第九章 秘訣

01.

 榑縁の戸を開け放つと、暗がりの向こうから虫と蛙の声が薬房へと上がり込んできた。

 宵闇はいつの間にやら墨よりも濃さを増し、庭の草木の見分けはもうつかない。

 漆黒の飛び石は、夜が一歩ずつ近寄ってくるかのように暗がりからこちらへ伸びていた。


 こんな時刻になっても、未だに成功の兆しすら見て取れない。

 十三回目の蹉跌を見届けた紫乃が、囲炉裏のそばに寝っ転がって薬房の天井板を仰いでいる。

 壁際ではろうそくの炎が揺れている。


 『流星丸』の調薬方、それ自体は単純なものだった。


 まずは天狗のひげの皮を残さず剥き、内側の木質だけを得る。

 天狗のひげの木質はもちろん虹色である。

 また、木質は粘性の高い膠質状をしており、硬い皮がなくともその形は崩れない。


 取り出した天狗のひげの木質は、指先大の大きさになるよう小刀で切り、それを弱火でちろちろと焼煉する。

 円筒状の木質は、焙烙鍋で転がしながら炒っていると次第に丸みを帯びてくる。

 真ん丸になったら『流星丸』のできあがりだ。


 焦がさぬように焼煉するのはなかなかに難しい。

 焙烙鍋は土でできているため、重く熱い。

 慈風坊さまのご指導を受けながらであってもなお、最初の二回は鍋に焦げつかせてしまった。

 慈風坊さまは「霊薬がどうこう以前の問題だね」と愉快そうにお笑いになった。


 三回目からは技術的な失敗はなくなった。

 未熟ではあれど、掛け算より先に薬鍋の取り扱いを覚えたあたしである。

 二度の失敗でも多過ぎたくらいだ。


 しかし、もちろん問題はそこからである。

 霊薬を霊薬たらしめる秘訣が何なのか、あたしはまだ知らない。


 『朔龍湯』と同じく、成否は目で見てすぐにそれと分かるそうだ。

 もしも炒られているものが虹色の輝きを自ずから放つようになったら、それは霊薬になりつつある証である。

 輝きを放たなかったらそれは失敗作だ。

 灰色にくすんだ天狗のひげは、道端で拾う木片と同じだけの価値しかない。


 一回の試行には約一.五センチメートルの天狗のひげと、一時間強の作業を要する。

 念のためにとありったけの天狗のひげを採取してきておいてよかった。

 一本で十センチメートルほどの天狗のひげを、あたしは五本持ち帰った。

 残っているのは三本だ。

 試行できる回数にはまだ余裕がある。


 今現在、寧ろ問題となっているのは時間と体力である。


 まず時間が足りていない。

 期限から逆算すると残された試行回数はもう五、六回といったところだ。

 大黒さまが江ノ島をお発ちになるのは明日の昼。

 大黒審判の再試はその寸前に行われるものとして、それまでには『万象丹』を調薬しなければならない。


 『万象丹』の調薬には、煎じるだけでも正味四分の三刻の時間がかかる。

 今は五月で昼が長いため、四分の三刻は約二時間に相当する。

 前後の準備を含めると、『万象丹』の調薬には一回に一刻、約二時間半はかかると見積もる必要がある。


 『万象丹』の調薬については、今いる誰もが初めてのこと、失敗の可能性を踏まえ、最低でも二回試行するだけの時間を確保したい。

 明日の昼前、仮に十一時半に大黒審判の再試が行われるとすると、早朝六時半から五時間で二回だ。


 もちろん『万象丹』調薬の大前提となる『流星丸』については、それまでに必要な量を調薬しておく必要がある。

 『流星丸』の調薬一回に必要な時間は一時間強。

 これまでは調薬失敗を前提に、丸薬一粒分の量でしか『流星丸』調薬の試行は行っていないが、成功の目処さえ立てば一回の調薬で天狗のひげあるだけ全てを焼煉するつもりである。


 つまり『流星丸』の調薬成功の目処は、早朝四時過ぎには立てなければならない。


 ここでもう一つの問題が出てくる。

 あたしと紫乃の体力が明日まで保たない。


 振り返ればここ数日は無理のしどおしだった。

 三日前には朝から龍の腰かけで溺れかけ、夕方には紫乃が弁天沼に沈みかけ、一昨日には大黒審判、昨日は高尾山に登り、今日は早朝からぶっ続けで『流星丸』の調薬だ。


 現在の時刻は午後九時。

 明日の朝四時まで体力が続くか非常に心許ない。

 今も紫乃は口をぽかんと力なく開いたまま仰向けになり微動だにしない。

 目は開いてはいるが、天井の染みを数える気力すら残っているか怪しい。


 もちろん事ここに至るまでに、体力の温存と回復に努めはした。

 紫乃と代わりばんこに調薬を交代して順に睡眠をとった。

 梅鶴おじさまからは『霊薬づくりは一人よりも二人の方がよい』と言われてはいたが、へたばってしまっては元も子もない。


 ずっと調薬を見学していた飯綱さまと慈風坊さまが、退屈しのぎにと料理を振る舞ってもくださった。


「山籠りに持ち込む精進料理です。なまぐさは抜いてありますが、精がつきますよ」


「歩きながらでも食べられるものだよ。作業中にももってこいだ」


 神さま御自らの御手に成る握り飯を有り難く頂戴すると、これが確かに効果覿面、精神が加速する感覚を味わった。

 しかし、疲労もその分加速した。


「具は何ですか」と訊いても飯綱さまは「ひ・み・つ」と可愛く指をお振りになるだけだった。

 そして調薬はやっぱり失敗した。

 後には疲労だけが残った。


 ともかく、問題は時間と体力だ。

 どちらも気力で無理を押し通す以外の手がない。


 涼やかな外の空気と軽やかな虫の音のおかげで、僅かながらも意気が戻ってきた。

 頑張るのは今だ。

 気合一発声を出そうとしたところで、不意にぎいと音がした。


 聞き慣れた音である。

 雨ざらしで金具の錆びついた庭の木戸が開くときに立てる音だ。

 こんな夜中に誰が来たのかと目を見張る。


 暗がりから現れたのは、夜よりも闇の深い黒羽の紋付小袖だった。

 そのすぐ脇からは、これもまた漆黒の五つ紋留袖がぼんやりと浮かんできた。


 梅鶴おじさまと千里おばさまだ。

 二人は大黒審判のときと同じ正装に身を包み、灯かりも持たずにやってきた。


 尋常ではないその姿を目の当たりにし、不謹慎な連想をしたとしても咎められる謂われはないだろう。


 喪服。


 おじさまとおばさまの佇まいは、終わりを弔う者のそれにしか見えなかったのだ。

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