第64話 交代


 下から感嘆の声やカップルたちのいちゃつく声が聞える中、武蔵くんと蛍先輩はほっこりする間もなく走り回っていた。ボクたちライト担当も休む暇なく星の位置がズレていないか、ライトは熱くなっていないかと確認し続ける。


 ボクよりも星に対して熱意がある天文部の面々は、それはもう必死に微調整を繰り返していた。ライトは重たいからあまりズレないかと思いきや、精巧な星空にしたがゆえに、微妙な振動でズレたものが気になって仕方がないらしい。



「聖夜くん、ライト交代。そっちズレてる」


「すみません。お願いします」


「はーい。雑巾は絞ってあるから、そっちの交換お願いね」



 ライトは重たくて片手では細かく操作ができないし、雑巾も片手では絞れない。ボクはすっかり昴先輩に迷惑を掛けてしまっていた。とはいえバケツを運ぶこともできないし、全くの役立たずにならないだけマシなのかもしれない。



「聖夜、バケツ交換するな。雑巾も今の内に絞っとくから」


「すみません、ありがとうございます」


「気にすんな」



 蛍先輩もバケツの交換に来るたびに雑巾を絞ってくれて、迷惑ばかりかけてしまっている。ボクももっと何かしたい。だけど、この右手ではどうすることもできなくて落ち込んだ。



 武蔵くんと蛍先輩がバケツを持って何往復しただろうか。下にいる生徒たちも大分疎らになってきた。しばらくの間写真撮影をして賑わっていたけれど、それも終わればこんなものだろう。


 とはいえ、見に来る生徒が少なくなったからと言ってボクたちが手を休められるわけではない。武蔵くんと蛍先輩は走り回っているし、ボクたちも作業を続ける。



「これをあと1時間続けるのか……」



 昴先輩がつい漏らしたぼやき。ボクは励まそうとしたけれど、昴先輩の負担を増やしているのは明らかにボクだ。何も言葉が出なくて、ただ黙ってライトの上の雑巾を代えた。



「おぉ。凄いね。良い感じじゃん!」



 下から聞き馴染みのある声が聞えて、昴先輩と揃って下を覗き込んだ。するとそこにはレオ先輩が立っていた。他に生徒はいない。少し肩の力が抜ける。



「あははっ! お疲れ様! みんなありがとう!」


「レオ先輩、生徒会は?」



 反対側でボクたちと同じように下を覗き込んでいた秋兎くんが声を張ると、レオ先輩はそれにブイサインで返した。



「ある程度片付けて来たよ。ここからは後半組に交代。だから俺もこっちを手伝えるってわけ」


「粋くんは?」



 今度はリオ先輩が聞くと、レオ先輩は肩を竦めた。



「シフト交代した瞬間に集団に誘拐されてっちゃったよ。なんか訳ありみたいで、先に行けって言われたから先に来たんだよね。でも多分あれだよ、聖夜に怪我させた人たち。なんか深刻そうな顔してたし、謝罪でもしたいんじゃない?」



 一気に不安感に襲われる。粋先輩のことだから心配はいらないと思うけれど、万が一のことがあったらと思うと気が気ではない。あの一件の後からしばらくの謹慎処分が言い渡された彼らは、今週の頭にようやく登校を再開した。今日まで接触はなかったのに、今更どうして。



「聖夜。大丈夫だ」


「武蔵くん?」



 いつの間にかボクの隣に立っていた武蔵くんがボクの肩にそっと手を置いた。向こうの担当のはずなのに、きっとボクの気持ちを察して来てくれたんだろう。蛍先輩は向こうにいるし、また気を遣わせてしまった。



「あいつら謹慎明けたばっかだし、流石に凝りてるはずだから。それに会長のことがマジで好きなら、もう会長に嫌われるようなことはしないだろ」


「そうそう」



 武蔵くんとは反対の肩にポンッと手が置かれた。昴先輩はニッとボクを安心させるように笑ってくれた。そしてどこか遠くに視線を送ると、何かを思い出したのか顔を隠して笑い始めた。


 不思議に思いつつも見守っていると、しばらくしてようやく笑いが収まった昴先輩は涙で濡れた目尻を拭った。



「ごめんごめん。いや、あの日さ、生徒指導室に入って来た粋はすっごいにこやかに笑ってたんだよ。話を聞くにつれてどんどん笑顔になってさ、同時に背負ってる闇の量が増してるのが見えた気がしたんだよね」



 昴先輩は楽し気に話すけれど、笑って聞ける話ではない。それに粋先輩が闇を背負っている姿か。粋先輩はボクの前で怒ったことがないから想像はしづらい。



「本当に聖夜くんのこと好きなんだなぁってほっこりもしたんだけど」



 そこでほっこりできる昴先輩のメンタルが凄い。



「粋があの人たちに対してあり得ないくらいにこやかに笑って、相手の大切なものを大切にできないなんて、哀れですねって言ったんだよ」


「それは……」



 普通に怖い。ゾクッとする。普段色気とか大人っぽさとか、そういう怖さ以外の怖さは見せない人だからこそ怖い。それに笑って言うところも怖い。



「オレが言われたわけじゃないのにさ、もう背筋が凍るかと思ったよ」



 昴先輩はあっけらかんと笑う。ボクには昴先輩もなかなか怖いと思う。



「会長が本気でキレたなら聖夜は安全だな」


「だけど、粋先輩は大丈夫かな?」


「大丈夫だろ。会長強いし」



 武蔵くんはこともなさげにそう言うと、安心したようにグイッと1つ伸びをした。



「初めて知った……」


「多分だけどな。負ける気はしないけど、会長の身のこなしをみれば簡単には勝てない相手だって分かる」



 武蔵くんは自分から喧嘩を仕掛けたりはしないけれど、喧嘩経験は豊富だ。喧嘩では誰にも負けたことがない武蔵くんが言うのなら間違いはなさそうだ。


 とはいえ不意を突かれて怪我をしてしまう、なんてことも。と考えたけれど、粋先輩なら冷静に対処してしまうだろう。粋先輩が冷静さを失うのは家族の話題の時だけ。そういう強くて優しい人だから。



「ま、安心して良いからな。とりあえずこの仕事をきっちりやって待ってようぜ」


「そうだね」



 武蔵くんはまたボクの頭を軽く撫でる。子ども扱いされているようにも見えるけれど、きちんと恋人扱いしてくれているがゆえの行動だと分かっている。分かっているから気恥ずかしくて顔が赤くなっちゃうんだけど。



「じゃ、雑巾絞っておくから」


「ごめんね、ありがとう」


「気にするな。ちゃんと安静にして、治ったら手を繋ごうな?」



 武蔵くんは雑巾を絞りながらサラッと言うけれど、ボクとしては気恥ずかしくて堪らない。昴先輩も少し頬を赤くしている。


 そんなボクたちに気が付くことなく、武蔵くんは手を振りながら去って行った。


 きっと武蔵くんはなんでもない顔でバケツに水を汲んでいる頃だろうけど、ボクと昴先輩との間には何とも言い難い空気が流れてしまって気まずい。



「なんか、すみません」


「いや、うん。ちょっとびっくりしたけど、武蔵くんってああいう人だよね」



 昴先輩はさっきの武蔵くんを思い出す素振りを見せた。そしてどこがツボだったのかは分からないけれど、また肩を震わせて笑い出す。それを見ていたら、ボクも少しずついつもの調子に戻れた。


 他の生徒が誰もいない満点の星空の下。体育館だけど、それを忘れるほどの精度の高さ。それらを時々ぼんやりと眺めながら手を動かしていると、急にガラガラッとドアが開いてあの人たちが入って来た。


 一瞬にして身体が凍り付いたみたいに動かなかくなる。呼吸がしづらい。胃が痛い。ふらつきそうになる足をなんとか踏ん張って耐えると、彼らの後ろから粋先輩が顔を覗かせた。



「みんな、お疲れ様。ここからはちょっと休憩にしよう」



 粋先輩の言葉の意味が分からなくてポカンとしていると、その間に彼らがボクたちの方に向かって来ていた。


 逃げたい。だけど足が竦んで動けない。



「彼らがしばらく仕事を代わってくれるから、庶務係はその間好きに過ごしていて良いよ」



 満面の笑みを浮かべる粋先輩とは対照的に、彼らの顔は悟ったような顔をしていた。何があったのか、想像したくもない。



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