05.

 高尾山の地を離れ、あたしたちは空路を江ノ島へと向かった。

 まだ明けきらぬ藍色の空を往く。

 冷たい風を切り、眼下には薄く群青に霞む不揃いの森、人の手に成ることが明らかな整った道に線路、そして立ち並ぶ民家の色とりどりの屋根。


「どうだい? 何故だか寂しさを忘れる光景だとは思わないかな」


 慈風坊さまは空を舞いながらも相変わらずお喋りをお続けになっていて、次第次第にあたしは質問をご遠慮申しあげることを忘れていった。


「慈風坊さまは何故そんなに山にお詳しいんですか?」


「お師匠の下、ずっと山にこもっていたからだね。日の本中の山を巡り歩いたさ。長いときには五年、ずっと山から下りなかった」


「そんなに! 修行って大変ですね」


「大変に決まっているさ。何しろ人が神になるというのだからね。さっきは珍しくないと言ったけれどね、それは大変ではないと意味ではないんだな」


「どうしたら人が神になれるんですか?」


「おや、もしかして君は神になるということに興味を持っているのかな?」


「いえ。ただの好奇心です」


「なるほど。やはり君は霊薬師だ。神職は神に仕えることを至上とし、己の分を計り、身を弁えるものだ。だけど霊薬師は違う。君たちは神に祈る巫女でありながら同時に科学者だ。薬のこと、神のこと、そして世の仕組みを知ろうとするね。何れにしてもだ、僕はその問いに答えるつもりはないよ。僕は君の成長に責任を負うことができないからね。神になる隘路を抜ける細道をいかにくぐり抜けるか。何れ相応しい誰かが君に教えるさ。恐らく近いうちにね」


 こうしてはぐらかされることもしばしばであったが、それが却って疑問を伺いやすくしてくれていた。


「『万象丹』にはどういった薬効があるんですか?」


「おや、それも知らなかったのか。では銀子くん、逆に訊いてしまうが、君たちのところの『朔龍湯』や『弁天涙』の薬効については知っているのかな?」


「いえ、お恥ずかしながら。買っていかれるお客さまは人間の氏子ばかりですし、龍神さまはお言葉をお発しになりませんし、弁天さまにはご質問しても『弁天涙はちょいと元気になるだけのものじゃ』としか答えてくださいませんしで」


「そういうことか。銀子くん。弁天さまはしっかり君に質問にお答えしているよ。霊薬はだね、神さまをちょいとばかし元気にするものなのさ。『朔龍湯』だろうが『弁天涙』だろうが基本は変わらない。もちろん相性はあるがね。大地や農業を司る神であるなら地の虹『弁天涙』が抜群の薬効を発揮するし、水や海、漁業の神ならば当然海の虹『朔龍湯』だ。『万象丹』は遍く全ての神にとって相性がよい、といえば分かるかな?」


「読んで字のごとく、ですね」


「また君は愉快な言い回しをするね! もう少し言うとだ、霊薬というのは人が神に捧げる祈りの形態の一つなんだよ。お賽銭や柏手と同じようなものだ。こう言うと君ら霊薬師は不満そうな顔をするがね。神は人からの祈りを必要としている。それが力の源だからね。神は此の世にある限り常に力を消耗していく。人の加護を為せば当然更に力を使う。霊薬は疲れた神さまをちょいと元気にするものなんだよ。年に一度、神在月に神が出雲に集まるのは知っているだろう? 神はね、出雲から天に上る。そこでひと月英気を養い、また人に加護をもたらすべく地上に下りていくのさ」


「さっき確か、半僧坊さまは出雲にも行かないって」


「よく覚えていたね。そう、彼はもう幾歳も出雲に帰っていない。篤い信仰は受けているようだが、それでも力は弱まっていく一方だろう。半僧坊は覚悟のうえだ。何れは此の世にあることができなくなるだろう」


「そうしたら、どうなるんですか」


「消える。けど、その前に普通は出雲から天に帰るんだ。そう深刻になることじゃないよ。ほら、岩本坊さまをご存知なんだろう? 僕のお師匠で、江ノ島の中津宮岩屋宮にかつては居を構えられていた天狗だ。お師匠もね、力が弱まったから天に還った。これを『神上がり』というんだ。人間だったら隠居というね。まあ、神には寿命などないからね。天上で力を蓄えたら再び地上に下りていく神もいる。それぞれの考え次第だね。そうした意味でいうと、半僧坊も彼の考えでこの先を選ぶだろう。僕はね、たまに思うんだ。半僧坊は天に帰らず、このまま此の世で最期を迎える気なんじゃないかってね。分からなくもないんだ。天に帰る、と言ってはみても、半僧坊も僕も元来は人間だ。此の世こそが生まれ落ちた場所であり、天は帰るところじゃないんだ」


「あの、もう一つ訊いてもいいですか?」


「訊くのは君の自由さ。答えるかどうかは僕が決める。実をいうとだ、僕はね、ちょいと君にいろいろ教えすぎてしまったのではないかとそう思っているところでね、君がする質問に答えるという保証はまったく持てないんだがね。さて、何だろう? 若き霊薬師くん」


「慈風坊さまは何で神さまになろうと思ったのですか?」


「……これは驚いた。いや、もちろん話の流れを追えば自然なのかもしれないけどね。神のことでもない。この世の仕組みでもない。まさか僕の思いを問うてこようとはね。僕は迷うよ。神として、人の踏み込んだ質問を咎めるべきだろうか。それとも僕自身に目を向けてくれたことを喜ぶべきなんだろうか。この歳になってもまだ迷うことは多いものだ」


 慈風坊さまは数秒黙りこくった。


「銀子くん。天狗というものはひねくれ者であると、そうは思わないかい?」


「え、そんな」

 流石にこればかりは正直には申しあげられない。


「僕は心の底から思うよ。天狗はひねくれにひねくれている。そしてだ、理屈からいってもそれは正しいんだ。天狗は邪道に落ちた神だ。正道から外れたひねくれ者であることが天狗であることの第一の条件なんだよ。僕のことは言うまでもないから措いておくとして、飯綱さまについてだがね、彼女もあれで相当なひねくれ者だ。それこそ僕なんぞではまるで勝負にならないくらい、ひねくれにひねくれている。子を抱く母のような声音で物騒なことを口にし、人の子が怯むのを心から楽しんでいる。飯綱さまは君たちを喰らおうとはこれっぽちも思っていないし、君たちが互いに傷つけ合うことも望んでいやしない。ただ、君たちが怯えるのを見て楽しんでいる。実にいい性格をしているだろう。彼女は太古の昔に神から生まれ、人と神との間をとりもつ巫女の役割を担っていた。ただ、悪戯が過ぎたことを咎められ、その役目を追われ邪道の天狗となった。真の名を『天逆毎』という。君たちには訛った呼び名のほうが通りがいいかな? そう、『天邪鬼』だよ」


 慈風坊さまはにやりとお笑いになった。


「僕はそんな彼女に惚れたのさ」


 一瞬何のことやら分からなかったが、すぐに気づいた。これは「何故神になったのか」というあたしの質問に対する答えだと。


「さあ、海た。もうすぐだよ」


 おたまで繰り抜いたように丸い海が広がっている。

 相模湾だ。


 左手には海へつきだした土の塊。

 更にその向こうにはもっと大きな陸地が見える。

 三浦半島と房総半島だろう。


 太陽が登る。

 陸地のでこぼこな影が海に落ちる。


 長く伸びていた影が縮んでいくと、きらきら日を反射する波の中にぽつりと小さな土の塊が落ちているのが見える。


 コンパスで描いた円弧の書き損じのような小さな点。

 陸地に寄り添うような小さな島。


 帰ってきた。

 江ノ島だ。

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