第52話 君がため


 何とか6限まで受け終えて、ぐちゃぐちゃすぎて見るに堪えないノートを眺めながらため息を吐いた。



「セイーって、暗っ!」


「どうしたの? ……ああ」



 前の席に座っていた2人は、あまりにもどんよりしているボクに驚いたようだったけど、ノートを覗き込んで納得したらしい。星ちゃんは前のページと今日書いたページを比較しながらケラケラ笑っている。



「いくら器用なセイでも無理だったかぁ」


「うーん。菜箸は左でも器用に使えるんだけど、ペンは無理だった」



 星ちゃんがニヤニヤしながら頬をツンツンとつついてくる。それを受け入れていると、月ちゃんは星ちゃんを抑えながら苦笑いを浮かべた。



「菜箸使える時点で十分器用だよ。それで? お姉さんには連絡ついたの?」


「うん。夕凪姉ちゃんが部活ないからそのまま迎えに来てくれるって」


「そっか。良かったね。無理しちゃダメだからね?」



 月ちゃんは心配そうに頭を撫でてくれる。優しい手つきに気分が浮上した。甘やかされているみたいで気恥ずかしいけれど温かい気持ちになる。



「分かってる。ありがとう」


「ノートは明日、私がコピーして持ってきてあげる。私のノートは見やすいからなあ」



 星ちゃんはふふんっと自慢げに胸を張る。おちゃらけるようにしてボクが気を遣わなくても良いようにしてくれるその気遣いが温かい。



「2人とも、本当にありがとう」


「良いってことよ」


「友達でしょ?」



 両側から頭をめちゃくちゃに撫でられる。きっと今はすごい髪型になってしまっているんだろうなと予想しただけで笑えてくる。本当に、最高の友達を持った。



「もぉ、絶対ぐちゃぐちゃになったでしょ」


「大丈夫だよ、可愛いから」


「そうそう。あ、せっかくなら猫耳作っちゃおうよ」



 何が大丈夫なのかよく分からない月ちゃんの答えに苦笑していると、その間に星ちゃんの細い指がボクの髪を軽く梳いてゴムで縛る。楽しそうだし良いかなと諦めてされるがままになっていると、星ちゃんの手は思っていたよりも早く離れていった。



「おぉ」


「めっかわじゃない?」


「ねえ、どうなってるの?」



 すごく盛り上がっている2人に聞くと、星ちゃんがパシャリと1枚写真を撮って見せてくれた。


 こげ茶のあまり綺麗とは言えない髪色とふわふわしたくせ毛。その中にちょこんと、確かに猫耳っぽく髪が盛り上がっている。



「すご」


「ま、私にかかればこんなもんよ」



 星ちゃんはニッと笑ってブイサインをクイクイッと曲げた。



「ふふっ、可愛らしいネコさん? ご主人様のお迎えですよ?」



 月ちゃんは何やら楽し気に笑うとスッと手のひらを動かして、ボクの視線をドアの方に促した。



「す、粋先輩! 武蔵くん!」



 つい大きい声が出てしまって、クラスの人たちの視線が一斉に粋先輩と武蔵くんに向けられた。粋先輩が微笑めば女子から黄色い悲鳴が上がって、武蔵くんが視線を向ければヒッと息を飲む。分かりやすい反応をする面々にムッとする気持ちを抑えて2人に駆け寄った。



「2人とも、どうしたんですか?」


「迎えに来たんですよ。それにしても、可愛らしいネコさんですね?」



 粋先輩がまた微笑むと、後ろにいた女子が悲鳴を上げた。べつに君に微笑んだわけじゃない。ボクのための微笑みなんだけど。



「あ、あの、あ、ありがとうございます。すぐに荷物を取ってきますね」



 褒められて嬉しいけど気恥ずかしい。とにかく2人を早くクラスメイトの目が届かないところに。そう思って急いで身体の向きを変えてリュックを取りに行こうとしたけれど、グイッと力強く左手を引かれてよろめいた。身体が強張って、背筋が冷える。



「わっ」


「っと、悪い。力加減間違えた」


「武蔵くん……っ、だ、大丈夫だよ。受け止めてくれてありがとう」



 よろけた身体はそのまま武蔵くんの胸にポスッと収まった。逞しい腕が腰に回されてドキッとする。あの一瞬は怖いと思っていたはずなのに、相手が武蔵くんだと分かると安心した。なんなら心配そうに覗き込んでくるその整った顔立ちに見惚れてしまって、慌てて普通を取り繕った。



「いや、ごめん。怪我、痛んでないか?」


「うん。大丈夫だよ」


「そうか、良かった。荷物取ってくるから会長といろよ? 可愛らしいネコさん?」



 武蔵くんは笑いを堪えたような、それでいて甘い顔をしてボクの頭をポンッと撫でるとスタスタとボクの席に向かっていく。その大きな背中にドキドキする心臓を抑えていると、粋先輩がスルッと腰に手を回してきてあっさり引き寄せられた。



「武蔵くんにばっかりドキドキしてないでくださいよ」


「今も十分心臓が爆発しそうです……」


「ふふっ、それは良かったです。はぁ、可愛い」



 耳元でその色気たっぷりの声で囁かれたら、誰だってドキドキしてしまう。それに身体もぴったりとくっついているし。可愛いなんて囁かれ続けて、もう顔が熱い。


 付き合ってすぐの頃は怖いと思ってしまった距離感も今は怖くない。もちろん心臓が持たないという意味ではまだまだ怖いけど。この手が粋先輩だと、武蔵くんだと分かっていると安心して受け入れられる。つまりは突然じゃなきゃ大丈夫。



「そうだ、お姉さんが来てくれるの?」


「はい」


「そっか。もし良いって言ってもらえるなら僕が駅まで荷物を持つからね」


「ありがとうございます」



 ここは素直に頼らせてもらおうと決めてお礼を言うと、粋先輩は嬉しそうに笑ってくれた。自分が頼るときには不安になってしまうけど、ボクだって粋先輩と武蔵くんに頼られたら嬉しい。



「なあ、もしかして吉良の怪我ってさ」


「ああ、それしかないだろ」



 ふいに耳に入った言葉に嫌な予感がして教室内に視線を向けると、ここからボクの席までの間に武蔵くん以外の人がいない。みんなあからさまに武蔵くんを避けていて、一部の人はひそひそと話をしている。


 悔しくて、悲しくて、ついグッと手に力を入れてしまった。



「いっ……」



 小さく声が漏れてしまったけれど、粋先輩には気が付かれていないようだった。



「鬼頭がやったからその贖罪として世話してるってところか」


「ボッチ同士よく一緒にいたからな。揉めたんだろ」


「こんなことに付き合わされる会長も可哀そうにね」



 好き勝手なことを言う人たちに言い返したくて、だけどどう言えば良いのか分からない。武蔵くんはいつも守ってくれるから、ボクだって守りたいのに。


 武蔵くんは無表情でボクのリュックを手にこっちに戻ってくる。ボクには分かる。武蔵くんはこの状況に傷ついている。自分の気持ちを無視することで耐えようとしている。


 武蔵くんの向こうに立つ月ちゃんと星ちゃんも何か言いたげだけど、2人もボクも、このクラスで発言権なんて持っていない。ハブられている人間なんて、そんなものだ。



「武蔵くん、ごめんね。僕が悪いのに手伝ってもらっちゃって」


「は?」



 突然粋先輩が大きな良く通る声で武蔵くんに声を掛ける。武蔵くんは足を止めると、困惑した表情でただ粋先輩をジッと見つめた。



「だってそうでしょ? 聖夜くんは僕のせいで怪我をしたのに、武蔵くんに持ってもらっちゃって。ごめんね?」


「いや、会長は悪くないだろ。聖夜が怪我したのはあいつらのせいだし……」


「でも、彼らの暴走を止められなかったのは僕だから」



 きっぱりと言い切った粋先輩に教室中の視線が集まる。


 ようやく分かった、粋先輩が何をしようとしているのか。自分のせいにして、武蔵くんを守ろうとしている。


 そんなのダメだよ。粋先輩は悪くない。粋先輩が高校生になって一から築き上げてきたものが壊れちゃう。それが粋先輩にとってどれだけ大切でかけがえのないものなのか、そんなの想像しなくたって分かる。



「……がうっ、違うっ!」



 ボクはただ叫んだ。



「粋先輩も、武蔵くんも、悪くなんかないっ、ボクが、ボクが……」



 言葉が続かない。涙だけが溢れて、どうしようもない。


 自分の無力さが情けなくて膝の力が抜けてしまう。床の木目に大きな水溜りができる。そこに薄っすら映るボクの顔はどうしようもなく醜い。



「聖夜くんだって悪くないですよ」


「そうだぞ。今朝も言っただろ。聖夜も悪くない。会長も。悪くねぇから」



 両側から回された腕が温かい。



「ごめん、ごめんね……」



 譫言みたいにそれしか言えないボクを、2人は強く抱きしめてくれる。



「ああ、もう。誰も悪くないんですよね? 朝そう言い合ってたじゃないですか」



 頭上から降ってきた声に顔を上げると、月ちゃんが仁王立ちしていた。



「誰かが罪を被る必要もないでしょう?」


「そうそう。本当に、お互いのことしか見えてないですよね」



 星ちゃんは月ちゃんの肩に腕を回すと、ニシシッと笑った。



「悪いのはあいつら。会長も鬼頭くんも、ちゃんとセイのこと守ったんだから。ま、それは私たちもらしいですけど?」



 星ちゃんのおどけた声は教室中に響いた。男子高生3人が団子のように抱き合っているなんて異様な光景だ。2人はその光景を好奇の目で見る人たちからボクたちを守るように立ちはだかってくれた。



「3人とも早く行かなくて良いんですか?」


「セイ、そろそろお姉さん来るんじゃない?」



 月ちゃんと星ちゃんはボクたちに手を差し伸べてくれた。ボクが2人の手を借りて立ち上がると、後から立った粋先輩がボクを支えるように腰に手を回した。



「2人とも、ありがとう」


「良いってことよ」


「そうそう。どうせクラスに居場所なんてないし。失うものなんてないんだから」



 自虐的に笑った月ちゃんはひらひらと手を振る。星ちゃんもケラケラ笑いながら手を振った。



「セイ、また明日ね」


「会長さんと鬼頭くんもまたでーす!」


「うん、また明日ね」



 まだ溢れそうな涙は飲み込んで、ボクも2人に手を振り返す。粋先輩と武蔵くんと、周りの視線と声を完全に無視して昇降口に向かった。


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