03.

「さて、君たちは『流星丸』を求めてきている、そうだったね?」

 場を改めるように慈風坊さまが仰った。


「ついつい話が他に逸れてしまっていけない。結論から言うとだね、君たちが今求めている天狗のひげはここにはない。僕は昔っからひげの生えない質でね。いや、冗談だよ、失礼。天狗のひげについては知っているんだったね。そうだよ、空の近くに生える薬草のことだ。もちろんこの高尾山には自生しているよ。僕がいるし、飯綱さまもいるからね。ただ、歩いていけるところには生えていない。知っての通り、空の近くに生えるものだからね。ところで、言ってなかった気がするけどね、僕や飯綱さまは空をとぶことができるんだ。神は天にあるものだからね。ともかくだ、天狗のひげを採ってくることも、君たちを抱えて飛ぶことも訳はない。時にだ、もう一つ、君たちは求めているものがあるね。そう、調薬方だ。薬種となる天狗のひげがあったところで、その調薬方が分からなかったら流星湯はつくれないからね、当然だけど。僕はその調薬方を知っている。お師匠から伝え受けているよ。つまりだ、僕らは君たちの求めるものを提供する準備がある、ということをはっきり言っておくよ。しかしだね、君たちの方では僕らに何を差し出せるのかな?」


 思わず息を呑む。

 傍らの紫乃と顔を見合わせるが、紫乃の顔には「どうしましょう」としか書いていない。


 あたしだって同じだ。

 何の考えもない。


「……何をお求めでしょうか」


「君、それはよくない。銀子くん、それは考えうるうちで最もよくない訊き方だよ」

 慈風坊さまは指をお振りになった。


「『何をお求めでしょうか』。それはお客さんに対しての訊き方だね。取引先にそんなことを言っちゃいけない。それは相手へのパスだよ。今は君の手番なのに、それを相手に譲るような真似をするなんて、君はまだ交渉の経験に乏しいのだろうね。いやいや、悪いことじゃない。誰だって生まれたては未熟なものだ。君はこれからだよ。覚えておくといい。自分の手番のときにはね、ともかく手札を切るべきなんだよ。特に初手は肝心だ。最初に出した条件がその後の交渉の基準になるからね。君が描くのは、最初に高すぎる要求を出してから適正なところまで譲歩して恩を売るというストーリーかな? それとも低すぎる要求を相手に受け容れさせてから次第次第に値を釣り上げていくというストーリーだろうか? いずれにしろだね、初手がその後を左右するということは、常に念頭に置いておかないといけないぜ。初手に何を指すかじっくり考える時間がないときもあるだろう。例えば今がそうであるようにね。であったとしてもね、取り敢えず札を切っておくべきなんだ。高すぎても低すぎてもいいからね。最悪なのは相手に手番を譲ることだ。そうしたら相手に絵を描くことを許してしまうからね。どんな悪手であっても札を切っておけばね、相手はその札から君の描くストーリーを想像し始めるものだ。そうしたらね、相手は自分の絵を描き始めることを忘れるんだ。分かったかな? さて、考える時間は十分にあっただろうね? まさか今の僕の話に聞き入っていた訳じゃあないだろうね? では改めて訊いてみようかな。君たちの方では僕らに何を差し出せるのかな?」


 もちろん、話は半分に伺い、あたしはずっと脳みそをぶん回していた。

 少しの間を措き、あたしは申しあげた。


「……『万象丹』を献上いたします」


「おっと、『万象丹』ときたか! これは強烈なフィニッシュ・ブローだ! しかしだね、まさか大黒さまに一度お出ししたものをこちらへ回すというつもりではないだろうね?」


 あたしは唇を舐めた。


「そのつもりです」


「え!」


「驚いたね。しかし僕よりも紫乃くんの方がよほど驚いている。君はどうやら僕らをなめているようだ。僕らより大黒さまの方が格上だとでも思っているのかな? 霊薬局にとっては大黒さまの方が大事だということかな? いずれにしろ失礼極まりない申し出もあったものだ」


「いえ、慈風坊さま、決してそんなつもりは、」


 慌てた紫乃が割り込もうとするが、あたしはそれを無視して「それではこのお話はなかったことに」と交渉打ち切りの格好を見せた。


「ちょっと、銀子!」


「紫乃。行くわよ。急がないと大黒審判まで時間がない。これから建長寺に寄って帰らないといけないんだから」


 目配せを送ると、紫乃は目を見開いてから薄く口許だけで笑った。


「……そうですわね。半僧坊さまならきっと『万象丹』の価値を分かっていただけますわ。それに残りものであったとしても『福がある』と受け入れてくださるだけの度量の持ち主でしょう」


 慈風坊さまは「ほう」と声をあげた。


 あたしたちは立ち上がり、慈風坊さまと飯綱さまに一礼してから背を向けた。

 すると、飯綱さまが「うふふ」と笑いだし、やがて慈風坊さまも「あはは!」と声をあげてお笑いになった。


 あたしたちが振り返ると、飯綱さまは右手の親指を立てて見せた。


「愉快でしたよ。ねえ、あなた」


「そうですね。分かっています。ええ、もちろん分かっていますとも。少しからかいが過ぎました。君たち、ごっこ遊びはなかなかに面白かったよ。半僧坊を引き合いに出してきたのは傑作だった。半僧坊のことは今知ったばかりだろう? それをいきなり手札として切る度胸と頭の回転、僕はそういうのが嫌いじゃないんだ。でもね、彼のことをもう少し知っていたらね、きっと彼を当て馬になんてしなかっただろうな。半僧坊は人の申し出を聞いたりなんかしない。その建物から絶対に出てきたりしないからね」


 そして慈風坊さまは御自らの膝を手のひらでお叩きになった。


「さて、天狗のひげと調薬方を教える対価だけどね、『流星丸』を譲ってくれればそれで十分だよ。いや、せっかくだし『朔龍湯』と『弁天涙』も譲ってもらおうかな。こちらには対価を払うさ、もちろんね。これから先、霊薬を贖わしてもらえればそれで十分だ。薬王院の氏子を遣いに出すか、僕たちが直接島に出向くかしたとき、入り用なものを用立ててくれ。『万象丹』はつくるところを見せてくれればそれで満足さ」


「それだけでよろしいのですか?」

 つい交渉ごっこのことを忘れて伺ってしまった。


 慈風坊さまのお申し出は、何一つあたしたちへの要求を含んでいないからだ。

 店を訪ねられたら歓迎するし、お代金をいだけるならお薬を売らない理由はない。


 慈風坊さまは、両手をお広げになり、肩をお竦められた。


「だって、君、『万象丹』だぜ? どれだけの価値があるか分かっていないだろ。二百の歳を重ねた僕がだよ、お師匠から聞いていた昔話が今に蘇るって聞いて興奮してるんだ。実を言うとだね、僕は『万象丹』を見たことがある。だけどそれはつくられてから一世紀以上を経た年代物だった。僕が見たのは過去の遺物だったんだ。それが今この世に蘇ろうとしている。齢二百を数える神ですらねぐらを飛びだし現場に馳せ参じるというものさ。君たちはそれだけのことを成し遂げようとしてるんだぜ? 歴史に名を刻もうとしているんだ。もう少しでもさ、自覚があってもいいもんだと、僕はそう思うね。おっと、そろそろ夜明けが近くなってきた」


 そう仰った慈風坊さまは、あたしと紫乃の間をすり抜け戸板をお開けになった。

 社殿の外は、夜の明けるまさにその寸前であり、見える限りが真っ青だった。

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