに、瞬時に、思考を飛ばしてくれる精霊です。伝書鳩も矢文も必要ない、とてもすばらしい精霊なのですよ」


 エーデルリリィでも、伝書鳩や矢文の文化があったのか。

 雛祭さんは、嬉しそうに覚えたてのラインでグループトークにチャットやスタンプを送りまくると、みくりが、「スタンプ爆撃ウケる」と爆笑していた。


「それじゃあ、帰ったら、うちに集合でいいかな。何かあったら、ラインで知らせてね」

「あっ……」


 雛祭さんが、スマホにぽちぽちと何かを入力している。数秒後、スタンプ爆撃後の『異世界言語教室』のトーク画面に、『わかりました』というチャットがついた。

 雛祭さんのアイコンの桃の花が、ぽこんと咲く。

 おれとみくりは、顔を見あわせると、スマホ画面をなぞる。また数秒後、『異世界言語教室』にチャットがつく。


『だいち : りょ』

『MIKURI : おっけー♡』

『雛祭ちかな : りょ、とは何ですか?』

『だいち : 了解って意味だよ』

『MIKURI : ダイチーちゃんと日本語つかいなー?』

『だいち : お前にいわれたくない』

『MIKURI : あたしダイチより国語の成績いいもーん』

『だいち : 通知表、4と3じゃそんなに変わんねえよ』


 目の前にいる相手とラインでもめてるがおかしくて、おれはスマホをブレザーにしまった。そろそろ休み時間が、終わる。

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