②遠距離恋愛最終日

 瞼の裏にオレンジ色を感じながら、目を開ける。どうやら電気を点けっぱなしで寝てしまっていたようだ。

 寝返りを打ち「おはよう」

 スマホの中からこちらを覗くちえりにそう声をかけた。

「おはようございます」

 朝目覚めて、隣に愛しい人がいると言う事は、人生で最も幸福な事ではないか、と壮一は思う。

 外はあいにくの曇り空。しかし、農灰色の暑い雲に覆われた空ですら、ドラマティックに見える。


 土曜日。

 いよいよ、彼女と暮らす日がやって来た。

 時刻は9時。

 あの日から5日間。こうして毎晩寝落ち通話で離ればなれの夜をやり過ごし、ようやく迎えた今日。


「今から準備して迎えに行くから、待っててね」

「はい」

 ちえりは、この上ない笑顔を見せただけで、それ以上何も言わない。それはキラキラと輝く空白。

 まだ知り合って間もない二人は、この5日間で尽きるほど会話をした。

「早く会いたい」「いっぱいくっつきたい」「一緒に寝たい」「土曜日が待ち遠しい」

 何度もそんな言葉を囁き合った。

 いくら口にしても、耳にしても、飽きる事はなくまだまだ言い足りない程だ。

 彼女はもうとっくにメイクを済ませて、服を着替えている。

 ネイビーのワンピースに白いフリルの付いた襟。

 ロリ系で、若干壮一の好みとは違うのだが、背伸びしない感じが、彼女によく似合っていた。



 およそ二時間の距離。車を走らせて彼女の家の前に到着すると、例の赤いスーツケースを引くちえりが視界に映る。

 彼女の前に車を停めて、運転席を降りた。

 一番にやる事は、やはり――。


「ちえり、会いたかったよ」

 そう言って彼女を抱きしめた。彼女は恥ずかしそうにもたつきながら、壮一の胸におでこをくっつける。


「ひゅーひゅーーー」

 どこからともなく冷やかしの声が聞こえて、慌てて体を離すと、塀の向こうから葉菜が顔を出した。


「げ! お前、何でいるの?」


 によによと笑いながら舌を出す葉菜。


「だって、小山内さんに、もうあんまり会えなくなっちゃうし、見送りぐらいさせてよ」


「いや、まぁ、そうだけど。って言うか、この足で実家寄ろうと思ってたけど」


「そうなの? なんで早く言わないかな。急に彼女連れて来たら、お母さんびっくりするんじゃないの?」


「いや、今朝、電話でお母さんに言ったよ」


「そっか。お母さん、なんて?」


「びっくりしてたけど、楽しみに待ってるって。だから、お前も車乗れよ」


「うん」

 葉菜が後部座席に乗り込むのを見届け、壮一は、ちえりのスーツケースをトランクに積んだ。


「荷物、これだけ?」


「はい。必要な物だけでいいかなと思って。服に化粧品に教科書に……アイパッド」


 生活に必要な物はすべてあるわけなので、何の問題もない。


「この家ってどうなるの?」


「この家は、お母さんの名義なので、お母さんが帰ってこないことには、わからないです」


「そっか」


「売っちゃうのかもしれません……」


 いずれ、ちえりはこの家に住めなくなる日が来るという未来があったのかもしれない。そう思うと今回の決断はやはり正しかったのだろう。

 あったかなかったかはわからないが、住む所がなくなってしまうという最悪な状況は回避できた。


 助手席のドアを開けて、彼女を乗せ、実家に向けて30分ほど車を走らせる。

 懐かしい光景が流れて、壮一の実家が姿を現した。


「あそこだよ」


「すごい。立派なおうちですね」


「農家だから、敷地だけは広いけど、別に立派じゃないよ」


「何を作ってるんですか?」


「うちはキャベツ農家だよ」


「キャベツ! 食べ放題ですね」


「そう。取れたてのキャベツは甘くておいしいんだよ」


 広々とした、砂利敷きの敷地に車を入れると、すぐに玄関が開き、作業着の母が出て来た。相変わらず顔は赤黒く日に焼けている。


「あれ、うちのお母さんだよ」


「き、緊張してきました」


「大丈夫だよ。うちのお母さん、天然だから」

 後部座席から葉菜がひょっこり顔を出し、そう言った。


「あらあらあら、よく来たね。いらっしゃい」

 助手席から降りたちえりに、母が余所行きの声でにこやかに挨拶する。


「は、初めまして。お。小山内智恵理です」

 ひょこひょことお辞儀をして、言葉を探すちえりに、なんだか笑ってしまう。

 初めて女の子を家に連れて来た。

 胸の奥がくすぐったく、なんだか気恥ずかしい。


「うんうん。葉菜から聞いてたよ。緊張しなくていいからね。さ、上がって」


 母は、急かすように玄関に促す。


「去年のお盆からちっとも顔見せずに、心配してたのよ」

 母はそう言って壮一の背中を叩いた。


「ああ、色々忙しくてね」


 母は、少し瞳を潤ませて、うなづいた。


「お父さんは?」


「お父さんは無尽むじんの旅行でね、朝から出かけたのよ」


「そっか。相変わらずお付き合いが忙しい人だな」


「無尽は仕事と一緒だからね」


 居間に入ると、テーブルに大皿料理がいくつも並んでいる。


「すごいね。一人で作ったの?」


「すごくないよ。急だったからあるものしかないけどね。お腹空いたでしょ。さ、遠慮なく食べてね」

 そう言って、ちえりの肩に優しく触れた。


「わぁ、鶏モツだ! 美味しそう」

 葉菜が誰よりも早くテーブルに座った。

 この調子だと、手伝いはしなかったな。


 長方形のテーブルに、ちえりと隣同士で座り、重ねてある取り皿を彼女に渡す。


「これ、なんですか?」


「これは、せいだのたまじだよ。知らない?」


「初めて見ました」


「小さいじゃがいもを皮ごと煮物にしてあるんだ。おいしいよ」


 皿に取り分けて、ちえりの前に置いてやった。


 母は、照れているのか、せわしなく台所を行ったり来たりしながら、ご飯やほうとう、お茶やジュースを準備している。


 壮一は、一通り、彼女に料理を取り分ける。

「塩キャベツ、キャベツのかき揚げ、ロールキャベツ……」


 そして、キッチンへと向かう。


 台所で鍋の様子を見ている母の背後に立った。


「お母さん。色々、心配かけてごめんね」

 その声に、少し驚いたようにこちらを振り返った。


「うーん。心配はしたけど、壮一の事だからきっと大丈夫って信じてたよ。あんな可愛い女の子が恋人になってくれて、よかったね」


「うん」


「どこぞの高級なお嬢様なんか連れて来たら、どうしようかと思ってたよ」

 そうおどけて、肩をすくめて見せた。


「ふふ。家柄が合わなすぎるもんね」


「そうよ」


 壮一にはわかる。これは、母なりの茉優への一撃なのだ。

 息子の連れて来た人が、あなたじゃなくて、本当によかったわ、という嫌味が込められている。

 そんな母の言葉と笑顔で、壮一の心もすっきりと晴れ渡るような気がした。

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