第三話 後半 『巳之吉 恩を埋め合わせする』
丸輪屋に着いたものの、さすがに店先から行くわけにはいかない。
ので、裏木戸に回る。
ちょうどたすき掛けをしたお女中が出てきたので、
「旦那様ですか?」
おまえは誰だとでも言いたげな不審そうな顔で聞いてきた若いお女中に、ワシは懐から懐紙に包んだ金平糖を出してニカッと笑って娘の手に握らせた。
このニカッが肝で、これは長吉に教わったものだ。
ニッコリ笑うと人が悪く見えるが、ニカッだと親しみが持てるらしい。
「旦那様は、今日も長屋だと思いますよ。」
「裏長屋かえ?」
「いぃえ。
叶え稲荷の近くの長兵衛長屋ってとこなんですよ。
旦那様ったら、
女でも隠してるんじゃないかって、奥様が以前人を
紙ッ切れが散乱しているばかりで、女のおの字もなかったらしいです。」
――長兵衛長屋か。
回れ右だが、仕方ねえ。
ワシはお女中に礼を言って、来た道を戻った。
おんや、行きには気づかなかったが、木々の緑がきれいだねぇ。
『目に青葉、山ホトトギス、初ガツオ、何はなくともまず油揚げ』って、いい季節になったぜ。
行きかう人も、なんていうか、生き生きしてら。
さてさて
叶え稲荷を通り越して、
長屋の井戸脇にあるちいせぇ稲荷に頭を下げて、教えられた家の入口の障子を引いた。
「
そこはあのお女中の言った通り、紙に埋もれたような部屋だった。
入ってすぐの水屋には鍋釜もなく
人気のない狭い部屋はたくさんの本で埋め尽くされ、やけに立派な文机にはこれまた立派な硯と筆が乱雑に置かれ、丸めたり書きかけだったり、何度も直して真っ黒になったり、ともかく
――何をそんなに書き散らしているのか。
ワシは手近な塊を拾って広げた。
なんとそれは、歌舞伎の
同じ場面が何度も何度も書き直されている。
――あれ、これ。
山村座の先月の演目じゃねぇか。
しかも署名が、河竹西伝だと。
え、あの河竹西伝なのか?
いったい、どういうこった?
「あ?」
その時入口の障子が開いて、当の
少しばかり驚いた顔で部屋にいるワシを見て固まった。
「おう、邪魔してるぜ。」
「ええーと、ど、どっかでお見みかけしたような。
あの、どちらさんで?」
「花房山稲荷の
それよりコレ、この前山村座でかかってた『
ワシは手にした
巳之吉はその
「アンタ。
まさかと思うが、河竹西伝本人さんかえ?」
「ああ、まぁ、うん、そんなところかな。」
「いや、そりゃまた、驚きだね。
へぇ、そうかね。そうかね。
いやぁ、あの台詞は良かったね。
ホレ、あの別れの段の紫扇の台詞。
悲しさと悔しさと未練と色っぽさがよぉ、いい塩梅で。
こう袖を噛んでさ、『あれぇ、旦那様ぁ……』。」
いやいや、そんな話をしに来たんじゃねえ。
「恩の回収」話しをしないと。
気持ちを取り直して
「じゃねぇや。
アンタさぁ、叶え稲荷によく来なさるが願い事は叶ったかね?」
「え、ええ。」
「そりゃ、なにより。
で、なんでお
じゃなくて、稲荷にはお礼しなさったかね。」
お礼とは何ぞやという顔でこちらを見た
――あー、こりゃ確かに
要領を得ず、話しが飛ぶのを要約すると、だ。
子どもん時から人としゃべるのは苦手で、本を読むのが好きだった。
ある時芝居を見て、舞台の世界に魅了された。
でもその芝居の
芝居を見ては、気になった場面の
それから下積みをして、一年前からやっと作者として通しで一本書くようになった。
自分が商売に向かないことを女房もなんとかわかってくれて、好きにしていいと言ってくれた。
商いの役に立たないのでせめてもと、花房山稲荷で家業の商売繁盛のお願いを毎回している。
「ああ、そういや、あれだ。
最近の山村座の芝居に、よく丸輪屋の草履が台詞が出てくるのな。
アンタ、商いが出来ない代わりに宣伝してやってるのか。」
それから、何か思い付いたような顔でぼそぼそと続けた。
全くもって不思議なこった。
お世話になっているので、お礼代わりに花房山稲荷を題材にまた狂言を書かせてくれないか。
それを聞いて、ワシはなんていい思いつきなんだと思った。
この本人から想像できないような、
それどころか、見れば見るほど驚かされることが多い。
ここは「恩の回収」として
そうすりゃ花房山稲荷にまた参拝者も増えてオサキ様も喜ぶだろうし、巳之吉の「恩返し」のもなるし、なにより芝居好きなワシが嬉しい。
なんて三方良しな方策なんだ。
ワシは新作は
「オマエ弱みを握られたね!
あれほど気をつけろと言ったのに!」
と雷を落とされたのは、また別の話し。
◇ ◇ ◇
「願ひごと かならず叶う 花房の 稲荷の神のいかに尊き」
*******************
差配人
長屋(貸家)などの管理を持ち主に代わってする人
笹乃雪
元禄年間(1688-1704)
京都宮家出入りの豆腐職人、玉屋忠兵衛が根岸に開いた豆腐茶屋の屋号
狂言
歌舞伎の脚本のこと
作者は「座元」と「座付の作者」として契約を交わし、その一座のための狂言を書いた
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