第41話 水族館にやって来た


 チケット代を奢ろうとしてくる粋先輩を説き伏せてそれぞれチケットを買う。受付を抜けて水族館の中に入ると、館内は暖房が効いていて温かい。冬本番を前にしたデートスポットの中では快適なスポット上位に入るだろう。これは良い。


 入ってすぐの太陽の光を集めるガラス張りのホールからエスカレーターを下りると、次第に周りが薄暗くなって青白い光に包まれる。視界が開けると、目の前に大きな水槽が待ち構えていた。


 圧巻されたままエスカレーターを降りると、吸い寄せられるように水槽の近くに向かう。こんなに大きな水槽だったっけ。



「おっきい」


「ね。すごいですね」


「イワシの群れですかね、ぐるぐる回って、目が回らないんですかね」


「本能ってすごいですよね。僕はうっかり違う方に進まないのか気になりますね」



 大きな水槽の中心に渦巻く小魚の群れ。同じものを見ても違う感想が出てくるから面白い。もし武蔵くんも一緒に来ていたら、なんて言うかな。


 急に渦が揺らぐように広がって、それをかき分けるように大きな影が現れる。周りのお客さんからも歓声が上がるその姿はこの水槽の王者らしく堂々として見える。



「あ、先輩! いましたよ、ハンマーヘッドシャーク! おっきいですね!」


「そうですね。聖夜くん2人分くらいですかね?」



 イワシの群れの中や周りを泳ぐ数体のハンマーヘッドシャークを目で追いながら、その大きさをイメージしようと考える。



「……武蔵くん2人分の方が近くないですか?」


「武蔵くん、大きいですからね」



 暗がりの中でふわりと笑う粋先輩に目を奪われる。水に反射して揺らぐライトが幻想的に粋先輩まで照らすから、変に緊張する。



「すごいですね、頭の両端に目があるんですか」



 吸い寄せられるように水槽に近づいて行った粋先輩の背中を追いかける。無駄にキラキラしてボクを戸惑わせるくせに、本人は無邪気に楽しんでいるからたちが悪い。


 とはいえ、ボクもいつも図鑑で見ていただけの存在が目の前にいるとなればテンションが上がる。小さいころにサンタさんにもらった魚図鑑は今でも大切にしているものの1つだ。水族館に行きたいとはなかなか言えなかったけれど、図鑑を開けばたくさんの魚に出会えたから。



「視界広そう……っと、あった。えっと、通常のサメの視覚は10度だがハンマーヘッドシャークの場合は、最大で50度の立体視角を持っている。左右の眼と鼻の穴が大きく離れているために、視覚や嗅覚がより広範囲の情報をとらえることができる」


「何を読んでいるんですか?」


「ひゃっ」



 粋先輩がボクの肩に顎を載せて覗き込んで来る。息が耳にかかって擽ったい。



「こ、これです」


「解説ですか。えっと? T字形の頭のところには、生物電流を感知する器官が多く

集まっているため、微弱な電気も感知することができる。だから、砂の中に身を潜めている生物の微弱な電流を察知して、即座に場所を突き止めることができる、と。すごいですね」


「み、耳元でしゃべらないでください!」



 我慢しようと思ったけれど、あまりにも甘い声に腰が抜けかけて慌てて粋先輩から離れた。先輩はクスクスと楽しそうに笑っているけれど、笑いごとではない。自分が振り撒いている色気を自覚してもらいたい。



「ふふっ、ごめんなさい。ほら、あんまり離れると迷子になっちゃいますから、こっちにおいで?」



 確かに、流石日曜日とでも言えば良いのか、家族連れとカップルで賑わう館内では離れたら迷子になってしまいそうだ。そろそろと粋先輩の近くに戻ると、右手をギュッと握られた。



「ちょ、先輩!」


「んー?」


「手、手!」


「ふふ。はぐれちゃいけないですから、ね?」



 粋先輩はいたずらっぽく笑うと、握った手をスルッと滑らせて恋人繋ぎに握り直してくる。指の間を滑るボクより太くて逞しい粋先輩の指の感覚が擽ったくて変な声が漏れそうになった。



「先輩、誰かに見られたら!」



 恥ずかしさを誤魔化そうとちょっと強く言うと、粋先輩は少し驚いたように目を見開いた。その表情が柔らかく緩んだかと思ったら、今度は歯を見せてニッと笑う。その顔を見るとつい身体に力が入ってしまう。



「な、なんですか?」


「いえ。身体は素直だなーと思いまして」


「は、はぁ?」



 急に耳元に顔を寄せられて身体を逸らして逃げようとすると、粋先輩にしっかり固定されていて動けない。



「手、振り解かないんですか?」


「そ、それは……」



 囁かれて肩が跳ねる。言われてみれば、ボクの方からもちゃっかり手を握り返してしまっている。慌てて手を振り解こうとすると、粋先輩はニコニコと笑ったままグッと力を込めてくる。ビクともしないじゃん。


 何とか離してもらおうともがいていれば、急に周りの声が耳に入って来る。



「ねえ、あれ」


「やば、マジもの?」



 そっと声の方に視線を向ければ腐ィルターを持っている女子たちからの熱視線が向けられていたことに気が付く。よくよく考えれば、手を繋いでいること以上に抱きしめられているような体勢になっていることの方が問題だ。



「せ、先輩、人目が……」


「ふふ、そうですね。じゃあ、またあとで」



 繋がれていない方の手で先輩の厚い胸板を押し返すと、粋先輩は楽しそうに笑ってゆっくり離れてくれた。にこやかに手も離されて、粋先輩の目が水槽の方に向けられる。


 手のひらに触れる風が冷たい。キラキラした目で水槽を眺め始めた粋先輩の手に視線が吸い寄せられる。



「ねえ、あれ可愛いですね」



 粋先輩は水槽から視線を離さないまま何かを指さす。その声にハッとして、自分の右手が粋先輩の手に向かって伸びていたことに気が付いた。左手で右手を抑え込んで、唇を結ぶ。自分から離させておいて、わがままなやつ。


 無性に悲しくて、涙が出そうになるのをグッと堪えて粋先輩の隣に並ぶ。


 どうしよ、情けないな。ガラスに映る自分の顔があまりにも酷い。だけど、こんな汚い感情で今の時間を無駄にするなんてもったいない。無理やり笑顔を作って粋先輩の指さす先を覗き込む。



「あの、どれですか?」


「ほら、あそこの岩陰の」


「ああ、イソギンチャク。あの種類、たしか捕食シーンはグロいですよ」


「そうなんですか?」



 粋先輩の声が少し落ち込んでいるように聞こえる。やってしまった。ここは、そうですね、可愛いですねって言うところだ。人が良いと思ったものにケチをつけるなんて最低だ。



「あの可愛さでグロいって、逆にちょっと見てみたいかもしれません。あとで動画でも探してみましょうか」



 明るい声を出す粋先輩。ボクのために無理をさせているんじゃないかな。そもそも今日のデートだって、ボクが粋先輩と武蔵くんに嫉妬してしまったから粋先輩が気を遣ってくれたんだろうし。


 迷惑を掛けてばっかりだ。せめて今日は、何事もなく過ごせるようにしないと。


 思考が負のループに入ってしまったのを奥に仕舞い込んで笑顔を作る。今を楽しまないと。粋先輩をこれ以上がっかりさせないようにしないと。



「そろそろ次に行きますか?」


「そうですね」



 ひとしきり楽しんだらしい粋先輩に声を掛けられて、1階に下りるエスカレーターに向かう。ボクの前にエスカレーターに乗った粋先輩のつむじがいつもより見やすくて、何となくつつきたくなった。



「わっ、びっくりしました」


「あ、すみません。なんか、見てたらつつきたくなりました」


「なんですか、それ」



 粋先輩は、あははっと声を出して笑う。エスカレーターを下りてもなお笑っていた粋先輩は、1つ目の目玉、マグロの展示水槽が見えた瞬間顔を強張らせた。



「こ、これは……」


「マグロの回遊水槽ですよ」



 粋先輩はなにやらプルプル震えている。マグロが怖いのかと少し心配になって顔を覗き込もうと少し屈むと、急にパッと顔を上げた粋先輩の顔が間近に来て慌てて距離を取る。



「びっくりした……」


「ごめんんさい。ほら、行きましょう! 御馳走ですよ!」



 手首を掴まれて、水槽の前まで引っ張って行かれる。さっきのぐいぐい来る余裕そうな様子はすっかり吹き飛んで、無邪気に楽しんでいるのがひしひしと伝わってくる。


それならボクも今は楽しむことに徹しよう。2人でお出かけなんて貴重な機会、楽しめなくてどうする。



「先輩、まさかあれ食べようとしてます?」


「え、いや、まさか……」



 図星だな。寂しさと情けなさを押し殺して粋先輩を見れば、すっかり子どもっぽい、レアな粋先輩が水槽を照らすライトの光を反射した光の中でキラキラと笑う。っその無邪気な姿に少しホッとした。



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