第6話 血族編(五)確執

 土曜日の前日の朝、達也は居間で朝食をとっていた。居間に隣接している寝室では、父が会社に行くための身支度をしている。父と息子との間には一切の会話もなかった。身支度をすました父は、寝室から玄関に向かおうとしたが一瞬足をとめて言った。


「もう一杯飲んでいこうかな」


 父はカップにコーヒーを注ぎいっきに飲みほすと、普段どおり家を出て行った。


「もう一杯飲んでいこうかな」それが父から聞いた最期の言葉であった。


 達也は、父親を救えることが出来たのではないかと幾度も考えた。あの時、自分の貯金をすべて父親に渡していたとしたら、父親は生きていただろうか。などと考えるのである。しかし、何度考えたところで結論は同じであった。


 達也が生まれた時、父親は自分の息子が所謂いわゆる優等生であることが当然のことのように考えていた。成績は学年で常にトップクラスで、学級委員長を任されるような、そのような子供であることを想像していたのであろう。しかし、実際の息子は父の期待とははなはだかけ離れていた。達也は、生まれながらにして出来が悪かったのである。幼稚園の頃はまるで知的障害者のようにいつも口をあけながらぼうっとしていたし、小学低学年の頃の通信簿の成績は一と二しかなく、備考欄には「何をするにも動作がのろすぎる」と記入されていた。


「こんな子供に育てたつもりはない」といういきどおりに満ちあふれていた父親は、こともあろうにその憤懣ふんまんを息子に向けていたのである。


 父親は、「お前は馬鹿だ」という言葉を頻繁ひんぱんに口にしていた。達也が中学に入学した時、運動部に入部したいと申しでたが、父親は「お前は馬鹿だから駄目だ」と言って、顔を赤く染めながら声を荒らげて反対した。何をするにも「お前は馬鹿だから駄目だ」という剣幕であった。達也が反駁はんばくすると、「親に向かってなんだその態度は」と言いながら殴る蹴るの暴力をふるい、そして達也は自分の部屋に逃げこむのである。そのような事が日常的に行われていた。


 中学までは体力では父親にかなわなかったため、いいように殴られていた。しだいに達也は父親のそばに居なければいいと考えるようになる。父親はパチンコをやってから家に帰って来るので、帰宅はたいがい夜十一時を過ぎていた。それまでの時間は、達也が居間でくつろぐのには十分な時間であった。父親が帰ってくる気配を感じると、すぐに自分の部屋に逃げこむのである。


 達也が高校生になった頃になると、父から罵声を受けることはなくなったが、幼いころからの記憶や悪習によって、二人の関係は普通の親子の関係のようにはならなかった。町中で二人が偶然出会うことがあっても反目はんもくし合って、お互いが背を向けて黙然と反対方向に歩いて行ったのである。


 大学卒業後、就職してから以降も二人の関係は、まるで同じシェアハウスに住んでいる仲の悪い同居人のような存在で、会話はもっぱら母親を介して行われていた。そうすることによって、互いの均衡を保っていたのであった。


 そのような関係では、父親を救うことは無理であっただろうと達也は思った。皮肉にも父親は、自らを死に追いやった家庭環境を、父自身が作り出していたのである。

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