03.

「銀子、起きなさい。ほら」


 いつの間にか眠ってしまっていた。

 島から出るときの緊張も、初めて電車に乗った緊張もほぐれたその上に電車の律動、昨夜よりの睡眠不足ときては仕方がない。


 小田急から国鉄に乗り換え、その先でもう一度別の国鉄に、更にその先で京王に乗り換えた。

 周囲の様相が次第次第に山がちになっていく。

 大地の起伏が激しく大きくなり、ときには萌黄色の新緑が車窓を埋め尽くした。

 手を伸ばせば若葉を掴み取れそうだった。


 高尾山口の駅は山の中にあった。

 名前の通り、この駅がそのまま高尾山の登山口になっているそうだ。


 木造の大きな屋根の下にはざわめきと蛍光色とが溢れかえっている。

 絶え間なくしゃべり続ける人々は、皆つやつやと鮮やかな色調の上着をはおり、無造作にリュックサックを投げ出している。

 軽そうなスニーカーも見かけるが、多いのは足首をがっしり覆うような靴である。

 テレビに映る登山の格好そのままだ。


 登山の格好といえば、今の紫乃の格好がまさにそうだ。

 紅梅色の上着に、薄い鈍色をした厚手のショートパンツ、真っ黒なレギンス、頑丈そうな唐茶色の登山靴、青鈍色の布地に茶色の豚鼻の付いた背嚢。

 その上更に、これで決まりとばかりに紫乃は背嚢から褐色の登山帽を取り出した。


「ねえ、紫乃。その格好いつ揃えたの?」


「これですか? ついこないだ学校で遠足がありましたの。北鎌倉の天園ハイキングコースって知ってます? 鎌倉アルプスを縦走するとなると、このくらいの装備は必要になりますのよ」


 紫乃は胸を張ったが、鎌倉にアルプスがあるだなんて聞いたこともない。

 小学校の遠足でそんな本格的な登山をするはずもない。

 相変わらず格好から入る女である。


「……こないだ体操服で沼にはまってたくせに」


「何か言いまして?」


「いいえ。で、登山経験者のお紫乃先生。どっちに行けばいいのかしら?」


「まったく。登山道は向こうのようですわ。出発の前に道の確認をしておきましょう」


 紫乃は大きな案内板の前に立ち、コンパスを片手にこれから登る経路について説明した。

 目指すは薬王院。

 高尾山の天狗さまがおわす御座だ。

 高尾山には一号路から六号路までの登山道がある。

 そのうち、ここ高尾山口から薬王院を経て山頂へと向かうのが一号路である。

 数ある登山道の中でも一番人気の高い道である。

 途中までリフトやケーブルカーで登ることもできるそうだ。


「有料でしょ? もったいない。歩くわよ」


「……まあ、全部歩いたところで二時間もかかりませんし。そうですわね、せっかくですから歩いて登りましょう」


 紫乃はあっさり同意した。

 どうやら高尾山に登るのが楽しみだというのは口から出任せではなかったらしい。


「あ、銀子! 歩き出す前に準備運動しなさいな。それからお手洗いに行っておくこと。行動食に余裕はあります? 水は何リットル持ってますの? 靴紐をしっかり締めなさい。背嚢も紐も緩くなってますわ。荷物が固定されていないと重心がぶれて疲れが溜まりますのよ」


 余りの口うるささに舌打ちをしたら引っ叩かれた。


「よし、これで準備万端ですわね」


「それじゃ行きますか!」


 ようやっと出発の許可が下りたのは、高尾山口の駅に着いてから三十分も経とうかという頃になってだった。

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