龍神庵銀子は薬売り

村井なお

第一章 龍涎香

01.

 波のしぶきが膝にかかる。

 水滴が滴っていくのが心地よい。

 今日は風が強く、波も大きい。


 船の舳先に立っているあたしは、風に舞うしぶきを余すことなく全身で受けている。

 しかし、蜻蛉玉の髪飾りで括った前髪も、絣半纏も、足許の海靴も、どれも濡れたそばからあっという間に乾いていく。

 あたしたちの船には、水平線から顔を出したばかりのお天道さまの放つ光と熱が絶え間なく注がれているからだ。


 日頃の行いからか、今現在はあたしとお天道さまを遮るものは何もない。

 しかし、空の上では灰色の重たい雲が、目に見て分かるくらいの速さで走り回っていて、この後いつあたしたちの上にその雲がかかってもおかしくない、そんな空模様である。


「おーい、お銀! 落ちんなよ!」


「大丈夫! 慣れてるんだから!」


 船室から顔を突き出す網元に叫び返す。

 網元は漁師たちの親分で、今乗っているこの漁船の船長でもある。


「何でわざわざそんな危ないとこに立つかねぇ!」

 面白がっているような、呆れているような、網元の声にはそんな笑いが混じっていた。


「何でって、決まってるじゃない! 漁船に乗って海に出たら、舳先に片足乗っけて腕を組む! それが海の乙女というものよ!」


「親父! しょうがないよ、銀子はお馬鹿だから!」

 網元の息子、惣吉があたしに負けじと元気な声を張り上げる。


「誰がお馬鹿よ!」

 振り返ると、惣吉はあたしの腕くらい太い綱を丸めて運んでいるところだった。

 真っ黒に日焼けした横顔には、笑顔がからっと広がっている。

 惣吉はあたしと同じ分校の六年生である。


「着くぞ! 掴まってろ!」

 エンジンの音が弱まり、代わりに波の音が耳に届くようになる。

 左前方の波間に、大きな岩場が見えている。

 海面に頭をのぞかせているこの岩礁は『龍の腰かけ』と呼ばれている。

 表面は磨いたようになだらかで、名の通り腰かけて一休みするには持ってこいといえよう。


 船は速度を落としながら龍の腰かけへと近づいていく。

 ゆっくり左手に滑る船体。

 波に揺られ、船はあちらこちらへ、龍の腰かけに近づいたり遠ざかったりを繰り返す。


 船体が龍の腰かけに一番近づいたそのとき、「や!」と総吉が岩礁へと飛び移った。

 波に揺られた足場から、ものの見事な跳躍である。流石は海の男の子。

 惣吉が肩に巻いていた綱を解き、細く突き出した岩に巻きつけた。

 綱で舫いだはいいが、船は尚も波に揺られ、刹那たりともその所在を留めることがない。


「お銀! 無理すんなよ!」


「平気!」


 波を目で読み、船の揺れを足で感じる。

 期を見計らい、あたしは「うりゃ!」と気合一発、波を飛び越えて見事龍の腰かけに上陸を果たした。


「流石だな、銀子!」


「当然!」

 手を打つ惣吉に、あたしは親指を立てて見せた。


「そんじゃ、後で迎えにくっからな」


「ちゃっちゃと済ませて、早く来てよね!」


「任しとけ! 今日は大漁になる気がするぜ!」

 手を振るあたしを残し、網元と惣吉を乗せた船は白い軌跡を残して走っていった。


 遠く沖の方に、漁船がぽつぽつと無数に浮かんでいるのが見える。

 腰越の漁船たちだ。

 腰越はさざえとしらすで有名な漁港である。

 特に獲れたての生しらすは他所では食べられないと評判で、漁師たちはその評判を裏切らないようたゆまぬ努力を続けいてるとのことだ。


「網で獲ったらすぐ氷水にぶちこむわけよ。で、まだ船倉に余裕があったら急いでまた網を出す。もし大漁でこれ以上積めねえってなったらすぐ港に帰って水揚げするんだわ」

 と、総吉が得意そうに話していた。


 漁は時間との戦いである。

 網元の言う通り、今日が大漁であったなら、船はすぐにでも戻ってくる。


 恐らく今は五時過ぎだ。

 六時までには仕事を済ませておきたいところである。


 あたしも、自分の仕事を始めよう。

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