06.

 弁天楼の裏からせまい路地を駆けると、すぐに小さな鳥居に辿りつく。

 そこでの一礼は欠かせない。


 鳥居をくぐり、すぐにまた走りだす。

 山道は舗装されておらず、土は滑るし木の根は引っかかるで走りにくいことこの上ない。


 坂を登りきり、尾根に出たところで、現在位置の把握と休息のため、あたしは一度立ち止まった。

 何しろうちからここまで、殆ど島を一周走りっぱなしである。

 いくらあたしでも息は切れる。

 しかも浴衣に下駄である。

 せめて足許が運動靴であったなら。

 今さらになって慌てて飛びだしてきたことを悔やんでももう遅い。


 樹々の隙間からは緑青のわいた銅瓦が見下ろせる。

 辺津宮弁天堂である。


 辺津宮の見え方から、凡その現在地は把握できた。

 方向は合っている。


「よっしゃ!」

 気合を一発入れ、また走りだす。


 今も下に見えている辺津宮弁天堂は、弁天さまをお祀りするお社である。

 弁財天仲見世通りの一番奥にある辺津宮は、いつも観光客で賑わっている。


 が、神さまがお宿りになるご神体は辺津宮にはない。

 辺津宮の裏山、その奥の奥にある弁天沼がご神体である。


 鬱蒼とした樹々がほんの少し開けたところで、静かに湧き水をたたえているのが弁天沼だ。

 島の奥底より湧く清涼な水には、決して泥に汚れない丸い葉と、夢のようにぼんやり桃色に染まる小さな花が咲く。


 吉祥蓮華である。

 吉祥蓮華自体に薬効はない。

 見目麗しい花であるが、裁断後すぐに枯れてしまうその特性故に、観賞用として採取されることもない。


 重要なのは、その花弁より得られる夕露である。

 蓮華の夕露は、霊薬『天女涙』の薬種となる。

 霊薬局たる弁天楼が世に誇る天女涙、その薬種となる蓮華の夕露ときたら、それこそ龍神庵にとっての龍涎香と肩を並べるだけの大金星である。


 蓮華の夕露は、金曜日の夕方、宵の明星が輝く頃にしか採取することができない。

 宵の明星とは、日の暮れたすぐ後、西の空に沈もうとする金星のことである。

 その輝きを称えて、夕星とも呼ばれている。

 金星は女神との縁が深く、弁天さまのご加護を受けた吉祥蓮華も、金曜日、宵の明星が輝く頃に最もその力が強くなるのである。


 このくらいは弁天楼の人間ではないあたしでも知っている。

 薬の勉強に熱心でない紫乃でも、恐らく耳にしたことくらいはあったはずだ。

 だが、知識として知っていたとしても、紫乃は現場のことを知らないだろう。


 細い小枝が顔や腕を引っかく。

 濡れた草葉が剥きだしの足を鋭く切る。


「わ!」

 ぬかるみに足をとられ、水溜まりにに膝から突っこんでしまった。


「ぐっ!」

 膝と、思わず突いた手が痛い。

 浴衣も泥まみれのぼろぼろだ。


 だが、今はそんな些事を気にしている場合ではない。


「……だれかー!」

 声が聞こえる。


「……助けてー!」

 人の声だ。


「……いませんのー!」

 この声は。


 間違いない。

 ようやく辿りついた。

 山に湧く地の恵み、弁天沼である。


 そこに、いた。

 紫乃だ。


「……銀子!」

「紫乃!」


 こちらに気づいた紫乃が表情を綻ばせた。

 しかし、事態はその笑顔に見合わぬほどに悪い。

 紫乃は、腰の辺りまで沼に嵌まっていた。


「銀子! 岸に上がろうと、しても、足を踏ん張れなくて、何か掴もうとしても、手が、届かなくて……!」

 紫乃が声を震わせる。


「うん。分かってる。いいから、いいから」

 静かな声で、紫乃と自分を落ち着かせる。


 暴れたりもがいたりすると、却って体は沈んでしまう。

 かといって身動ぎせずにいても、やはり体重で体は沈んでいく。


 慌てず、騒がず、そして迅速に。

 落ち着け、落ち着いて、状況を……。


 紫乃のすぐそばには吉祥蓮華が葉を広げ花を咲かせている。

 恐らく、あの花に近づいていったのだろう。


 紫乃がいるのは、あたしから三メートルほど離れたところである。

 あと一歩、二歩と進んで手を伸ばして届くか。


 いや、無理だ。

 沼の縁は草むらに隠れている。

 どこまでが地面なのか判別がつかない。

 そもそも沼と地面との境界は、人の手が入った池や川のように明確なものではない。


 弁天沼で採取をしたことのある者に聞いていれば、絶対に教えられていたはずである。

 吉祥蓮華には無闇に近づいてはならない、と。

 蓮華は水の底に根を張り、葉と花を水の上に出すものだから。

 沼には縁がなく、いつの間にか飲みこまれているものだから。


 況してやこんな日に採取に来てはいけない。

 こんな、雨上がりで地面がぬかるんでいるような日を選ぶなど以ての外である。


 今朝、龍神さまが天へと舞い上がられたときの嵐により、山の地面はどこもかしこも濡れていた。

 樹林の下は日当たりが悪いし、特に沼の周りは湿気もあって地面が乾かない。


 つまりだ。

 今、紫乃の許には近づけない。

 あたしまで沼に飲まれて二人ともおだぶつになるのが関の山だ。


 何か、紫乃を引っぱり上げられそうなものはないか。


「……銀子?」

 紫乃が不安そうな声をあげた。


 つい考えこんでしまい、紫乃を不安にさせてしまった。

 失策である。

 今ここで混乱を来したりでもしたら、暴れてますます沼に沈んでいくなんてことにもなりかねない。


「まさか、わたくしの無様な姿を楽しんで!」


「んなわけあるか!」


 心配して損をした。

 相変わらずの減らず口である。

 この分ならまだ大丈夫だ。


 あたしは浴衣の半幅帯を解き、それをくるくると丸めた。


「まさか、泳ぐおつもり?」


「んなわけあるか!」

 あたしまで溺れるに決まっている。


 丸めた帯の片端を手に持ち、残りを紫乃めがけて思いっきり投げる。

 あたしの帯は空を切りながら解けていき、ついにその片端が紫乃の手許に届いた。


「お見事ですわ!」

 紫乃はあたしの帯をしっかりと掴んだ。


 後は、引っぱり上げるだけである。


「……あれ?」

 腕と足に目一杯の力を込めて帯を引っ張るが、紫乃が動く気配がまるでない。


「どうしましたの? 早く、引っぱってくださいまし!」


 これは、まさか。


「紫乃、あんた体重いくつ?」


 紫乃の顔が恥辱に染まった。


 紫乃はあたしよりも一回り背が大きい。

 同年代の中では発育のよい方である。


「もっとちゃんと足場を確保しなさいな!」


「沼の周りに足場があるか!」


 言い合いながらもあたしは帯を引っ張るが、下駄の歯はぬかるんだ足許を抉るばかりでどこにも歯止めが利かない。


 いつの間にか紫乃の体は胸まで沼に浸かっている。

 ゆるりと、しかし確実にそのときが迫っている。


「……誰か、誰かー!」


「何だか騒がしいねえ」


 あたしの叫びに、琵琶のように艶やかな声がぽろろんと応えた。


「わらわの庭ではしゃぐ声がすると思うたら、何じゃい、お紫乃にお銀かい」


「弁天さま!」


「もう日暮れぞ。遊んどらんで早よう帰りや。そいではな」


「待って! 待ってください!」

 姿の見えない弁天さまを必死で呼び止める。


「お助けください。ご覧のとおり、このままでは紫乃が死にます!」


「……死に」


 失言だった。

 具体的な言葉に、紫乃の顔色が一気に悪くなる。


「紫乃が死ぬとな? 妙に語呂がよいの。今わらわは辺津宮におってな、そちらに目を遣っておらなんだ」


「ちゃんと弁天沼にいてください。沼がご神体でしょう!」


「嫌じゃ。だれが好きこのんでそんな泥臭いところにおるか。おお、ばっちいばっちい」


「せめてこちらをご覧になってくださいまし!」

 紫乃が気力を振り絞って声をはり上げる。


「……どれどれ。ふむ、お銀、おまえさんなんという格好をしておるんじゃ。はしたない」


「見ていただきたいのはそこじゃない!」


 帯を解いた浴衣は前がはだけて大変なことになっている。

 だが今はそれどころではない。


「わかっておるわい。そう耳元で騒ぐでないわ、こそばゆい。……ほれ」


 突如、紫乃の頭の上に半透明の衣が現れた。

 弁天さまの羽衣だ。


 羽衣はふわふわと重さを感じさせない浮き方をしている。

 かと思いきや、すうっと動き出し、羽衣は紫乃の胸に巻きついた。


「……すごい! 浮いてますわ!」


「やった!」


 これで一安心、かと思いきや。


「……む」

 弁天さまの不穏な声が耳に入ってきた。

 紫乃の体がそれ以上浮かんでこない。


「……紫乃、おまえさん、目方はいくつぞ?」


 紫乃の顔が絶望に染まった。


「ふむ。わらわの力も弱まったもんじゃ。まさかこわっぱ一人持ちあげられぬとは」


「駄目じゃないですか!」


「ま、これでしばしは時をのばせようぞ。ほれ、お銀。さっさと行って誰ぞ呼んでまいれ」


「はいはい!」

 踵を返し、あたしはもう一度森に飛びこんだ。


 流石にそろそろ誰か来てもいい頃だ。

 おじさまも数之進も遅すぎやしないか。

 行き先は弁天沼であると分かっているというのに。


 と、山道の向こうにたくさんの人影がうごめいているのが目に入った。

 遠目で顔は判別つかないが、恐らく身体の大きいのが梅鶴おじさまであり、背の高いのが数之進だ。


 大人たちは三々五々に散らばって動いており、こちらへ真っ直ぐやってくる気配がない。

 どうやら、道中隈なく探しているようだ。


 紫乃の行き先が弁天沼であると確信が持てなかったのか、それとも、弁天沼に向かう途中で事故に遭った可能性を排除できなかったのか。

 迷いなく弁天沼まで来たあたしとは違い、大人たちは色々と考えたのかもしれない。


 しかし、それでは遅いのである。


「おーい! おおーい!」

 声の限りに叫ぶが、人影に反応はない。


 つい先頃まで凪いでいたのが、夕方の陸風が出てきている。その陸風に草木がざわざわと騒いでいるせいだ。


「聞こえておらんようじゃのう」


「弁天さま! いらしたなら呼んできてくださいよ!」


「仮にも神を使いぱしりにしようとはいい度胸じゃ」


「お願いします! この通り!」

 あたしは手を合わせ、最敬礼でお願い申しあげ奉った。


「無理じゃ。沼から離れ過ぎておる。わらわの声も届かん」


「……この!」

 思わず、神さまに申しあげてはならぬ言葉を口にしそうになった。


「わらわが呼ばんでも、それを使えばよかろうに」


「それ?」


「おまえさんの代名詞じゃ」


 弁天さまのお言葉を受け、それまで忘れていた胸元の感触を思い出した。

 あたしは首から提げていたそろばんを右手に握りしめ、振りかぶって気合一発、「おんどりゃあ!」と真っ直ぐに投げた。


 樹々の合間をすり抜けていったそろばんは、見事数乃進の前頭部に命中して弾け飛んだ。

 その場にいた大人たちが皆こちらを見る。

 大成功だ。


「おーい!」


「銀子!」

 あたしの呼びかけに、こちらへと走る梅鶴おじさまが大きな声で返事をした。


「『そろばんの銀子』の面目躍如じゃの」

 風の中、弁天さまの声がした。




 その後のことである。

 大人たちによって無事救いだされた紫乃は、泥だらけのまま弁天楼に帰り、店の前で待ち構えていた千里おばさまから雷雨のようなお説教を受けた。

 千里おばさまは霊薬の世界よりも任侠の世界の方が似合うような人である。


 人通りの多い仲見世通りで正座させられ、業火のようなお説教を受け、反省させられる紫乃。

 実にいい気味であった。


「銀子」

 しばらくすると白金兄さまと金子姉さまが現れた。


「あ、兄さま、姉さま! やりました!」


「おやおや。元気いっぱいだね、銀子」


「本当、元気が有り余ってるわねえ」


「見事紫乃を救ったというじゃないか。金子、これはご褒美をあげなければいけないよ」


「そうですねえ」


 あたしの背中に電流が走った。

 兄さまと姉さまは、朝方稚児ヶ淵で見たのと同じ笑顔を浮かべていた。


「お出かけ禁止なのに一人で飛びだしていっちゃうし、顔も手も足も擦り傷だらけだし、浴衣はぼろぼろだし、帯は失くしちゃうし、半分裸だし、数さんにそろばんを投げつけるし、ごほうびが必要よねえ」


 あたしは自ら紫乃の隣に正座した。

 お出かけ禁止が一ヶ月から三ヶ月に延びた。

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