第3話 素敵なプリンと、すき焼きの夜

「あ、窓際に座ります? 大きい荷物、あげとくんで、こっちにください」

「ありがとうございます」


 お言葉に甘えて、窓際の席に腰を下ろす。

 ふたりぶんの荷物を荷物棚に上げている梶田を、ちらりと見る。今日は仕事なので、ダークグレーのスーツだ。


 梨花は上が黒のポンチ素材、スカートが赤みがかったオレンジのタフタ素材の切り替えワンピース。動きやすいけどカジュアルすぎない、五味の新作である。

 まだ朝晩は肌寒いから、と、羽織る用にベージュのパーカーももらった。スリムなつくりが、やぼったくならなくて素敵だなぁと思う。フードの裏地が白の──目が細かく柔らかい、メッシュ素材になっている。

(「今年はメッシュ流行ります!」って五味さん言ってたけど、自分じゃ絶対に冒険しない。いつもと違うお洋服を着るのも、楽しいな)

 

「旅行、久しぶりです」

 そう言って、手元の鞄からペットボトルを2本取り出し、ひとつを梶田に渡した。

「僕も。ありがとう」

 受け取ってから、照れくさそうに笑う梶田。

「あ、僕は出張でした。仕事忘れてたら、課長に怒られるな〜」

「ふふ、がんばってください。今日は、私は市内で友人と会ってますね。晩ごはん、よかったら梶田さんもご一緒しませんか? もし、取引先との会食とかが、なければ」

「ぜひ! お友達に会えるのも楽しみだなぁ」


 キョーコとは、「以前」シェアハウスで一緒に暮らしていたという設定で、口裏を合わせてきた。


(本当は、嘘なんてつきたくないけど。仕方ないよね……)


 一緒に暮らしています。生活圏は神奈川と奈良だけど。なんて。とてもじゃないけど、言えない。



          ◇



「じゃ、僕、地下鉄に乗り換えなので! また後ほど」

「はい! 後ほど」


 梶田を見送った後、地下街のカフェに入った。

 コーヒーを飲みながら、キョーコの到着を待つ。


 今朝、行ってきますと別れてから、数時間しか経ってないのに。

 数時間かけて移動してきたこの地で、初めての待ち合わせをしているという、この不思議。


(思えば、「外」のキョーコさんに会うのは初めてなんだ)


「お待たせ〜! 京都駅久々で、迷っちゃった〜!」

「キョーコさん!」

「うふふ、朝ぶりね」

「朝ぶりですね」


 外で見るキョーコはまた一層、魅力的だった。

 本人は気がついていなさそうだけれど、ちらちらと周囲の視線を集めていた。

 

(家にいると慣れちゃってたけど、やっぱりキョーコさん、モデルさんみたい)


 襟の大きな白シャツに、透け感のある薄手のカーディガンを羽織り、ふんわりとしたシルエットのパンツは足首で裾が絞ってある。キョーコだからオシャレに見えるけれど、梨花が着たらもんぺに見えるんだろうなぁとしみじみ思う。


 以前の梨花なら、自分との違いに萎縮したかもしれない。でもいまは、自分が一緒にいて心地よい相手が増えたことを、嬉しく思うだけだ。

(成長、したのかなぁ)


「さ、どうしよっか。とりあえず移動する?!」

 キョーコが言うので、梨花は生徒のように手をあげた。

「ですね。私、行きたいお店があるんです!」

「よし、行こう行こう!」



          ◇



 地下鉄ののりばに向かいながら、キョーコに提案をする。

「昔、おばあちゃんに連れて行ってもらった洋食屋さんが忘れられなくて。ランチ、そこでも良いですか?」

「もっちろーん! 楽しみ♡」




「変わってない……」

 梨花は感動に目を輝かせた。

 細かいところはきっと変わっているはずなのだけれど、その一軒家のレストランは梨花の記憶とぴったり合った。


 おばあちゃんに、梨花の誕生日に連れてきてもらった、レストラン。

 ちょっとおめかしをしてくるような店内の落ち着いた雰囲気が、特別感があってわくわくした。


 お料理ももちろん美味しいのだけど、プリンがまた絶品なのだ。

 梨花のプリン好きのルーツはここだと言っていいくらい、大好きなプリンだった。


 年季の入った木の扉を開くと、カランカランと懐かしい音。


「いらっしゃいませ。2名さまですか?」

 柔らかい笑顔の女性と、食欲をそそるデミグラスソースの匂いが迎えてくれる。

「はい。予約はしていないんですが……」

 見渡した店内は平日の昼前にも関わらずほぼ満席で、カウンターの席がふたつだけ空いていた。


「大丈夫ですよ。こちらへどうぞ」

「ありがとうございます」


「よかったね」

「はい」

 こそこそっと囁きあって、梨花とキョーコは渡されたメニューと睨めっこする。


「どうしよう、梨花ちゃん。どれも美味しそうすぎる」

「何で迷ってます?」

「うー、カレーとぉ、ヒレカツサンドとぉ、エビフライ……」

「よし、全部行っちゃいましょう! 私とハーフで」

「いいの?」

「私も食べたいんで! あと、プリンはマストですっ」



          ◇



「お待たせいたしました。ごゆっくりどうぞ」

 色白でにこやかな女性が、料理の乗ったお皿を並べてくれる。


「はぁい、どうも」

「ありがとうございます。美味しそう……!」


 まず運ばれてきたのは、ミニサラダとエビフライ&ヒレカツサンド。

 ミニサラダのドレッシングにはすりおろした玉ねぎが入っていて、甘味と酸味が絶妙だ。

 野菜も新鮮で、素材そのものの甘みが感じられる。


 揚げたてのエビフライと、ミディアムレアに仕上げた肉の切り口のピンクが麗しいビーフのヒレカツサンドは、ひとりぶんずつ分けてワンプレートにしてくれた。


 サクッ


「ん〜! エビぷりっぷり! タルタルも卵ごろごろで美味しいよ、梨花ちゃん」

「カツサンドもお肉が柔らかくて……お肉の味が濃くて……最高です!」

「美味しいものをいただくと、生きてるなぁって思うのよ……」

「わかります!」


 ふう、と休憩にひとくち水を飲むと、口いっぱいにフレッシュなレモンの香りが広がる。

 こういう一手間が、また嬉しい。

 さっぱりした口に、また美味しいひとくちを運ぶ。




「お姉さんたち、とても美味しそうに食べてくれるから、嬉しいよ」

 カウンターの中で他の客が注文したハンバーグを鉄板に置きながら、マスターと思しき初老の男性が言う。


「だって美味しいんだもん。来てよかったです」

 と、キョーコ。

「本当に!」

 と、梨花。


「ふふ。ありがとうございます。こちら、カレーライスです」

 ホールの女性が次を運んできてくれた。


 ハーフサイズにしてもらった小盛りのカレーは、肉も野菜もとろとろに溶け込んだルウがスパイスのかぐわしい香りをたてて、とっても食欲をそそる。


 ひとくち食べたキョーコが、悩ましい吐息をもらした。

「ああ……梨花ちゃん。私、カレーにはちょっとうるさいんだけど、ここのカレーは最高だわ」

「最高ですよね」

 もう、美味しさを味わうために脳の全機能が持っていかれて、語彙が最高だけになってしまう。


 ふと、キョーコの視線が梨花を通り過ぎて固定された。

 今日一番真剣な顔で、顎に手をやるキョーコ。


「ねぇ、梨花ちゃん? どうしよう。あちらのテーブルのご夫婦が食されているカキフライ、とっても美味しそうなんだけど」

「あ、キョーコさんも気づきました?」

 実はさっき梨花もチラッと見ていたのだ。

 肉厚で、そのクリーミィさを容易に想像できるビジュアルの素敵な子。


「お姉さんたちめざといねぇ。今日の牡蠣は肉厚で美味しいよ〜」

「やだマスター、そんな事言ったら」

 ちらと梨花を見るキョーコ。

 梨花は真剣な顔で頷く。

「行っちゃいましょう。カキフライ、一人前をシェアでお願いします!」




「知ってた。知ってたけど、美味しいわね……!」

「このタルタル、レシピが欲しいです」


「おっと、それは企業秘密かな〜」

 梨花の呟きに、マスターがおちゃめに乗ってくる。

 ホールの女性といい、アットホームな雰囲気が人気の秘密のひとつでもあるのだろう。

「ですよね。京都に来たら、また来ます」




「あ、今日、夜は梶田っちも一緒にご飯いけるの?」

「はい! 梶田さんも楽しみにしてくれてて」

「楽しみだね。何食べようか〜」

「あ、それなんですけど……!」

 梨花が考えていたプランを提案すると、キョーコも快諾してくれた。

「ふんふん。いいじゃない!」


 キョーコとの話がまとまったところで、コーヒーが運ばれてきた。

 ミルクピッチャーから少しミルクを注ぎ、お砂糖はスプーン一杯。

 酸味の少ないマイルドなコーヒーは、少しナッツのフレーバーが感じられて、食後のひと息にぴったりだった。


 そしてお待ちかね。

「お待たせいたしました。プリンです」


「わーい♡」

「ご褒美ですね」


 丸くない、カットされた三角の、懐かしいプリン。

 しっかりとした固さと、濃厚な卵の味わい。

 白いお皿にとろりと広がる、茶色のカラメル。

 時折コーヒーを飲みながら、その甘さを存分に味わう。




「美味しかった。ごちそうさまでした」

 と、キョーコ。

「素敵なランチタイムでした。ごちそうさまでした」

 と、梨花。


「ぜひまた来てくださいね」

 にっこりと笑う女性に、ふたりも笑い返す。

「はい、必ず!」



          ◇



 店を出てしばらく歩くと、二条城が見えて来た。

 桜の花が、ちらほらと咲き始めている。


「春だねぇ〜」

 と、キョーコ。

「私、この季節がいちばん好きです」

 と、梨花。


「うんうん。でもさ、なんでお花見って桜なんだろうね?」

「たしか……昔は、桜の木に田んぼの神様が宿るって信じられていたんですよね。春になると。だから、お酒やごちそうを用意して田んぼの神様をおもてなししたのが始まり、みたいな話。聞いたことがあります」

「へぇ〜! いまはその形だけが残ってるのね。なるほどなぁ」


「いまの時代はお花見しながら、神様について考えたりはしませんよね、あんまり」

「うん、何食べようかな、くらい」

「ですです。私も最初は、ピンとこなくて。でもその話を聞いてから、お花見の席では、桜に『いただきます』って言ってから、食べることにしたんです。気持ちだけですけど」

「へー! いいね、それ。私もそうしよっ」




「ねぇねぇ梨花ちゃん、このまま三条のほうに歩いてっても良い?」

「もちろんOKです! お買い物です?」

「うん、仙道さんに教えてもらった、雑貨屋さん巡りしたい!」

「行きましょう、行きましょう」

 

「がまぐちが欲しいんだよねー、小銭入れ」

「和柄?」

「和柄!」

「よし、可愛いの探しましょう!」

「なんかさ、修学旅行みたいで楽しいね」

 にししと笑うキョーコが可愛らしくて、梨花は胸がきゅんとなってしまった。

「私も、とっても楽しいです……!」

 



「鴨川の河川敷に座ってるカップルってさ……なんであんなに等間隔なんだろうね」


 橋の上から河川敷を眺めて、キョーコが首を傾げた。

「ベストな距離感があるんでしょうかね」

 あいにく梨花は家族で訪れた事しかないので、カップル事情はわからないけれど。


「梨花ちゃんは鴨川の思い出とかある?」

「小さい時に、食べていたパンをトンビに持って行かれたって鉄板ネタなら……」

「うそー! やばいねっ」


「あ、ここだぁ! やーん、可愛いよっ」

 お目当ての店の前で、キョーコが足を止めた。

 ちりめん生地を使った小物のお店だった。


「本当ですね……! あ、これ、キョーコさんぽい」

 梨花が手に取ったのは、がま口の小銭入れだ。

 柄は紺色に薄紫の紫陽花と、黄色みがかったベージュの猫。


「可愛いっ! 好き。これにするよ」

「即決! いいんですか? 私が選んじゃって」

「私、人に選んでもらうの好きなのよー。これを使う度にさ、選んでくれた人の事を思い出すでしょう?」

「素敵な考え方ですね。じゃあ私のも、キョーコさんに選んでほしいです!」

「よしきた! 任せて!」




「いや〜、満足〜!」

 両手に紙袋を下げて、満面の笑みを浮かべるキョーコ。

 梨花も身の回りの小物をいくつか買った。あとは、会社の先輩ーー沙月へのお土産と。


 旅先での買い物って、ウォーキング並みの運動量だと思うのは、梨花だけだろうか。

「ちょっと座って休憩します? せっかくだからお茶屋さんとか……」


「いいね! 梶田っちの待ち合わせは四条だっけ?」

「はい」

「じゃあ、京都駅とかには戻らずにこっちエリアにいたほうが良いね。四条のほうに歩きながらお店を探そうか──」

「平日とはいえ、この時期は混んでますかねぇ」


(レトロな喫茶店とかないかなぁ)


 キョロキョロと通りを見回していた梨花の目に、ヒットしたものがあった。


「あ、市場……!」


「聞いたことある! ここかぁー!」


(お麩買いたいっ! あと佃煮と湯葉と──)


 梨花の興奮が伝わったのだろうか。


「見ていく? 魚とかのナマモノじゃなければ、大丈夫じゃない? 私、持って帰るよ」

 にっこり笑って、キョーコが提案してくれた。


「じゃあ、お言葉に甘えて──!」



          ◇



 市場──商店街には専門店がたくさん集まっていて、お腹が空いていなくても、つい買い過ぎてしまいそうだ。


 海鮮はもちろん、乾き物や京野菜。

 お豆腐に湯葉にお麩……


(京都といえば生麩も……! 他の地域じゃ、お正月以外はあまり見かけないよね。これは買っておきたい……! 保冷バッグも買って、保冷剤があれば、夜までなんとかなるかな? 麩饅頭も! あ、お味噌! はっ、お漬物も買わないと!)


 素敵なものが多すぎて、目移りどころの騒ぎじゃない。

 脳内が忙しすぎて、楽しいパニックだ。


「ああ、ナマモノ買えないのが悔やまれるー!」

 梨花の心の声が漏れていたらしい。

「本当、さっきのサワラ食べたかったなー」

 と、キョーコから応答があった。


「おじさんおすすめだけあって、肉厚でしたね。サワラの押し寿司作りたくなりました」

「何それ、帰ったら作って!」

「了解です!」


 ──はっ!


 梨花の脳に天啓が降りてきた。

「き、キョーコさん、私、とんでもないことに気づいてしまいました……!」


 自らの発見の重大さに手を震わせながら、ごくり、と、生唾を飲み込む梨花。

 キョーコもつられて、真剣な顔になる。


「ナマモノは、まとめ買いしてクール便で送って貰えば良いのでは……?!」

 幸い、シェアハウスの冷蔵庫はかなり大きい。


 はっと、キョーコの顔にもひらめきが灯る。

「そうね……! さすがに家までは届けてもらえないから、営業所受け取りになるけど……! あ、じゃあ、奈良に送りなよ。私、職場の近くに営業所あるの知ってるから。そこに送ろう。梨花ちゃんの方に送っちゃうと、関東だしさ、配送料が高いでしょう?」

「なるほど……! すみません、よろしくお願いします!」


「そうと決まれば、真剣に吟味するぞー!」

「はいっ!」



 ………………

 …………



「とっっっても、楽しかったですー!」


(近くにも欲しいなぁ。こんな商店街。今度、少し足をのばして探してみよう)

 スーパーとはまた違う活気と、店主たちとのやりとりが楽しかった。


 思い切って、築地なんかも行ってみたいな。

 そう思うと同時に、ぽんっ、と、梶田の顔が思い浮かんだ。

 誰に対しての言い訳なのか──他意はないけど、と、ひとり心の中で呟く。

 そうそう、梶田さん、海鮮丼、好きって言っていたし……。


「よし! 無事魚も手配できたし、そろそろお茶にしよっか」

 キョーコの声に、意識が現実に戻ってくる。

「はっ! そうだった! お茶する場所を探していたんでした! あ、あのカフェ、良さそうじゃないですか?」


 梨花が指差したお店は、ヨーロッパの田舎にありそうなレンガ作りの可愛らしい建物だった。

 ちょうど、女性の二人客が出てきたところ。


 ツタの意匠の門扉を開けると、アプローチの左右には枕木で囲った花壇が。

 様々な植物があちこちに植えてあるように見えて、引きでみると淡く優しい色合いの花とグリーンで統一してある。


 メニューの描かれた看板をじっくりと見て、キョーコが顔を輝かせる。

「いいね……! 抹茶も良いけど、京都って美味しいケーキのあるカフェが多いイメージ」


 梨花は看板の文字を見て、はっとする。

「あ、ここ、仙道さんの作ってくれたリストでも名前みました! 読みを教えてもらったから、覚えてる!」

「間違いないじゃーん♡ いこいこ!」

 キョーコに手を引かれて、ウォールナットのドアをくぐる梨花。


 カランカランと、ドアの上で音がした。


 ──いらっしゃい


 と、おっとりとした優しげな女性の声が聞こえた。梨花の背中のほうから。


(あ、後ろに店員さんがいらっしゃったのかな?)


「ふたり──」

 

 なんですけど、と、言いかけて止まる。

 振り返った先には人のいないアプローチ、その先には閉じた門扉と賑やかな雑踏。


「あ、あれ?」




「いらっしゃいませ。何名様ですか?」

「ふたりです! お席いけますかー?」

「はい! こちらへどうぞ──」

 店の中から、ハキハキとした女性の店員とキョーコのやりとりが聞こえてくる。


「梨花ちゃん? どうかした?」

「あ、いえ──」

「2階席だって!」


「階段、気をつけてくださいね!」

「ありがとう、ございます」

 ショートヘアの店員さんの声は少し高く、よく通る声で、先ほど聞こえた声とは全然違う。


(違うお店の人の声、だったのかな?)


 きっと、そうだろう。うん。

 

「わ、見て梨花ちゃん! インテリアも素敵だよー」

 先に行くキョーコが振り返って笑う。


 2階席に続く階段の壁には可愛らしい水彩画がいくつも飾られていて、梨花の意識はすぐにそちらに持って行かれた。



          ◇



 2階には、4人掛けのテーブル席が3つ。

 テーブルセットも床材も、落ち着いた色味のウォールナットだ。

 階段と同じように、あちこちに飾られた水彩画。

 誰かの素敵なアトリエにお邪魔したような気分になる。

 梨花とキョーコは、空いていた窓際の席に腰を下ろした。


(あ、桜が──)


 梨花が開いていた窓の外に目をやると、満開の桜が見えた。


「キョーコさん、ほら、桜! とっても綺麗で──」


(あ、あれ?)


 いいかけて、口ごもる。ふつふつと湧きあがる、違和感。


 何かがおかしい。なんだろう。


(──そうだ)


 このあたりは、何度も来たことがある。


(この通りから、こんな桜の見える場所なんて、あったっけ?)


 なかった、はず。

 ましてや、眼下に広がる景色は、小さな公園とかでは、ないのだ。


 所狭しと並んだ建物の間に、ぽっかりと広い場所が空いていて、そこに桜が咲いている。


 ──しかも、満開の。


 今日ここまでに見た桜は、どこも咲き始めだったのに。


 何より、これだけのお花見スポットに、誰も花見客がいないなんて、ありえない。


 何本もの桜、その中心にあるひときわ大きな桜の木。

 たくさんの人が訪れていておかしくない光景なのに、人影は一つもない。


「きょきょきょ、キョーコさん、これって──」


 向かいに座ったキョーコを見ると、机に突っ伏して眠っている。

 いや、キョーコだけではなかった。

 他のテーブルの客たちも、同じように。


「え、えぇえ?!」

 梨花は思わず立ち上がった。


(どうしよう。どうしたら)


 自問しても、答えなど見つかるわけもなく。

 ただ不思議と、まったく怖くはないのだけれど。


 ただただ困ったなと、もう一度窓の外を見た時、あの声が聞こえた。


 ──いらっしゃい


 店に入ろうとした時に、聞こえた声だ。

 あたりを見回すけれど、あやしい人影はなく。


 ──あの子は元気?


 声は、そう続けた。


「あ、あの子、とは?」


 ──あなたの血に連なるひと


「おばあちゃん、ですかね。だとしたら、去年、亡くなりました」


 ──そう。人の子は旅立つのも早いわね。またいつか会える日を、楽しみに待ちましょう


「──は、はい」


 ──ああ、黄色いあの子にもよろしくね。こちらから、何か良いものを送っておくわ


 それっきり、声は途絶えた。


 梨花が2階を見渡し、階段のほうを見て、最後にもう一度窓に目を見やると、そこにはさっきまではなかったレースのカーテンがかかっていて、カーテンをめくり上げた向こうには──通りの裏手の建物の屋根が並ぶだけ。


 ぽかん。


 と、かたまってしまった梨花の耳に、聞き慣れた声が届いた。


「梨花ちゃん? どうしたの?」

「キョーコさん! 起きたんですね! よかったぁ」

 思わず、大きな声をあげてしまった。


 キョーコはきょとんと驚いた顔をしたあと、一拍置いてころころと笑う。

「やっだぁ! いくら私でも、シラフでカフェじゃ寝ないわよぉ」


「そ、それがっ──」


 まわりのテーブルのお客さんたちの視線が気になって、梨花は言葉をいったん飲み込んで、コホンと咳払いをした。


「それが、さっきですね──」


 ワントーン落とした声で、こそこそとキョーコに説明をする。


「……というわけで」

「桜、かぁ。私にはその記憶がないわ」

 と、キョーコ。

 来た時から窓にはカーテンがかかっていたし、桜も見ていない、と言う。


 梨花はだんだんと自信がなくなる。

「私のほうが、白昼夢をみたんでしょうか」

「いやいや、現実だよ! 私たちの住んでる家だって、慣れちゃってるけど、まるっとファンタジーだもの。その声がおばあちゃんの事を知ってたんだったら、やっぱり梨花ちゃんとは縁があったから、聞こえたんだろうね」


 きっとさ──と、キョーコは笑った。


「桜に訪れた神様の、気まぐれなんじゃない?」

「いいですね、それ。素敵な解釈です」


 ──またいつか会える日を。


 そのひとことを、梨花は大切にこころに刻んだ。


「ねぇ、梨花ちゃん。ちなみにその『黄色いあの子』ってさ、たぶん」

「大家さん、ですよね」

「大家さん、何者なんだろうね」

「か、神様の仲間なんでしょうか」

「ま、ヒヨコだろうが神様だろうが、私たちにとっては愛すべき大家さんだけどね」

「そうですね、うん」




「ご注文はお決まりですか?」

 先ほどの店員さんがオーダーをとりにきてくれた。


(あ、メニュー見てなかった!)


 梨花は慌ててメニューを開く。

「あ、ちょっと待ってください──。ちなみに、おすすめってありますか?」

「そうですねぇ、京都産和紅茶を使ったアフォガードがおすすめです」

「じゃあそれで!」

「私も!」

「かしこまりました。少々お待ちください──」



          ◇



「お待たせしました。ティーアフォガードです。紅茶は、お好みの量を注いでお召し上がりくださいね。ごゆっくりどうぞ!」


 ふたりの前に並ぶのは、バニラアイスと、小さなカップに入った濃い色の紅茶のセット。

「美味しそう♡」

「私、紅茶バージョン初めてです〜」

「さ、食べよう食べよう!」


 ゆっくりと紅茶をアイスに注ぎながら、キョーコはしみじみと言う。

「一期一会って、あるよねぇ」


 顔を上げた梨花だけれど、彼女と視線は絡まない。

 キョーコは、表面が少し溶けて紅茶と混じるバニラアイスを、じっと見ていた。

 うつむいたまつ毛が、とても長くて綺麗な影を落としていた。


「桜って、タネから実生で育てるのは難しいって言われるでしょう?」

 と、キョーコ。

 確か──と、梨花は記憶の棚を探った。

「増やすときは、接ぎ木か、挿し木をするんですよね」


「そ。それってさ、すごく人間社会ぽくない?」

「人間社会?」

「うん。親がいて、子が増えて、まわりの人がそれを支えて、それが続いていく感じ」

「なるほど。言われてみれば」

「だから桜を見ると、家族とか、大事な人を思い出すんだぁ」

「いいですね。私、好きです。そういう考え方」

 梨花が真面目な顔で言うと、キョーコは照れたように笑う。


(あ、目が合った)


「へへ。あ、あとね、私の師匠がさ、人生は桜みたいだって言ってたの。その話も好きでさ」

「人生、ですか」


 師匠とは、お仕事の、だろうか。

 キョーコは芸術に携わる仕事をしていると、話には聞いていたけれど。


「そ。育つごとに、いくつもの枝が生えて分かれるけどさ、どの枝に──どの道に進んだって、そこで花はまた咲くんだって。若葉の時期も落葉の季節も、桜はずっと生きていて、春がきたら花を咲かせて花を散らせて。ただただそれの繰り返し」


「──……」


(どの道に、進んだって)

 梨花はじっくりと、キョーコの言葉を反芻した。

 

 言葉って、いいなと思うのはこういう瞬間だ。

 本にも、言えることなのだけれど。

 会ったこともない知らない人の言葉を、誰かが届けてくれる時。

 その言葉が、すっと胸に沈み込む時。

 この世に言葉があってよかったなと、そう思うのだ。


「だから、私たちはさ、今を楽しもうねっ!」

「ふふ。そうですね。今も、楽しいです」

「私も♡」


 いっせーので、紅茶をまとったバニラアイスをスプーンですくって口に運ぶ。


「ん〜〜♡」

「濃厚さとまろやかさと……!」

「ヤバいねっ! あ、そーだ」

 急にキョーコの笑顔の種類が変わった、ように見えた。いたずらっ子のような、まるで、そう。

「アフォガードって、溺れるって意味なんでしょ? 溺れちゃうくらいハマれる相手って、なかなか出会えないから。もし出会えたら、飛び込んでみるのも一興かなと思うわけですよ〜。これは私の持論だけど〜」

 いくら鈍い梨花だって、梶田の事を言っているのだとわかる。

「溺れたいのかどうかは、まだわかりません……」

 そう言うのが精一杯だった。

「ははっ。だよね。からかってごめん。いや、真剣なんだけどね」

「まだわからないけど、そう思えたときは、頑張ります」

「うん。いいと思うよ」

 

 アフォガードを食べ終わった後、温かいコーヒーをお供にひと息つく。

 メニューブックをパラパラと見ていたキョーコが、声を上げた。

「あ、ねぇ、ここってさ、ギャラリーも兼ねてるんだって! 気に入った絵があったら買えるみたいよ」

「へぇ!」


 瞬時に浮かんだのは、階段をのぼりきったところにかけてあった小さな絵だった。あたたかい色使いに、梨花は一目で心を奪われたのだ。絵が欲しいと思ったのは、人生で初めてだった。

 その事に、何か意味がある気がして。


(あの、桜と幼い女の子の絵)


「……買おうかな。手の届くお値段だったら」

「お、いーじゃーん! 気に入ったのあった?」

「はい。──一期一会、です」



          ◇



「美味しかったです」

「ごちそうさまでした」

 キョーコと梨花が口々に伝える。


「ご来店、ありがとうございました!」

 店員の女性は、にこりと笑って梨花の手に下げられた紙袋を見た。


「絵、大事にしてあげてくださいね」

「はいっ」

「またのお越しをお待ちしております!」


 元気な店員さんの声に送り出されて、店を後にする。

 あの優しい声は、もう聞こえなかった。



          ◇



 メイン通りの歩道を縦一列に歩く。人が多すぎて、横に並んでは進みにくい。

 先を歩くキョーコが振り返った。

 

「梶田っちから連絡きた?」

「あ、さっき電車に乗ったみたいです。電車がつくのがあと15分くらいかなぁ」

 梶田からのメッセージを確認しながら、そう答える。

 

「そっか。晩ごはんにはまだ早いよねぇ」

 と、キョーコは腕の時計を見た。

 白く細い手首に、ピンクゴールドの華奢な時計がよく似合う。


「お散歩しますか?」

「うんうん。あっちに有名な神社があったよね。せっかくだから、お参りしたいなぁ」

「そっちで待ち合わせでも良いですね。梶田さんにも聞いてみます」


 ……………………

 ………………


「──入り口のところで待ち合わせで、大丈夫だそうです」

「おっけー!」

 スマホをしまって目を上げたら、目の前の店のディスプレイに目が留まった。

「あ、ここだけ寄ってもいいですか? ここの梅干しすごく美味しくて──!」

「もっちろーん♡」


 ……………………

 ………………


「あ、いました! あの、階段のところの、スーツの」

 神社の鳥居の端っこで佇んでいる、通話中の梶田を発見した。

「ほっほう。あれが、梶田っちか。お電話中の彼だね?」

 と、キョーコ。


「まだ会社の皆は仕事してる時間ですからね」

「梨花ちゃんもいつも定時じゃないもんねぇ。なのに毎日お料理ありがとうねぇ」

 と、いいながら、キョーコがハグしてくる。


 キョーコの肩のあたりに自分の顔がきて、そういえば今日はいつもより身長差があるなぁと思う梨花である。もともとキョーコは長身であることに加え、今日の足元はウェッジの厚底ソールだからか。

「お掃除も洗濯もしてもらってますし。下ごしらえは前日とか朝にしてますから、全然。それよりキョーコさん、今日けっこう歩いたけど、足大丈夫ですか?」

「だーいじょーぶ! ウエッジはヒールじゃないから! ガンガン走れる! まぁハイヒールでも走るけど、私」

「よかった。まだ少し歩きますからね」

「どんとこいっ」




 神社前の交差点まで辿り着いた。

 横断歩道の信号は、赤だ。


 通話を終えた梶田が、こちらに気づいて手を振っている。

 少し気恥ずかしい気持ちで、手を振りかえす。


 梶田の近くにいた女性の二人連れが、梨花に不躾な視線を向けたのがわかった。

 とたんになんだか恥ずかしくなり、そっとうつむき手を下ろす。


 次の瞬間。

 パン、と、背中に軽い衝撃が。


「わっ」

「梨花ちゃんに必要なのは、自信だねぇ」

 キョーコが、手のひらで梨花の背中をたたいたのだった。

 そのまま梨花の肩を抱くようにして、前を向けと言う。

「ほれみろ、いま梶田っちを笑顔にしてるのは、梨花ちゃんだからね」

 

 にこにこと、もう一度手をふる梶田。


(そうだ。私が気にしなきゃいけないのは、知らない人の視線じゃなくて、この先も縁をつないでいたい人たちの気持ちなんだ) 


 あたらしく知り合えた大切な友人たちに、恥じることのないよう、自分からうつむくのはやめにしよう。


 信号が青に変わる。

 人波が動き出す。


 梨花の心も、少しずつ動き出していた。



          ◇



「梶田さん! お疲れ様です。こちら、元・同居人のキョーコさん。キョーコさん、梶田さんです」

 と、梨花。


「はじめまして! 奈辻なつじキョーコです! 梨花ちゃんの姉のようなものだと思っていただければ!」

「あ、お話は伺っております。梶田翔太です。梨花さんの同僚です。よろしくお願いします」

 お互いに笑顔で自己紹介をする、ふたりである。


(ふわぁ……美し)


 美男美女の対面に、凡人は一歩引いたところで眺めていたくなる気持ちになる。

 しかしそんなことをしたら双方に気を遣わせてしまうので、梨花は頑張って踏みとどまった。


「今日は女子会に混じらせてもらって、どうもすみません。奈辻さんは奈良の方なんですよね? 神奈川と奈良じゃなかなか会えないし、積もる話もあったんじゃないですか?」

 と、梶田。


 梨花とキョーコは顔を見合わせた。

 毎日同じ家に帰っていますだなんて、言えるわけもなく。


 にゃははと笑って切り出したのは、キョーコだった。

「全然ですー! シェアハウスのメンバーとは、しょっちゅうリモート飲み会やってるんで! 最近よくお話しを聞く梶田さんにも、会ってみたかったし!」

「光栄だな。ありがとうございます」


 とくに疑われてはいないようだ。

 キョーコの機転に感謝しつつも、なんだか梶田を騙しているような気分が拭えず、申し訳ない気持ちがつのる。

 

(いつか、全てを話せる日が来たりするのかな)


 梶田なら、突拍子もない話も、真剣に聞いてくれそうだなと思うのだけれど。


 信頼を寄せれば寄せるほど、黙っていることも、それをいつか話した時の彼の反応も、想像するだけ怖くなっていく。



          ◇



「こっちの枝垂れ桜は、他の桜よりも少しだけ早いですね」

 ひときわ人々の視線を集める一本の桜の前で、梨花たちもまた足を止めた。

「ほんと、見頃だね〜!」

「うん。来てよかった。今日は、いろいろ観光できましたか?」

 と、梶田。

「はいっ」

「美味しいお魚も送ったよね〜! 梶田さんも月曜日のお弁当に期待ですよ」

「それは楽しみだな」

「ねー、梨花ちゃん」

 にししと笑うキョーコに、「がんばります」と照れを隠して真面目に返す。

 再び歩き出した時、遠くの方に探していた建物が見えた。

 梨花はとっさにふたりを振り向く。


「あっ、そうだ、私ちょっと……そう、お手洗いに! ちょっと待っててくださいっ」

  


          ◇



「はーい。いってらっしゃい〜。…………嘘つけないですよねぇ。梨花ちゃんって」

 手を振って見送った後、キョーコは呟く。

「お守りか何か、買いに行きましたね、あれは」

 そう答える梶田の目は、楽しそうに細くなる。


「誰へのお土産だろ。五味くんかな?」

 なんて、少しくらい発破をかけても許されるだろう。

 ちらりと隣をみると、わかりやすく目を開いた梶田が。


「五味さんって──デザイナー志望っていう──」


 にっこりと笑って頷くキョーコ。

「シェアハウスメンバーの中で、関東勢は梨花ちゃんと五味くんだけなんです」

「そうですか。あの、ふたりはもしかしてお付き合いされていたりとかそういう」

 キョーコはその問いには答えずに、一歩、梶田に近づいた。

「梶田さんって──好きな子の前では態度が変わるタイプですよね」 


「いや……はは。バレバレですか」

「私と同類だからわかります」

 キョーコはひらひらと手を振って、一歩下がった。


「からかってごめんなさい。五味君はただのお友達ですよ。でも彼にとっても、梨花ちゃんは大切な友人だから。泣かせたりしたら、殴りに行く、かも?」

「なるほど。肝に銘じます。……キョーコさんにとっては──」

「友人です。そして妹分。大切な、ね」

 にっこりと笑って、キョーコは言った。




「──お待たせしました!」

 息を切らせた梨花が戻ってきた。


「おかえり〜!」

「お話の途中でしたか?」

「うん、好きなものの話してたよー」

「へぇ、食べ物です?」

「ううん、り──」

「ちょ、キョーコさ」

「──リモート飲み会、かなり楽しいですよって♡」

「そ、そうなんです。僕もやってみたいなぁーなんて」



          ◇



 ひととおりお参りして神社を後にしたところで、梶田が時計を見て言った。


「あ、そろそろお店も開きますかね」


「じゃあ向かいましょうか」

 と、梨花。

「行こう行こう! ここから10分くらいだっけ?」

 と、キョーコ。

「ですです」

 梨花はスマホで地図を確認して、頷いた。


 仙道から教えてもらった、目的のお店までのルートをもう一度確認しながら、梨花はふと、もの思いにふける。


(初めてのお店に、初めてのメンバーと訪れる夜、かぁ)

 

 うん、ちゃんと楽しみだ。

 数ヶ月前の梨花だったら、きっと緊張で楽しめなかったであろうシチュエーション。思いがけぬふうに、人は変わるのだなと、実感する。


「あ、ここ曲がります」

 石畳の小径に入り込んだ。

「この道幅の狭さが良いよね〜、昔ながらの街って感じ」

 きょろきょろとしていたキョーコが、ふと立ち止まって指差した。

「あ、これ、京都っぽいよね。なんだっけ、名前」

 建物の壁に設置された、竹で出来た曲がった柵のようなもの。

 ああ、これはたしか──


「犬矢来、ですか」

「いぬやらい」


「犬避けとか、あと雨宿りはご遠慮くださいって意味もあるみたいですよ」

「へー! なるほどね、そういう含みが」

 と、キョーコ。

「や、雨宿りは知らなかったな。言われないと気づかないな」

 と、梶田もなんだか感心している。


 そうこうしている間に、写真で見た店構えが見えてきた。

「あ、ここです」

 おおー、と、キョーコが喜ぶ。

「いい感じの町屋だね♡」


「ですよね! お昼に予約の電話はしておいたので」

「さすが、嘉洋さん。ありがとうございます」

「いえいえ」

 敷地の入り口から玄関へと、じゃり敷きの小径に点在する飛び石を踏みながら進む。


 いつのまにか、日が落ちて薄暗くなってきた。


 玄関をぼんやりと照らすオレンジ色の灯り。年季の入った上がりがまちが、それを映してつやつやと光る。


「おこしやす──」

 奥からひょいと出てきたベテランふうの仲居さんが、柔らかな笑顔で迎えてくれる。


「嘉洋です」

「はぁい。嘉洋さまですね。お席のご用意しております──」

 靴を脱いであがる。床板がギシ、と音を立てた。

「お履き物はそのままでけっこうでございます。お二階へどうぞ──」


 玄関と同じく年季の入った木の階段を登り切ると、正面へ廊下が続き左右には個室の襖が並んでいた。

 

「こちらのお部屋です──」


 すぅっと、音もなく襖が引かれた。

 案内された和室に一歩入って、三人は声をあげる。


「わぁっ」

「雰囲気ある〜」

「いいですね」

 

 畳の部屋の真ん中には広い円卓。その下は掘り炬燵になっている。

 卓の真ん中にはガスのホースが通り、卓上のコンロにつながっている。


 部屋の奥には障子、その先には広縁が。

 そこに梨花が目を留めた時、偶然にもキョーコが疑問を発した。


「ねーえ、旅館とかにもあるけどさ、この縁側みたいなスペースってなんて言うの?」


「ひろえん、ですかね」


 梨花が答えると、仲居さんが準備の手は止めずにこちらを見た。

「お客さん、お若いのによぉ知ってはりますねぇ──」

「えへへ。それほどでも。おばあちゃんに教わりました」

「ええですなぁ。──これからお料理を運びますさかい、どうぞ外の景色でも見とおてくださいね──」

「はいっ」




 荷物を置いて、いそいそと広縁に足を向ける梨花。

「ふっふっふ。2階席にしたのには意味がありまして。運が良ければ、窓から舞妓さんの道ゆく姿が見られるんですっ」

「やだ素敵♡」

「おー、風情がありますね」


 窓を少し開け、京都の風を感じながら、三人並んで外を見る。


「次は舞妓体験とかしたいよね! 梨花ちゃん絶対似合うよ」

「絶対似合いますよね」

 キョーコがそんな事を言い、梶田まで同意する。


「似合うかはわかりませんが──! 確かに、ちょっと楽しそう、です」

 知らない世界を見てみたい。

 そんな欲が、最近はふつふつと湧いてくる。



          ◇



「お待たせいたしました──」


 仲居さんが流れるように運び込む大きなお盆の上には、卵、お野菜、そしてお肉……!


「わぁい♡」

 キョーコの目が輝く。


「いや、実は移動が多くてお昼食べ損ねて。お腹空きました」

 梶田も嬉しそうだ。


「楽しみですねっ」

 梨花も、そそと席に着く。


「最初は、こちらで焼いていきますので──。よかったら、卵を溶いてお待ちくださいね──」


 言われたとおり、卵を割ってかきまぜる。

 梨花は、ゆるく混ぜる程度で止めるのが好きだ。


 仲居さんが慣れた手さばきで、熱した鉄鍋にザラメを入れる。

 そして大きなお肉を3枚、鍋に並べた。


「みなさんご観光ですか──?」


「はいっ! ここふたりは神奈川で」

「私は奈良から〜」


「京都で待ち合わせ、ええですねぇ。──関西には神戸牛、近江牛と美味しいお肉はありますけど、京都のお肉も美味しいですからね──」


 仲居さんの言葉に、ごくりと唾を飲む。

 うん。とっても美味しそう。

「楽しみですっ」


 ロースだろうか。サシの入った、立派なお肉。

 ジューっという音と、和牛の脂の美味しい匂いがたちのぼる。

 梨花の期待値に反応するように、小さく小さくお腹が鳴った。

 小さすぎて、お肉に夢中のふたりには聞こえていない……はずだ。


「焼き過ぎると、なりますさかいに、軽う焼くくらいで──」

 

 サッと肉を裏返し、まだピンク色が残るくらいで割下を少し入れる。

 さらにジューッと言う強い音と、ますます食欲に訴える甘じょっぱい匂い。

 割下にお肉を絡めるように焼いて──


「これくらいでどおですか?」

「完璧ですっ」

 食い気味に言ってしまった。恥ずかしい。


「ふふ。えぇお顔してくれはるわぁ。はい、どうぞ──」


 と、一枚ずつ、お皿にサーブしてくれる。


「まず最初は、お肉だけで、味わってくださいね──」


 そう言って鉄鍋に割下を追加し、野菜やお豆腐を入れていく仲居さん。


 そのかたわら──

「いただきます!」

 子供のように、3人の声がそろう。


 まずは、ひとくち。


 大きなお肉を箸で持ち上げて、かぶりつく。


 絡んだ卵のとろりとしたまろやかさと、お肉にしっかりと染みたザラメと割下のお味。


 うん。

 タイムリープして、この食べ方を発見した人にお礼をいいたい。


「ん〜〜♡」


「やばい、噛まなくてもトロけるっ!」


「サシがしっかりしてるのに、脂がしつこくないですね。脂そのものが上品に甘い。肉の旨みもガツンとくる」


「梶田さん、食レポできるよね」 

「思いました。さすが営業の星」

「星て。ウケる。似合う」

 キョーコが涙を浮かべて笑う。

「やめてください……同期が面白がって広めたんですよ、それ……」

「でも本当、コミュ力高いです。尊敬してます」

「ありがとうございます……」


「はい、あとはお好きなタイミングでお肉を入れてくださいねぇ──」

 そう言って、仲居さんは空いたお盆を持って下がった。




「いやー、さすが仙道さん。いいお店知ってるわぁ♡」

「あ、仙道さんも同じシェアハウスにいた人で──」

「へぇ。いつか会ってみたいですね。いまはどちらに?」

「神戸らしいです」

「今日はお仕事入っちゃってたんだよねー。中華街も行きたいわぁ」

 ふむ。

「キョーコさん、中華は何が好きです?」

「小籠包♡」

「よし、今度作ってみます」

「やったー!」




 窓から入る涼しい風が、すき焼きで熱った頬に気持ちいい。

 梶田とキョーコがいてくれてよかった。

 好きな人と、好きな人と、美味しいもの。

 おかげで、すき焼きの夜はとっても楽しい。


(ん? 好きな人?)


 自分の心の中の独白に、思わずつっこみを入れてしまった。


(ち、ちがうの、どっちも大好きな友人っていうあれで──)


「……は、どっちが好きですか?」


「ふぇっ?」


 梶田の真面目な顔とセリフに、梨花の喉から変な声がでた。


 ああだめだ、妄想の中にとんでしまうと、人の話を聞かなくなる、悪い癖。

 仕事中は気をつけているのだけれど、今日は楽しくて気を抜きすぎた。


 キョーコが、もう一度説明してくれる。

「たまねぎ。シャキッと残る感じか、くたくた染み染みか、どっちが好き? って」


 なんだ。玉ねぎの話か。

「あ、ああ──くたくた派です」

「だよねぇ♡」

「梨花さんもかぁ。3人、意見が揃いましたね」

「じゃあ、もうちょっと煮よう。そして、その間にお肉入れよーう♡」


 ……………………

 ………………


「ご飯と香の物、お持ちしました──」


 と、仲居さんがおひつに入ったお米と、お漬物を運んできてくれた。


「あと水物がありますのでね。良いときにおっしゃってくださいね」


「はーい!」

 もはや幼稚園児のような受け答えしか出てこない。

 やはり美味しい物を前にすると、語彙がなくなる梨花である。


 美味しいお肉、しみしみのお野菜、しらたき、とうふ、それらを優しくつつみこむ卵。

 そして何にでも合うご飯と、濃くなった口をさっぱりの国へと誘ってくれるお漬物。


 ああ、幸せだ。


 しかし梨花には、まだ大事なミッションが残っている。

 それを、ふたりに伝えねば。


「みなさん。すき焼きの〆といえばなんでしょうか?」


「んー? うちはうどん入れてたなぁ」

 と、キョーコ。

「わが家は最初からご飯と一緒に食べちゃってたんで、〆とか無かったなぁ」

 と、梶田。


「うどんも美味しい。最初からご飯も良き。でも、今日はこれで〆てほしいですっ」


 と、梨花はおひつからご飯をおかわりした。

 少なめに、一杯目の半分くらい。


 そしてそこに──。


 お肉と野菜の旨み、そして割下の味がたっぷり溶けこんだ、溶き卵をかけるのだ。

 

「すき焼き卵かけご飯ですっ」


「梨花ちゃんっ……」

「天才ですか」

「え、何でいままでしなかったんだろ」

「今です。やりましょう」


 梨花の真似をしてくれるキョーコと梶田を、見守りながら満足な気分に浸る。

 美味しいものは、皆と共有して味わったら、もっと美味しいのだ。


 考え事は棚に上げて、いまはただ、舌鼓をうとうじゃないか。





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