実験倫理の観点からサンプルにストレスを与えることは推奨されない

 吉野要。重要の要と書いて『かなめ』と読む。親しい友人からはカナと呼ばれている。大学四年生で卒業後は地元に戻り、父親が経営する商社で働く予定だった。そして同じ研究室の三島純に恋をしている。


 要は薄い布団の中で何度も寝返りをうった。手足は冷たいのに頬は熱く、心臓はどくどくと脈打っている。卒検発表会の打ち上げで飲まされたアルコールがまだ体内に残っているのに少しも眠くならない。


 枕元のデジタル時計にはAM3:25の文字が鈍く輝いている。


 ほんの四時間ほど前、要は駅前の安い居酒屋チェーン店の前にいた。卒業が確定した同級生や春休みを控えた後輩たちは浮ついて次の店を探そうと騒ぐ中、要は一人きょろきょろと落ち着き無くあたりを見回して三島の姿を探していた。


「カナも次のお店いくよね!ねえいい店しらない?」


 まとめ髪もほどけてスーツもよれた友人がスマホ片手に要に手を振る。要は一瞬目を見開き、それから少し眉根を寄せて笑みを返した。


「ごめん。明日早いから」


 要が軽く頭を下げると、友人はつまんない!と口をとがらせて見せる。でも次の瞬間には隣にいたべろべろに酔って眉尻の化粧も落ちた後輩に抱きつき「三軒目いこ!」とうれしそうに笑う。要はおもわず苦笑いし、じゃれ合う歓声に背中を向けて歩き出した。


 探していた三島は騒ぐ研究生とは少し距離を取って、自販機のそばでたばこを吸っている。要の姿が目に入ると、深く吸った煙を吐き出した。三島はがっしりとした体つきで背はほぼ自販機と同じぐらい、目つきが悪く坊主頭でどこにいても目立つ。


「卒業おめでと」

「色々ご指導ありがとうございました」

「おう」


 三島は片手をあげてにやりと笑う。要の心臓の鼓動がとくとくと早くなる。『小児病棟におけるぬいぐるみがもたらす精神的効果』これが院生三島と要の共同研究内容だった。「こんな顔でぬいぐるみなんておかしいだろ?俺もなんでこんなテーマやってるかわからん」などとぼやきつつ、三島は朝から晩まで研究にのめり込んでいた。


 要がいつ三島のことを好きなったかなど、要にもわからない。しかし三島と一緒に走り回った二年の研究生活はとても幸福なものだった。


「めちゃくちゃ飲まされたな。おらこれ飲め」

「あ、ありがとうございます」


 三島が投げた暖かい缶コーヒーを要は受け取る。「ブラックは飲めないんです」と要が申し訳なさそうに頭を下げてから三島がたまに投げてよこすのはいつも甘いカフェオレだった。三島は極端だ。要はうすい唇を噛んだ。


「三島先輩」

「なに」

「好きでした」


 三島の返事を聞く勇気は要には無かった。それどころか顔すら見たくはなかった。カフェオレの缶を握りしめて要は走り出す。瞬き始めた青信号の横断歩道にとびこみ、暗い商店街の路地にとびこみでたらめに曲がり角を曲がった。ポーチの中で震えるスマホは無視した。息が上がって走れなくなり、とぼとぼとアパートまで歩く道すがら要はずっと泣いていた。暗い部屋にこもり、顔も洗わず着替えることすらせずにベッドに飛び込んだ。そこからずっと眠れないでいる。


 何度か寝返りをうって枕元の時計を見るとそこには何も写っていなかった。要はうなり、放りだしたままのスマホを手に取る。液晶は真っ暗だ。


「何時?」


 重たい体を引きずってベッドを抜け出す。手をつけられないカフェオレの缶をなんとなく持って要は扉のノブに手をかけ下げた。異様に静かだ。外からの車の音一つしない。


「三島先輩!」


 要は悲鳴に近い声を上げた。スーツ姿の三島がシンプルなテーブルを挟んで向こうがわの椅子に座って微笑んでいる。そして少し遅れてあたりを見回す、ここは要の住むアパートの一室ではなかった。淡いグリーンの壁で囲まれた部屋。家具は正方形のテーブルと二つの椅子だけ。その片方ににこにこと笑った三島が座っている。要が見たことがない表情だ。


「こんにちは。かなめ。あなたはアーカイブから呼び出された地球人格です。わたしの姿はあなたの記憶から、あなたが死の瞬間にもっとも会いたかった人間の姿を借りています」


 要はカフェオレの缶を指先が白くなるまで強く掴んだ。三島の姿をした何かは穏やかな口調で続ける。


「残念ながら地球はもうありません。月に巨大な隕石がぶつかり軌道が狂った月が地球に衝突しました。わかりやすくいうと玉突き事故ですね。なおあなたの人格から『人類の隕石観測から月衝突までの記憶』は除去してあります。あなたの人格に悪影響を及ぼすからです」


「え?」


 要の足から力が抜け、壁と同じ色のカーペットが引かれた床に座り込んだ。


「恐れないでください。私は地球の食文化を研究しているものです。私たちの研究活動では地球人格アーカイブから任意の人格を呼び出して聞き取り調査することが認められています。わたしはこれの食べ方を知りたい」


 三島の姿をしたものの手の中にアルミ鍋に入った鍋焼きうどんセットが現れた。


「これを実際に調理して食べてみていただきたいのです。さあ、かなめさん。立って。実験倫理の観点からあなたにストレスを与えることをわたしは望みません」


 要は首を何度も横に振った。三島の手が要の直線的な腰を抱き起こす。にこりと笑った三島がまるでぬいぐるみを撫でるようにうっすらひげの生えた要の頬を撫でた。


おわり


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