06.

 と、頁を手繰りながらもの思いに耽っていると、あたしのお腹からきゅるると切ない音がした。


「ぷ」


「うっさい。笑うな」


 紫乃は小さく笑いながら立ち上がり、お尻を叩いた。


「台所、借りますわよ。食材は使ってしまっても?」


「うん。放っといても傷むだけだし、使っちゃって。あ、でも無駄にしたら弁償ね」


「無駄になんてしませんわよ。あなたじゃあるまいし」

 そう言い残し、紫乃は書庫を出ていった。


 認めたくはないが、紫乃の料理の腕はあたしの数段上をいく。

 料理以外にも掃除にお洗濯、お裁縫と、紫乃は家事一通りをお婆さまと千里おばさまとから仕込まれている。


 母さまが他界してからは、金子姉さまもお二人の薫陶を受けている。

 起きながらにして夢の世界に片足を踏み入れることで名高い姉さまであるが、家事に取り組んでいるときだけは師をも感心させるほどの手際のよさを見せるのだから不思議なものだ。


 とある日「頭が覚醒する薬でも飲んでいるのかい」と笑った兄さまに、「あらあら」と笑い返した姉さまは、一日三食、丼いっぱいの『石角散』だけを配膳したことがあった。

 次の日、兄さまは一日胃痛に苛まれた。

 薬は用法用量を守って服用せねばならない。

 腹が減ったからといって丼いっぱい飲むようなことはしてはならない。

 こうした機転の効いた意趣返しなど、普段の姉さまには見られないことである。


 因みに、あたしは家事全般からっきしである。

 店の経営、運営、ご近所付き合い、そして薬の勉強に忙しく、とても家事にまで手が回らない。

 そもそも興味もない。


 三、四冊とめくり終える頃、遠くからお出汁のよい香りが漂ってきた。

 磯の香りである。

 かつおに昆布、煮干とそれらしい名前は思いつくが、どれかと言い切る自信はない。


 鼻からの刺激に、またぞろ胃がきゅるると切ない声を上げた。

 こうなるともう集中はもたない。

 まだお呼びの声はかかっていないが、一旦調査は措いて台所へと向かうことにする。


 紫乃は、あたしの割烹着を身に着け、ガスコンロの前に立っていた。


「あ、銀子。よいところへ来ましたわね。味醂はどこにありますの?」


 紫乃は、流しの下の収納と、換気扇の上の収納とを順に目線で示した。

 どちらも扉が開いている。

 そこはもう探した、と言いたいのだろう。


 我が家の台所は、母さまが嫁いできた頃に改装したという中他半端に古めかしいステンレス張りのダイニングキッチンであり、収納の数と容量においては、弁天楼の誇る最新のシステムキッチンにも引けをとらない。


「ちょっとどいて。味醂はここ」


 紫乃をどかせ、床下収納の蓋を開ける。

 これもまた改装の際に取り付けたというプラスティック製の収納は、六十センチ立方ほどの大きさで、中には所狭しと瓶や瓶、タッパーが詰めこまれている。


「充実してますわね。どれも自家製ですの?」


「当然でしょ」


「この瓶は何ですの?」


「え。お酒、かな?」


「この瓶は?」


「うーん。漬け物?」


「このタッパーは?」


「……漬け物?」


「あなた、何も分かってないではありませんの!」


「しょうがないじゃん。台所は金子姉さまの領分なの。あたしは知らないって」


 あたしの領分は薬房の地下収納と外の倉庫だ。

 店として蓄えている薬種や生薬であったら、どの瓶や瓶に入っているか迷わず分かるし、在庫量に醸成具合、傷み始める時期だって頭の中にすべて入っている。

 だが、台所のことはその限りではない。


「薬のことを学ぶのも大事かもしれませんが、家事も身に着けなさいな。金子さまだって大変でしょうに」


「お手伝いはしてるわよ」


 食卓の椅子を引き出し、腰かける。

 料理が仕上がるまではゆっくりしよう。


「それ以上はなかなかね。お店のことやお薬のことで頭はいっぱいだし、学校のお勉強もさぼると姉さま怒るし。調理は調薬にも通じるところがあるから勉強した方がいいって分かっちゃあいるんだけど」


「そうなんですの?」

 紫乃は湯気を立てる鍋に向かいながら背中越しにそう訊いてきた。


「『調』っていう字が被ってるでしょ。さっきも言ったけど、調えるっていうのは、『均して全体に行き渡らせる』っていうことなの。複数の素材や調味料を、加工したり混ぜ合わせたりしていい感じに仕上げるのが、調理。いい感じっていうのは、いろいろな観点で評価して満足のいくようにってことね。栄養、見た目、香り、ものによっては音、そしてもちろん味もね。因みに、料理の『料』の字は『量る』の意味よ。ね、調理も料理も、言葉からして調薬に通じるところがあるでしょ」


「なるほど。まあ、分からなくもないですわね」


「調薬は台所で生まれた、なんてことわざもあるくらいなんだから。あんたが今使おうとしてる味醂だって、調薬には深く関わってるのよ」


「へえ」

 紫乃はあたしに気のない返事をしつつ、コンロの火を弱めるとともに、もう一つ鍋を用意した。


「味醂は薬用酒に使うの。正月に飲むお屠蘇ってあるでしょ。あれは屠蘇散っていう方剤を味醂に浸してつくるのよ。あと、他所様のものだけど『養命酒』。これも複数の生薬を味醂に漬けこんだものらしいわ」


「そうですの」

 相変わらず紫乃の返事はおざなりだ。


 しかし今は構いやしない。

 あたしも休憩のつもりで雑談をしているし、それで手を止められるよりかは聞き流しにされるほうがよほどましである。

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