04.

「龍神庵銀子。弁天楼紫乃。今より霊薬の秘訣を伝授する」


 散らかした座布団を戻して座を再び整えた後、梅鶴おじさまは咳払いをしてからそう宣言した。


「霊薬を調薬するとき、おまえたちは何を考えている?」


「何って」

 紫乃と顔を見合わせる。


「わたくしは、雑念が入り込まぬようにと集中しています」

「あたしも。白金兄さまや金子姉さまは、調薬するとき何も考えていないように見えたから」


 おじさまは首を振った。


「それがいかんのだ。抑圧からは何も生まれない。思いを大事にしなさい。雑念と欲望を解き放つのだ」


「え」

 と思わず声が漏れた。


「聞いたことはないか。神は霊薬をつくれない。機械にもつくれない。人間のみが霊薬をつくることができる。神は思いを受け取るものだ。機械は思いの外にあるものだ。思いを生むのは人間だけなのだ」


 思い……。


「かつて霊薬師は神に祈る祈祷師であり巫だった。いわゆる依巫だ。依巫とはいっても、その身を通して神の託宣を告げるものではない。神を降ろすのは霊薬師の仕事ではない。自らの心を媒介とし、人々の思いを天上に捧げるのが霊薬師の為す業だ。より多くの人を思い、より多くの人に思われていることを知り、より多くを思う。霊薬の秘訣とは心の持ちようのことなのだ」


 不意に、視界から薬房の光景が消え失せた。

 燭台の灯かりも、照らしだされるおじさまも、おばさまも、その声も、肌に触れる空気も、何もかもが消えた。


 代わりに眼前に浮かんだのは、とある茫漠とした心象だった。


 あたしが中心に立っている。

 地と、海と、空の描く虹色の円。

 その中心に立っている。

 そしてあたしは巡らせる。

 地より湧く人々の想いを、海に溢れようとする命を、その何もかもを心に受け、空へと舞い上がらせる。


 そういうことだったの。

 此の世はそんなふうになっていたの。


 現身は、

 泡沫のように、

 巡る、

 回る、

 往く、

 魂が、

 一つ、

 二つ、

 幾つ、

 虹が、

 かつて生まれた人の数だけ、

 予て死した人の数だけ、

 霊が、

 湧いて、

 溢れて、

 散って、


「……子、銀子!」


「っ!」


 いきなり重力が戻ってきた。

 あたしがあたしに還った。


 今のは千里おばさまの声で、呼んでいたのはあたしの名だ。

 ここは薬房で、おじさまとおばさまがいて、ろうそくの灯かりは揺れていて、膝の下には座布団があって、種々の生薬の匂いが綯い交ぜになっていて、身を包む浴衣がそこにあって、背中も頭も手のひらも汗で濡れていて、あたしはあたしだ。


「大丈夫かい?」


「……うん。平気」


 短い夢を見ていた。

 いや、永かった?

 見ていたのは一瞬だった。

 その一瞬で見たのは悠久だった。


 言葉にしようとすると頭が痛くなる。

 でも、見ていたものは覚えている。

 聞いた音も、触れた感触も、嗅いだ香りも、重みも暖かさも、確かに覚えている。


 隣を見ると、紫乃は真っ直ぐ前を見ていた。

 目は見開き、口はしっかり閉じている。


「銀子。何を見た?」

 梅鶴おじさまがあたしに訊いた。


「何って。こう、世界がね、龍神庵と弁天楼の歌みたいに、地より湧いて? 回ってて、いっぱい人がいて。何かすごかった!」


 うまく言葉にできないのがもどかしい。


「そこに自分はいたか?」


「えっと。うん、一応は。回ったり巡ったりするものと、ごちゃ混せになってたけど」


「紫乃は?」


「……わたくしは、そういった特別なものは何も」


「では、何を考えていた?」


「これまで出会った人のことを考えていました。より多くの人を思う、とお父さまが言ってらしたので」


「どんな人々を思い描いた?」


「お店に来ていただいたお客さま、江ノ島に来た観光客の方々、島で観光客を迎える人や生活を営む方々、漁港や江ノ電で働く方々。学校のお友だちや先生方は、鎌倉の町に住んでいたり、もっと遠くから学校まで来ていたり。後は、昨日の高尾山や遠足でお会いした方々などですわ」


「そこにおまえはいたか?」


「わたくしは皆々さまと向かい合っておりました」


 梅鶴おじさまは「うむ」と頷いた。


「おじさま。あたしと紫乃、どっちが正解なの?」


「二人とも正しく、二人とも足りていない。わしも、千里も、白金たちも皆そうだ。誰もが正しく、誰もが足りていない」


「どういうことですの?」


「思えるのは己が知ることのみということだ」


 おじさまは座布団から立ち上がり、縁側の戸を開けた。


「秘訣は伝えた。あとは自分たちでやりなさい。一人より二人の方がよいだろう」


 榑縁に腰を下ろし草履を履くおじさまの背中は、大きく逞しかったが何だか疲れているように見えた。

 庭の木戸から出ていく二人に、あたしと紫乃は「ありがとうございました」と頭を下げた。


 おじさまは何も言わず大股で歩いていった。

 おばさまは静かな笑みを浮かべて会釈を返し、それから小股でおじさまの後を追った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る