彼の世の蓋・1

 風丸は何も言わないスピーカーフォンを抱え、彼らから一定の距離まで走ってきた。塀近くの民家の路地裏で軽く息を整えていると、少し遠くの街の中央部からサイレンが聞こえてきた。何かあったのだろうか。頭の中で、ヘイズに調査を依頼する。

「これでよかったのでしょうか、母さま。……マキを置いてきてしまいました」

〈仕方が……ないよ。あの場ではああするしかなかった。それにあの男はともかく、柳水尾なら彼女を悪く扱うことはないだろうしね〉

 先程柳水尾がラクダから身体を取り戻した時、手に持っていたツィヨウのスピーカーフォンを使って身体から抜け出たラクダの方をこの機械に移したのである。

 スピーカーから聞こえる声が柳水尾のやや低いものではなくなっている。これが本来の声なのだろうか。

〈…………だけど諦められないものもある。風丸は地下開門計画について聞いている?〉

「はい。大まかにはですが聞き及んでいます。永遠に湧き出でる水源アプスを求めた計画ですね」

〈アプスというのは水そのものでもあるけどね。それを実行させるわけにはいかない〉

 風丸は少し考えてから提案した。

「…………実は以前母さまが切り離したとおっしゃった【カゲロウ】専属のアシスタントと再び連絡を取ることができたのです」

〈えっ〉

「彼女はあなたからの言葉でしたら従うと言ってくれました。……決してあなたに反逆しようなどという思いがあったのではなく、その、」

〈…………そっか。名前は?〉

「ヘイズと申します」

〈ありがとうヘイズ。じゃあ早速いいかな〉

 風丸が代わりに頷く。

〈あのサイレンの音、調べてもらえる? 風丸は本部に向かって〉

「はい。サイレンに関しては既に調べがついております。本部の総監が組織の構成員を総動員し、柳水尾を探し出すよう命じていたと」

 ラクダの指示通りに風丸が走り出しながら報告する。

〈どういうこと……? 総監は慎重な人だと聞いていたのだけど〉

「事情が変わったのでしょうか。今すぐに柳水尾を捕縛しなければならない理由が」

〈そうだね。もしかして……とりあえずニヌガルと合流したい。可能なら探して〉

「はい、」

「——指令が聞こえていなかったのですか。亡命します。脱走経路を確保せよと」

 背後から五メートルほど先、まさに行動を開始しようという時に何者かに声をかけられた。その少年のような声は抑揚も質感も発し方も風丸と瓜二つで、まるで風丸から発せられたよう。何者か、と言うにはその声の持ち主の正体は自明だった。

 【カゲロウ】である。

 言うまでもなく、風丸が隙なく振り返った目の前にいるのはツィヨウの手先である。

「このような場所で何をしているのでしょうか。ナンバーを述べて下さい」

 風丸は逡巡した。

〈約束はしたからね。仕方ない、正直に名乗っていいよ〉

 先程の約束が有効なら、ここで名乗ればすぐに解放されるはずである。もう風丸はツィヨウの鎖から解き放たれたのだから。

 しかし不安はある。

「……E001です」

「E001? それは破棄された番号の筈ですが」

 やはり駄目だったか。確かにアシスタントのお蔭で父が情報を共有すれば瞬時に全ての【カゲロウ】へ伝達される。

 けれどそれはツィヨウが伝達すればの話である。

〈あの男……〉

 スピーカーフォンから滲み出てくる苛立ちを感じる。父は約束を破棄したのだろうか。しかし作戦のため、ツィヨウに嘘の情報や命令を出されることは往々にしてあった。だから全ての【カゲロウ】にとって当然に受け入れるもので、今この時も風丸は動じることすらなかった。

「破棄対象の生き残りは発見次第、即刻排除です。分かっていますね、【カゲロウ】E001」

「待って下さい、私は——」

 前提ルールを執行する【カゲロウ】を前に会話は無効である。それでも風丸は話しかけていた。

「私は父に会いました。父は私を破棄対象から外してくださいました。ですから……」

「……それは、父上様のエーテルボックスではありませんか?」

 風丸の手元に視線を落とした【カゲロウ】が目を見開いて指摘した。確かにこれはツィヨウが柳水尾の魂を保管していたスピーカーフォンだから、この【カゲロウ】がそれを記憶していてもおかしくはない。

「そのような品は我々が持つべきものではありません。こちらへ渡して下さい」

 【カゲロウ】はそっと手を差し出してくる。一度でも拒めば強行手段に出るだろう。しかし今、ラクダが入ったこれを渡すわけにはいかない。

「渡せません」

 そう答えると引っ込めた手元に疾風が通り過ぎる。予測通りに【カゲロウ】がスピーカーを取り返すべく突進してきたのだった。

〈風丸。【カゲロウ】同士ならほぼ互角だ、どちらが勝ってもおかしくはない。頃合いを見て逃げた方がいいよ〉

「…………はい」

 ローブの中のポケットにスピーカーフォンを仕舞うと電気剣を抜いて、間合いをとっている【カゲロウ】に向き合って。指先のスイッチを入れようとして……、しかし人差し指がそれを押すことはなかった。

 あまり殺すな。先程のラクダの声が蘇ってきたのだ。

 母さまはきっと風丸の死と同じようにこの【カゲロウ】を傷付けても心を痛めるのだろう。それにここで電気剣を使えば、民間人まで巻き込みかねない。それは防がなければならない。風丸は電気剣を背中へ収める。

「……ヘイズ、可能でしたら父上にリマインドをお願いします」

『申請しますが、いつ気付くかは彼次第です』

 それは分かっているのでヘイズに任せることにする。あの口約束が嘘ならリマインドに意味は無いし、仮に守ってくれるとしてもツィヨウは重要と認識しない連絡に対して非常に緩慢だから気付いても後回しにされる可能性がある。

「聞いて下さい、」

 会話を求める風丸に一切応じない。背中の電気剣ではスピーカーを壊してしまうことを危惧したのか、腰に差した小刀を抜いてそれに応じた構えをとる。

「【カゲロウ】に命乞いは無用」

 ふわりと腰を落として刹那、時間が止まったかのように小刀の切っ先を正面に向けたあと、獣が牙を剥くように素早い動きで刃が風丸の首元を仕留めようと攻めかかる。

 矢継ぎ早に出される突きの攻撃。【カゲロウ】らしくそのスピードは閃光のように鋭く正確に風丸の急所を狙う。しかしそれが当たらないのは、その動作パターンが全ての【カゲロウ】に共通したものであり、風丸にとっても熟知してあるものだからだ。

 洗練されて無駄がないからこそ、型にはまった手合わせのような剣戟。しかしスピーカーを取り戻すため確実に仕留めるという目的がある【カゲロウ】が一歩優位であるように思える。互角であるが故に、一撃を戸惑えば確実に遅れをとる。

 頬を掠めていく逆手持ちの小刀が動きを鈍らせた瞬間を見計らって長剣を抜き、短い刃を横に払うように叩く。長剣は先程兵士から奪ったまま返しそびれたものである。

 カランと虚しく金属がタイルに擦れるように転げ落ち、【カゲロウ】は一瞬それに目を奪われる。やけに緩慢な動作で顔が上がり、フードとゴーグル越しに風丸と同じ目が覗く。

「戦っても無益です。あなたが父にこれを献上したところであの方は見向きもされないでしょう」

「【カゲロウ】が父上様のものを盗むなどあってはならないことです。そしてあなたがE001である以上、私にはあなたを破壊しなくてはならない」

 他に武器を持ち合わせない【カゲロウ】が仕方なく背中のエペを取るので、風丸も対称に構え直す。

 鏡合わせの生体プログラムは向き合って、息を聴き合う。

 無言の打ち合いが始まって。

 【カゲロウ】の戦いに慈悲はない。普段は雑用などをこなす彼らは本来兵器として生み出された存在であり、指定された相手を殺すことに一切躊躇しない。スイッチが入っていないとはいえ【カゲロウ】の電気剣での突きは小刀と同様に風丸の喉や眉間や、打たれただけで無力化、もしくは戦闘力を一気に削げる部位を狙ってくる。対して風丸は長剣の腹で防いだり避けることに徹して、反撃する様子がなかった。

 乱撃を潜り抜け、風丸は後ろへと回転しながら跳んで距離を空けた。逃さぬ【カゲロウ】は矢のように低く疾ってエペを突き込む。風丸の足が跳躍してそれをかわし、背後に着地する。

 スイッチが押される音が微かに風丸の耳に届いた。【カゲロウ】の電気剣を持った手がぐるりと半周して風丸の脇腹を斜め上から叩こうとするのを辛うじて剣で食い止めた。

「……一体どうしたのですか、【カゲロウ】E001」

 衝撃波が送られるのはエペの先端であり、長剣で受け止めた刀身の中間部があまりしなることない造りなのが救いである。

「どうやって破棄を逃れたのですか。どうして父上様のものを持っているのですか。……どうして父上様を裏切ったのですか」

 【カゲロウ】にとって己をつくった「父」とは神であり、忠実に従い、疑うことさえなく散っていくものである。例外なく。

 決して彼の鎖から抜け出る者はいない。

 風丸のような異分子などあり得ない。

「……父上は、任務を失敗した私をもう必要としていません。破棄命令とはそういうことでしょう」

「父上様に仕える以外、我々に道などないはずです。」

 風丸は【カゲロウ】を見る。

「…………」

 自分と同じ目で、理由もなく信仰に縋る【カゲロウ】を。それはあまりに、

〈風丸!〉

 ラクダの声が風丸を逡巡から引き戻して、焦点が合った視界に【カゲロウ】の小刀が白く閃いた。脊髄が反応するにもすでに遅く、逆手に振り上げられた刃の直線上になぞるように痛みが走る。

「…………っ」

 喉から呻くような音が鳴る。狭い道を軽く見回せば、叩き落とした小刀がいつの間にか拾われていたことがすぐにわかった。相手の目を盗んで行動するのは【カゲロウ】にとって造作もないことで、それは同士にも有効であるらしかった。

 油断なく首元へ直進する刀をすんでのところでかわし、己のバランスが崩れたのをそのまま利用して【カゲロウ】の足首を蹴り払った。

 どたっ、と軽い音を立てて倒れ込んだ【カゲロウ】を素早く捕らえて馬乗りになると、足で手首を床に蹴り付けて電気剣と小刀を順番に奪う。そうして動きを封じ、長剣を突きつける。

〈駄目——、〉

 あとは頸動脈をなぞるだけで決着はつく。

 【カゲロウ】は何も言わない。

〈風丸! 離れて!〉

 母が何か言ってる。叫んでいる。

 母や麻来と出会ってから、いつの間にか自分の当たり前は当たり前ではなくなっていた。自分も同じだったはずなのに、この【カゲロウ】を見ていると気付くのだ。父に……ツィヨウに対して持っていた、『設定』されていた畏敬の念や決して切れない強靭な糸のようなつながりが、すでに薄らいで遠くにあることに。

 俯瞰したこともない、名前をつけることすら知らなかった父への【カゲロウ】の『思い』というものが、命さえ捨てさせる純粋で過剰な信仰だと知った。【カゲロウ】として作られた故か今でも彼を父と思うし、冷徹な父へ対する畏怖はある。

 けれど魂から縛られている感覚は過去になっていた。

 今ではこの【カゲロウ】を少し憐れにすら思う。

 解き放つ方法は一つ。風丸は一つしか実行できない。

 何か憑き物に支配されたように、風丸の手と長剣の柄が軋んだ音を立てる。

〈やめて————!〉

 遠くで響く悲痛な声。同時に、刃が動くその直前。


 鼓膜の内側で、大槌が金床を叩くような衝撃が頭の内部を揺らした。

「————……っ!?」

「う…………」

 一瞬、視界が絵の具を撒き散らしたような色彩で満ちて、何もわからなくなる。

 何が起きたのか。それを考える思考すら奪われる衝撃だった。

 それでも【カゲロウ】の本能が身体の中で総動員して激しい眩暈を振り解き、数秒後に少しずつ五感を取り戻す。鈍い頭痛をじわじわと残しながら頭を振って周囲を見渡して。

〈……る、風丸!〉

「…………、はい」

 破れそうなほど激しく心臓が鳴っている中でラクダの声が自分を心配しているのが聞こえて、かろうじてそれに応答する。

 ようやく周囲の状況が見えてきた頃、徐々に鮮明に戻ってくる視界に映ったのは自分と同様にがくがくと頭痛に身震いする【カゲロウ】だった。

「今のは……、」

『風丸。ごめんなさい』

 頭を押さえる風丸に気遣った小さな声で、ヘイズが囁いてきた。

「…………、今のはヘイズが?」

『相討ちが危惧されましたので、勝手ながらその時だと判断しました。』ヘイズは認めて言った。

『……G246の方がダメージが長引いているようですので今のうちに本部へ向かって下さい。負担は最小限に抑えましたが、全ての【カゲロウ】はしばらく残響を抱えるでしょう。ごめんなさい、風丸。貴方より、貴方の大事なお母様の意思を優先してしまいました』

 風丸はぎこちなく首を横に振る。今にして思うのは、自分の矛盾した行動と、母さまの声が聞こえないほどに残忍な思考に浸かってしまっていたことへの後悔。今まで当たり前に行ってきたのに、水面から顔を上げて初めて息を止めていたことに気付いたようだった。後悔……そうか、風丸は、これではいけないのか。

「……いえ、これでよかったのだと思います」

『まもなくガイドを開始します』

 今になってこの【カゲロウ】の識別番号が分かったが、それ自体に意味はない。とりあえず提言通りに身を起こそうと床を押す。

「……母さま、ご無事ですか」

〈こっちの台詞だけど大丈夫だよ〉

「すぐ移動します」

〈……分かったけどとにかくきみは早く傷を手当てするべきだよ。出血してるんだから〉

 そういえば切り付けられていたのだった。切り傷からジクジクと痛みが戻ってくる。

 ラクダは風丸のローブの中で、溜め息を吐くようにぽつりと言う。

〈…………ああ……自分の力で動けないのって、こんなに不便なものだっただろうか〉

 まだまともに動けずにいる【カゲロウ】の整えようとする息遣いに後ろ髪を引かれて、風丸は振り返る。

 気付けば同胞の傍らに膝をついていた。

「あなたは私のきょうだいだ。幸運を……G246」

 その手をそっと握って、祈るように包んで。

 その時間は一呼吸より短く、すぐに風丸は足元を確かめるようにゆっくり立ち上がり、踵を返す。

「ヘイズ、ガイドを開始して下さい」

 願わずにはいられない。

 風丸はふらつく足で、路地裏から姿を消した。

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