六道辻の井戸(2)

 何が起きているのかわからなかった。

 一瞬、宙に浮いたような感覚があったと思ったら、すぐに地に足が着いたのだ。

 確か、井戸の中に落とされたはずだった。


 暗がりの中に、小さな明かりが見える。

 松明の灯りのようにも見えるが、どこか青みがかった炎にも見えた。


「ささ、篁様。この先でございます」


 いつの間にか横に現れた花が、篁のことを誘導する。

 目の前に巨大な朱色の門が姿を現した。

 羅城門など比にならないほどの大きさである。

 門の脇には、上半身裸の男がふたり立っている。

 ひとりは頭が牛、もうひとりは頭が馬という姿で、どちらも筋骨きんこつ隆々りゅうりゅうな肉体を持っていた。

 どこからどう見ても、現世うつしよの者ではない。

 

 とんでもないところに連れて来られてしまったものだ。

 篁はふたりを見ながら、そんなことを思っていた。


牛頭ごず馬頭めず。篁様を連れてきましたよ。門をお開けなさい」


 花が命令口調で大男たちにいう。

 すると牛と馬の頭の大男たちは頷き、力を込めて門扉を押し開けた。


 門の向こうには、参道のような石畳の道が続いており、その奥には殿社でんしゃのような建物が存在している。


 一体、ここはどこなんだ。

 篁は困惑しながらも、花の後をついていった。


 しばらく進んだところで、花が立ち止まった。

 殿社の前だった。

 奥には、大きな机のようなものが置かれており、その机に向かって筆を執っている人物がいた。


「小野篁様をお連れいたしました」

「おお、待っていたぞ」


 机に向かっていた男がこちらを向く。

 赤ら顔の大男。口には立派な髭を蓄えており、そのぎょろりとした目で睨まれれば、すくみ上ってしまうほどに眼光は鋭かった。


「そなたが、小野篁か。噂通りの偉丈夫よのう」


 赤ら顔の大男はそう言って立ち上がったが、その大きさは篁など比にならぬほどの大きさであった。


 これは現世の者ではないな。

 すぐに篁は悟った。

 では、ここはどこだ。現世でないとすれば……。


冥府めいふへようこそ」


 笑いながら赤ら顔の大男はいうと、篁を奥の部屋へと誘った。

 花の方に篁が目を向けると、花は無言でうなずく。

 どうやら、行ってこいという意味のようだ。


 奥の部屋には、酒宴しゅえんの席が用意されていた。

 豪華絢爛な食事と酒が置かれている。

 赤ら顔の男は先に腰をおろすと、篁に上座の席を進めた。


「花が世話になったみたいだな。礼をいう」

「一つ教えてくれないか」

「なんだね」

貴殿きでんは何者なんだ、そしてここはどこなんだ」


 篁の発言に赤ら顔の男は大笑いをする。


「花め、なにも説明せずに連れて来たか」


 ひと通り大笑いを終えた赤ら顔の男は息を整えてから言葉を続けた。


「これは失礼いたした。ここは冥府で、わしはこの冥府を管理する閻魔えんまと申す」


 薄々気づいてはいたが、それが事実であるということを知った篁は驚きを隠せなかった。


「閻魔大王……」

「現世の人間はわしのことをそう呼ぶな」


 篁は目の前に座る赤ら顔の大男を見上げるようにしながら、唖然としていた。


「この姿では、話しづらいな。しばし待たれよ」


 閻魔がそういったかと思うと、辺りに霧が立ち込めて赤ら顔の大男は姿を消した。


「うむ、これでよい」


 声が聞こえ、目の前に現れたのは篁と背丈が同じぐらいの若い男だった。


「篁と話をするのであれば、この姿の方が良かろう」

「そなた、閻魔大王なのか」

「ああ、そうじゃ。姿は現世の者を借りておる。どうじゃ、この姿をみて、だれもわしを閻魔だとは思わぬじゃろう」


 閻魔は笑い、篁に盃を取るように促す。


「ささ、飲まれよ。好きなだけ飲まれよ」

「その前に一つよろしいか」

「またか。まあ、よい。なんじゃ」

「これは一体何なんだ。私は死んだのか?」


 その篁の発言を聞いた閻魔は大笑いをした。


「馬鹿なことをいうな。確かにここは冥府じゃが、お前は死んではいない。わしが、招いたんだ。先ほども言ったが、花を助けてくれたお礼じゃ」

「そうなのか……」


 篁はまだ半信半疑といった様子で、盃に口をつけた。

 美味い酒だった。いままで口にした酒の中でも一番の美味さだ。口に含んだ時のまろやかさ、飲んだ後の後味。すべてが一番だった。肚の奥底がかっと熱くなる。


美味うまいな」


 思わず声に出してしまっていた。

 その言葉を聞いた閻魔は嬉しそうに、更に篁の盃に酒を注ぐ。


羅城門らじょうもんに住み着いておった獄卒ごくそつを斬ったそうじゃないか」

「獄卒?」

「ああ。現世でいうところの鬼というやつじゃ」

「あれは、花に助けられたから勝てたようなものだ」

「すまんな」

「なにがだ」

「あの獄卒も元はといえば、この冥府から逃げ出した者。わしの部下じゃ」

「そうなのか」

「ああ、なにかのドサクサに紛れて現世へ逃げ込んだ」

「それを私が斬ったというわけか」

「そんなところだ。そういえば、あの獄卒の角は大事に持っておくといい」

「なぜだ」

「あの角が篁とあの獄卒の主従関係の証となる。角を持っている限りは、あの獄卒はお前には逆らえん。どんな命令でも聞くだろう」

「そうなのか」

「ああ」


 そういって閻魔は盃の酒を一気に飲み干した。

 ふたりはどのくらい語り合っただろうか。

 用意していた酒もすっかりなくなってしまった。

 意気投合した閻魔と篁は、古くからの友のようだった。


「すっかり、酔ってしまったな」


 篁はそういいながら空になった酒甕さかがめを覗き込む。

 そうはいうものの、篁に酔っ払っている様子はない。

 ただ、気分はとても良かった。



「篁様、篁様」


 どこからか声が聞こえてくる。


「篁様」


 それが家人の声だと気付いた篁は、はっと目を開けた。


「こんなところで居眠りしては、風邪をひかれますぞ」


 家人に言われ、辺りを見回すと、そこは自分の屋敷の縁側であった。

 どうやら、縁側を眺めているうちに眠ってしまっていたようだ。

 すでに日は暮れ、庭の池には蛍が集まってきている。


「夢だったのか……」


 篁は大きく伸びをすると、縁側から室内へと移動しようと立ち上がった。

 すると、懐から何かがこぼれ落ちた。

 それは手のひらほどの大きさの盃であった。


「やはり、夢ではなかったのか」


 篁はそうつぶやくと、その盃を眺めていた。

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