第13話 血族編(十二)汚辱

 父親の死から三年ほど経って、やっと心の傷が癒えかけた時。椎野吉美しいのよしみという男性社員が、NTT東京支社から石神井しゃくじい営業所の営業課長として達也の部署に赴任して来た(注)。


 外見は、面倒見のいい部下思いの上司といった風采ふうさいであった。栃木だか茨城だかの出身で、なまりのある言葉もまた、人柄のいい中間管理職じみた雰囲気をかもし出していた。しかし、見た目とは裏腹に心の中は腹黒く、新人の女性社員の尻をさわるなどのセクハラ行為もしていたようであった。達也は、椎野のセクハラ行為を、その女性社員の上司から直接聞かされたのである。そのような者が直属の上司として達也の部署に配属して来たのだから、達也にとってとりわけ運の悪いことであった。


 高卒であった椎野は、大卒なみの待遇が受けられず、大卒に妬心としんを抱いていた。達也が卒業した大学の出身者のなかには、取締役に就任する者もいたことから、椎野の妬心が達也に集中した。達也が勤めていた通信会社では、三年ほど勤務すると転勤し、キャリアアップしていくのが慣行であった。裏を返せば、同じ部署に長いこといることは、本人の評価を下げることになるのである。椎野は、達也を転勤させないように仕向けるばかりか、人事の嫌味いやみを直接達也に言い続けることで憂さを晴らしていた。


 達也をどうにか転勤させようとしていた、所長や課長代理がいない時を見計らって、そっと達也のそばに忍び寄ると、まるで呪文を唱えるかのように、訛りのある口調で卑しい言葉を言い続ける。


「ぬくやまもあと四、五年石神井しゃくじいに居ればもっといい仕事が出来るなあ、ぬくやまなあ、居るなあ、長いつき合いになるなあ、ぬくやまなあ……」


 挙句あげくの果てには、転勤して来たばかりの高卒の若い社員を栄転させて、その後釜になるように言いだした。


「ぬくやま、白須しらす君を転勤させてその後釜になるなあ、担当になるなあ、ぬくやまなあ、やるなあ、長いつき合いになるなあ、ぬくやまなあ……」


 業務終了時間になると、椎野は人事の嫌味を言うことだけのために、執拗に達也を酒飲みに誘って来た。達也が逃げても「ぬくやまビールだ、ぬくやまビールだ……」と言いながら後をしつっこくつきまとってくる。しかも悪辣あくらつなことに、決まって白須ら椎野に従う者を同行させようとするのである。達也はその卑俗ひぞくな行為を阻止するため、自己啓発を名目として簿記の専門学校に通いはじめた。そのような達也の反発的な行動に対して、椎野のパワハラはさらにエスカレートしていった。


 当時達也は営業課のなかで重要な役割を担い信頼も得ていたにもかかわらず、椎野は査定で達也に対して最低の評価をくだしたのである。総務係長からそのことを聞かされた達也は愕然がくぜんとした。一年間半、毎日のように人事の嫌がらせを受け続けた達也は、しだいに退職を意識するようになった。


 一方、上層部に従順で、阿附迎合あふげいごうしていた椎野は、一年半という異例の早さで支店の営業企画担当課長に昇進した。それでも、達也が椎野から受けた精神的苦痛や会社からの評価はぬぐいさることは出来ない。また、支店に椎野が存在する限り、達也に対する嫌がらせは今後も続くのである。


 達也は、所長と後任課長にだけ退職について相談した。二人とも達也が相談するまで、あの人柄のいい椎野課長がまさかパワハラをしているとは思っていなかったようであった。それほどまでに椎野は、営業課のなかで狡猾こうかつ偽善ぎぜんを装っていたのである。


 所長や支店の人事部は、達也の退職を思いとどまらせようと働きかけてきた。そして達也に対して人事部がとった対応は、達也を支店の営業企画部に異動させることであった。しかし営業企画部の担当課長はあの陰険いんけんな椎野である。


 椎野は、営業所に着任早々達也を飲み屋に連れ出して次のように語っていた。


「暴れ馬の中山の手綱たづなをどう引いていくか、今考えているところだ」


―こんな屑野郎くずやろうに俺の手綱は引かせない―


 達也は、椎野のパワハラ行為を阻むため辞令を受けた後すぐに退職届を提出した。同期の友人に相談する間もなく、逃げさるように通信会社を去ったのである。辞めたくない会社を辞める状況に追い込まれて退職する。退職した時の達也の精神状態は、普通の精神状態ではなかった。


 椎野のパワハラを知らない職場の者は、達也の道義に反する行為に激怒していた様子であった。時はバブル経済が崩壊し、後に「失われた三十年」と言われる停滞期に突入した頃のことであった。


(注)NTT東京支社(現NTT東日本 NTT品川TWINS)

   石神井営業所(現NTT東日本 石神井ビル)


 —法の裁き天の裁きを逃れ安穏と隠棲する卑しき者、筆硯の裁きを受けよ―

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