第15話 家族編(二)愚行

 貯金が無くなった母親は、倹約のために三人で暮らそうと提案した。その頃、達也は非正規雇用の職に就いていたため、母親の提案に反対していたが、姉が杉並区に三DKのアパートを借りてしまい、三人で暮らすことになった。


 貯金が底をついても姉は母に宗教代を請求し続けた。これまで母親に頼めば十万円でも二十万円でも出てきたため、味をしめた姉は母に請求し続けるのである。


 母親の一ヶ月の収入は、父が残した遺族年金十三万円だけであった。達也は、あらかじめ家賃や生活費をひとり八万円ずつ出してやりくりしようと提案し、姉もそのことに同意していた。家賃が十二万円であったため、月二十四万円で節約していけば、十分生活していけると達也は考えていたのである。それでも、母は「こんなんじゃ生活していけない」といつも愚痴ぐちをこぼしている。不審に思った達也は、金銭の管理を達也自身が行うことにした。母親にお金を持たせるとすべて姉に渡ってしまうため、母親の通帳を達也が管理することにして、買い物や家事も達也が行った。その間、母は自分の部屋でじっと座っているだけであった。


 これですべてがうまく運ぶだろうと達也は思っていた。ところが半年もたった頃、母親が奇妙な行動をとりはじめた。何かを懸命に探している。腕時計、ネックレス、鈴のついた鍵など。達也はハッと思った。もしかして認知症になったのではないかと。その日以来、買い物は母親に行かせるようにしたが手遅れだった。認知症は少しずつ確実に進行していく。


 病院で検査してもらった結果、アルツハイマー型の認知症であると診断された。


 母親が認知症にかかったことを知った達也は、認知症に関する本を買って来て読みあさった。認知症についての症状が羅列られつされているなかで、特に達也が関心をもったのは、記憶が少しずつ喪失していくことであった。達也は、母親の記憶がまだ確かなうちに、母親との思い出を出来るだけ残しておきたいと思いたったのである。思えば、母親と一緒に行動したのは、父親の墓参りくらいのものであった。


 母親が欲することは何でもかなえてあげたいと思っていた。「白ういろうが食べたい」と言えば、東急百貨店の地方特産品売場までおもむいて買いに行った。マクドナルドのフライドポテトが好物であったため、週末の昼食は、決まってマクドナルドであった。「ちょっとずつ出てくる美味しい食べ物が食べたい」と言いだした時は思い悩んだが、たぶん、料亭に出てくるような日本料理のことだろうと思った達也は、ランチタイムに三千円くらいの手ごろな日本料理が食べられる料亭がないか、渋谷駅周辺を探しまわった。インターネットも駆使して探し、東急プラザの最上階と渋谷マークシティ内に、探し求めていた日本料理店を見つけると、何度も何度も母親を料亭に連れて行った。すでに認知症が進行していた母親は、次から次へと出てくる料理を無心に食べていた。


 ある日、「これから娘と一緒に宗教セミナーに行く」と言って、部屋のなかで待機している母に、「日本料理食べに行くか」と聞いてみると、「日本料理食べる」と言い、まるで子供が親の後を追うかのように渋谷駅に向かう達也の後をついて来る。本当は、宗教などに染まらずに、旅行に行ったり、美味しい食べ物を食べ歩いたり、そのような生活を送りたかったのだろうと、達也は母を思いやった。


 達也は、母親が認知症にかかったことを姉に伝えた。姉は何の関心も示さなかった。それどころか、母親から金をせびることが出来なくなった姉は、派遣の仕事で得た収入をすべて新興宗教に使いこみ、「生活費が払えない」「家賃が払えない」と言いだしたのである。


―ここまで貪欲どんよくになれるものなのか、それとも無知なだけなのか―


 ひとを殴ったのは初めてであった。


 日曜日の朝、母を神田川へ散歩に連れて行こうと準備をしていた時、姉が赤色のジャージ姿で欠伸あくびをしながら部屋から出て来て言った。


「何かパンでも買って来て」

「自分で買って来いよ」

「おめえに言ってんじゃねえんだよ」


 その瞬間、理性を失い瞬発的に体が動いていた。こぶしで六回姉の顔をなぐって、足で姉の腹部を六回蹴飛ばした。姉も何度か叩いてきたりつばをかけてきたりしたが、男の力に対しては無力で、ぼこぼこになって床に崩れ落ちていった。


―俺はやはり中山家の人間だな―


 達也は心のなかでそう呟いた。

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