第五章 谷川屋

01.

 弁天楼はいつもと変わらず千客万来営業中だった。

 寧ろ、普段よりもお客さまの入りは多いかもしれない。

 近く大黒審判が催されると知れ渡ってのことだろう。


 本来大黒審判は前触れなしに執り行われるものだが、今回だけは二日後に行われると大黒さまご本人によって宣言されている。

 世にも珍しい予告有り、そして追試の大黒審判である。

 世紀の瞬間に立ち会おうと前もって江ノ島に乗りこんできた観光客もいるはずだ。


 こんな降って湧いたような書き入れ時に店を開けられない口惜しさときたら。

 賑わう弁天楼の表を見つめほぞを噛むあたしを引っぱり、紫乃は勝手口から店の中へと入った。


 人の気配を探りながら廊下を進み、音を立てぬよう階段を登る。

 見つかったら饗応のお手伝いをさせられるに決まっている。


 幸い、人に気づかれることなく紫乃の部屋には辿りつけた。

 部屋の中は相変わらず明るい色彩と丸みのある形で溢れている。

 カーテンは晴れ模様の空色、掛け布団は淡い撫子色、学習机にはぬいぐるみや和洋の小物が散らばり、本棚には赤青緑と原色の背表紙が並んでいる。


 紫乃の部屋に入るのはざっと一年ぶりであった。

 普段はわざわざ部屋に来る用事もないし、紫乃だってあたしを招いたりしない。


 いちいち部屋に来なくとも、紫乃の趣味嗜好やその変遷は凡そ把握している。

 龍神庵を訪れる数乃進が金子姉さまへと逐一近況を報告するからだ。

 帳場机で仕事をしているあたしの耳にも当然その話は入ってくる。


 いつだったか数乃進が言っていた。

 『近ごろ紫乃は昔の少女小説ばかりを読んでいる。その口調を真似るようになった。あれはすぐに影響を受けるのだ』と。

 本棚の一角には御大層な厚表紙本が並んでいる。

 これらが『昔の少女小説』だろうか。


 紫乃は、秘方の和歌を写した筆記帳を学習机の上に広げ、付属の本棚から古語辞典を取り上げた。


「どう?」


「……やはり『かたち』の意味は一つに絞れませんわ。前後の文脈がないので難しいですわね。『はふる』はどうやら『溢れる』のようです」


 紫乃は辞書を片手で抑えながら、和歌の(?)を漢字に直した。


   万のかたち(?)之に有り


   地より湧き 海にぞ溢り 空へ散る

       並べて此の世は のし(?)の通い路

 

「なるほどね。大地から湧いて、海に溢れて、空へ散る。意味が通りそうじゃない!」


「問題は『のし』ですわ」


「辞書に載ってないの? 『し』じゃなくて『じ』ってことはない?」


「そう思って、今引いているところですわ」

 辞書の頁をぴらりとめくった紫乃が「あ」と声を上げた。


「あったの?」


「……はい」

 紫乃は辞書を見つめたまま、微かな声で答えた。


「何て意味だったの?」


 あたしの質問には答えず、紫乃は黙って開いたままの辞書をこちらへ寄越した。

 その頁には、確かに「のじ」という見出しの項目があった。


   のじ【虹】(名)((上代東国方言))にじ。


 刹那、脳髄の神経が回路を結び、電気信号を走らせた。

 慣れ親しんだ言葉たちが新たに有機的な繋がりを成した。


 地の虹、弁天涙。

 海の虹、朔龍湯。


   地より湧き 海にぞ溢り 空へ散る

       並べて此の世は 虹の通い路


「紫乃! これ!」


「ええ。……弁天沼に生える吉祥天蓮華、その夕露は大地より湧く生命力、魂の雫そのもの。そして、蓮華の夕露からつくられるのが、弁天楼の霊薬、地の虹『弁天涙』」


「龍神さまのうろこに付着した龍涎香は、海を漂う死者の霊が凝縮したもの。龍涎香からできるのが、龍神庵の霊薬、海の虹『朔龍湯』」


「虹の通い路とは、人の魂の巡る道筋のことですわね」


 江ノ島に伝わる伝承だ。

 人の魂は世界を巡る。

 弁天さまのご祝福により大地から生まれた人は、島で生き、死して後は海に葬られる。

 龍神さまのご加護の下、魂は海に溶け個を失う。

 渾然となった魂を、龍神さまは空へ上らせる。

 空で雲を成した魂は雨となって大地に還る。

 そして弁天さまのご懐中で個を結んだ人の魂はまた世に生まれるのだ。


 弁天さまは江ノ島の入り口、辺津宮弁天宮に祀られている。

 弁天楼には地の虹の名を負う霊薬、弁天涙が伝わっている。


 龍神さまは島の一番奥、奥津宮龍宮に祀られている。

 龍神庵は海の虹と称される霊薬、朔龍湯を今に伝えている。


 間違いない。

 この和歌が示しているのは弁天涙と朔龍湯だ。


 残る問題は……。


「空の虹、とは何でしょう」


「分かんない」


 江ノ島神社の中津宮は空座である。空の虹は島に伝わっていない。

 行き詰まった。

 知らないことはいくら考えても分からない。


「ねえ、銀子」

 頭を抱えるあたしを、紫乃が小さな声で呼んだ。


「もし、もしですわよ。もし、銀子さえよろしければ……」

 歯切れの悪い言葉。消え入るような語尾。


「何? はっきり言いなさいよ」


 あたしが促すと、溜め込んだ息を吐いた紫乃は、こちらへ向き直って言った。


「お婆さまに訊いてみませんか」


「……奇遇ね。あたしも、それしかないと思ってたわ」

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