32話 Find*

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 和葉とエドワードは、地下シェルターへと続くエレベーターまでの道のりを歩いていく。廃墟群の仄かにすえた空気を抜け、草原はどこまでも広がる永遠の昼間の景色であった。白いレースの着物に身を纏う二人の姿は正に天使たちだ。道行く先には運命のクレーターが見える。そこに集束していくかのように風が吹いていく。

 情景の美しさに対し、地面の凹凸な感じは地味に歩きづらい。足裏にかかるストレスを、この世界が現実のものであることの証明だと考えることは出来るだろうか。夢の中の世界でも五感は鮮明に感じられた。物に触れ、匂いを嗅ぎ、水を飲み、パンを食べた。目覚めた後から思い返そうとも、現実に起きた出来事としか思えない。しかし、やはり今のこの空気は一味違う気もする。わからない、気のせいかもしれない。

 夢と現実の区別が曖昧だ。十九年もの記憶があり、眠れば夢を見ることすら出来た世界が、それこそが夢だったと理解するのはとても難しい。そもそも、夢と現実なんて明確に見分けることは出来ないのかもしれない。だが、現時点で現実だと信じられるのはこの世界だ。和葉は自分の信じる道を行く。そして彼女が信じるのは、いつも希望が光る方角だ。

「和葉、ちょっといいか。聞いてほしいことがある」

 エドワードは思い付いたような素振りで話したが、話を切り出す良いタイミングを窺っていたことが明らかなくらいに声は低かった。雄大な自然の空気とのどかな日和の中で、不思議なくらいに落ち着いた気分で和葉は返事をした。エドワードの表情は相変わらず重苦しさを拭えないが、どこか大人の余裕も持っているように感じる。

「マスター・ブレインと話をする上で、このことは伝えておかなければならない。君がエデンの喫茶店で階段を降りていった後の話だ。君がもう戻ってはこないことを悟った町長は、僕が押さえつけるのに抵抗しなくなった。そしてあまつさえ、僕にも階段を降りていけと言ったんだ。僕はあの日、朝から仲間がいなくなるし、謎の鐘の音は聞こえるしで、何が起きているのかを彼に尋ねたんだ。町長はその質問に答えてくれることはなかったが、僕たちをミステイクと呼んだことを謝ってくれた。そして、彼にしかわからないようなことを呟き始めたが、その姿は様々なことを悩んでいるようだったし、僕たちを希望の眼差しで見つめているようでもあった。何も理解できずに戸惑っていた僕に、彼は最後にこう言ったよ。正しいことなどいつの時代も誰にもわかりはしない、それでも君が自分を信じ続けることが出来るのなら、君は信じた道を進み続けろ」

 正しいことなどいつの時代も誰にもわかりはしない。戦争で自滅を迎えた人類に、新しき理想郷の世界を提案するAIが口にする言葉としては、まるで感情を持った人間のようで不釣り合いだ。教祖を信じ続ける人間に対しては失望感を抱かせるのに充分な言葉で、一方、別の道を信じる者たちにとっては心強い後押しの台詞となる。

「……マスター・ブレインは、私たちに理想郷としてのエデンを実現させたいから、人工冬眠中にあの夢を見させていたんじゃないの?」

「うん、それは間違いない。でも、彼にとっても一つの誤算が起きた。隕石の落下だ。僕らの記憶障害は、隕石による電波障害が影響していると言われたけど、マスター・ブレインにも何らかの障害が起きた訳だから、僕らにも影響が出たはずなんだ。純粋に『教団』の教祖として、エデンのような理想郷を掲げるAIとしては、その言動の多くがおかしいとは思えないか」

 和葉は〝戦乙女〟の顔付きに戻った。マスター・ブレインは人工冬眠が始まる前から、新しい世界の理想の形としてエデンを提唱していた。和葉が眠りに就く前に受けていた説明では、新しく歩み始めた人類はエデンという理想郷を完成させて、争いのない世界が実現した、という仮定の夢を見るはずだった。記憶を一つ一つ思い出していきながら、確かに実際の夢の中の世界は、事前に聞いていた話とは大きく違うことがわかり始めてきた。和葉は思い出せる限りの記憶をエドワードと共有し、隕石による電波障害がAIに何をもたらしたのかを検討すべきだと考えた。

「本来ならば夢の世界は、エデンだけが存在する世界で良かったはず。今のこの世界を見れば、エデンが唯一の国として発展していくのは可能なことにも思えるわ。カザーニィやエイ国が創られて、私やあなたがそこに生まれることになったのは、全部が電波障害の影響だというのかしら。それがなのかしら。それにしたってマスターの態度はおかしい。エデンとは別の世界を望むと、そうはっきり言った私を肯定すらしているようにも聞こえる」

 二人は会話中も足を動かすことを怠らず、地下シェルターへと続くエレベーターは目と鼻の先まで近付いていた。夢の中でカザーニィが甲冑集団と戦闘を繰り広げた際に、カズハが敵のかしらを捕まえて登った岩。その岩は現実にも存在し、その下の地面にはよく見ないとわからないような液晶パネルが埋められており、『教団』の人間が手を当てれば生体認証で地面が開く。そこからエレベーターだけが地上まで登ってくるはずだ。手順は和葉が全て思い出していた。

 二人は少し地面を探り、液晶パネルを発見すると和葉が手を当てた。認証の音がして地面が開き出し、和葉は腰を上げると少し後ろに下がる。エドワードは地面が開くのを待つ間に口を開いた。

「……これはただの推測でしかないが、マスター・ブレインは迷ったんじゃないか。自らが提案したエデンという理想郷が、本当に人類の進むべき新しい世界であるのかを。本当に高度なAIは、時として感情を抱きかねないのかもしれない。そして感情を抱いてしまうと、怒りや悲しみを不必要だとは思えなくなるだろう。彼は悩みを抱えてしまったからこそ、エイ国やカザーニィを創った。なんかじゃなく、わざと創ったんだ。別の平和のあり方として、エデン以外の可能性を生み出し、僕らはそこに生み落とされて、どんな人間たちに育つのかを確認する為の役割を与えられた。そして他の国が存在する世界でエデンを野放しにしておいては、襲い掛かってくる敵がいた場合に誰も対処できない。だからネトエル山なんかを用意して、どうにか理想郷を成り立たせたんだ。そうすれば別の平和の可能性も、エデンでの平和な理想郷生活も、どちらも七天使に体験させることが出来る。それで、彼が感情を持ったり、悩んだりするようになったきっかけは何なのかと言うと、それが隕石による電波障害の影響なのかもしれない。たとえば電波障害が夢の世界の形だけを変容させたのだとして、ネトエル山のようにエデンを守る壁が出来上がるのは少し不自然だし、マスター・ブレインの思想に照らし合わせると、町長の最後の言葉はその思想に合っていない。僕らに攻撃してきたことにも納得がいかない。つまり、電波障害の影響は夢の世界の形状に表れたのではなく、マスター・ブレインの思想そのものを変化させたのではないか。そう考えれば一応、話の筋は通るようになる」


 少し探るようなエドワードの口調と、その言葉を受けて和葉が思考を巡らせている間に経過した時間は、地下深くからエレベーターが昇ってくるのに丁度良い長さだった。五十人ほどは優に乗れる広さの頑丈な昇降機は、数時間前と同じように赤いランプを点灯させて扉を開いた。二人の覚悟を問うように、地獄の底へと続きそうな口を開けて待っている。二人はどちらからともなく手を繋いだ。決意を固める為のおまじないのような温もりで、二人は長いエレベーターに乗り込んだ。

「そうね、エドワード。あなたのその推論は、昔の記憶を持っている私が考えても、充分なくらい理に適っている想像だわ。おそらく間違っていないのだと思う。でもその場合、『教団』はこれから計画をどう進めていけばいいのかしら。感情を持った教祖の創った世界は、真に無欲な世界とは…………いえ、彼らはもう教祖なしでも、エデンで学んだ平和の思想を道しるべにしてやっていけるはず。道を問われるのは私たちだわ。どれだけやり方に納得がいかないとしても、エデンの町は平和を叶えていた。マスターが私たちという別の平和の可能性を肯定してくれていようとも、計画としてはそれだけでは許されない。『教団』の人々は考え方が変わるようなことがない限り、平和の町を創っていくことでしょう。そうなると私たちは計画に参加できなくなるし、『教団』の人々とも手を取り合っていけなくなる。私たちに必要となるのは、具体的な方向性を明示すること」

 和葉たちは手を繋いだままでエレベーターの床に座り込んだ。空調が効いているとはいえ、地下へ向かうに連れてゆっくりと寒くなってくる。エドワードは少しだけ考え込んだ。記憶が欠けて過去がわからない分だけ、彼には未来が見えているような表情だった。

「いいかい和葉。まず、一つの前提として僕は、人々から争いの意識を完全になくすことの出来る世界は、エデンを除いて他にないと考えている」

 エドワードはそこで言葉を止めて和葉の様子を見た。薄暗いエレベーターの中では、二人の目が光を反射して浮かび上がるようにして見える。空と海の青が見つめ合い、天と地が混ざり合い、二人は言葉ではないものでも互いの心を伝え合おうとしている。

「しかし、僕は争いを根絶したエデンの町のことを、真の平和な世界とは考えない。僕らは平和の秘訣を求めてエデンまで旅をしたけど、目指すべき平和の形はエデンの町にはなかった。和葉、僕は夢の中にいた時からずっと考えていたんだ。人々が一切の争いをしないことを、それを本当の平和と呼んでもいいのだろうか」

 和葉はエドワードの手を少し強く握った。お互いの熱が手のひらを介して共有された。エドワードも返事をするかのように、少しだけ手のひらに力を加えた。

「いいかい。人の本質の一つとして煩悩がある。人々は多くの煩悩を抱えているからこそ、欲や怒りが心に湧いてきて、いつしか争いを避けては通れなくなる。人々が争わなくなるには、エデンの平和の形は理想的だと言えるだろう。だけど、人間が煩悩を完全に排することなんて、本来は不可能なことのはずだ。なぜならそれは人の本質だから。本質は変えてはいけないし、そもそも変わらないものが本質だ。煩悩を失ってしまえば、それは人間じゃなくてまた別のものに変わる。たとえば神様とか、天使とか。人間は進化していていく過程で、いや、種として人間に進化するまでの過程で、幾多の争いを繰り返してきた。大昔から、ずっと。人が本質的に争いを行うというのならば、争いをなくしてしまおうなんて考えない方がいい」

「争いをなくすことは、実のところ不可能だから、私たちのように夢の中のエデンに違和感を覚えるものが生まれてしまった」

「その通りだ」

 エドワードは頷いて、和葉の言葉を肯定した。そして和葉も同じように頷いて、エドワードの言葉の続きを促した。

「それでは、人類が争いをなくせない以上、平和というのはフィクションでしかないのかと言えば、そうではないと思う。僕には現状を見て一つだけ、平和な世界創りについての具体的な方向性を提案することが出来る。むしろ一つだけしか決められるような決まりはないと思うのだが、それは武器を手に取らないことではないだろうか。人々は争いを避けては通れない存在だが、戦争だけでなく口論や殴り合いの喧嘩と争いにもいろいろあり、その争いに武器を持ちこまなければ、そこに一種の平和が実現する。理想郷に暮らす人々の感情がどうあるべきとか、欲を抑えるべきだとかどうとかは、そもそも僕らがどうにか出来る話じゃないはずだろう?だって神様でも天使でもない、ただの煩悩多き人間なんだから。僕らがこれからの世界でのルールとして決めてもいい、決めることが出来るのはただ一つだけ、争いに武器を持ち込まないこと。それがエデンとは違う、別の平和の可能性として提唱できることだ」

 無機質なエレベーターの室内に、青年の信念を込めた言葉が浸透した。青白いライトが照らす二人に、どこか神秘的な気配が降りてきた。

 和葉はエドワードの言葉の全てを心に落として、ずっと胸につかえていたような悩みが剥がれて消えていく感覚を味わった。エデンとは別の形の平和を望む彼女にとって、彼の考え方は最も美しい結論のように思えた。嬉しさや素晴らしさがじっくりと花開くのがわかって、ストレスが消化されたような爽快感がする。それは、遠い未来から流れてくる祝福の風だ。和葉はどうにかその想いをエドワードに伝えようとするが、そう簡単には言葉を選びきれない。口に出して発散させることも出来ないのに、胸の内から溢れ出してくる感動が、声の代わりに雫となって瞳から零れた。和葉は両手でエドワードの手を包み込むように握りしめた。青年は同じ温度でその手を包み返し、少女の想いは余すことなく伝わってくれたようだ。

 そのまましばらくの間、エレベーターの中には静寂が続いた。高速で駆動する機械音だけがずっと単調に聴こえてくる。意外にも心を揺さぶるような、呻き声のようにも聴こえる、どこか煽情的な音楽だ。着実に地下シェルターは近付いてきている。エレベーターが到着してしまう前に、和葉は心を落ち着かせて話をすることにした。

「ねえ、聞いてエド。私が思い出した人工冬眠前の記憶。私がどんな人間で、どんなつもりで計画に参加したのかってこと」

「ああ、それは僕も聞きたいと思ってたところだ。カザーニィで育たなかった君はどういう少女だったのか。結構気になるところだ。案外、極悪ないじめっ子だったとか?」

「どちらかと言うとその逆よ。私はどうしようもない無気力なろくでなしだった」


 不意に機械音が大きく聴こえるようになって、エドワードは兵士長らしからぬ素っ頓狂な顔をしていた。どんな美形でも崩れてしまうような告白に違いない。和葉が無気力だったとは、彼女と関わった誰にも想像が付かないことだろう。彼女は誰よりも気力に満ちた働き者のはずだ。

「今ここで嘘をつくとは思えないけど、それは本当なのかい?」

「そう、今ここで嘘はつかないわ。私はね、ごく普通の家庭に一人娘として生まれたの。まだ幼い頃に両親が離婚しちゃって、父親の方が家を出ていき、母親が女手一つで私を育てることになった。とはいえ、それはさほど難しいことでもなかった。当時は世界的にシングルマザーへの理解があったし、母は『教団』に所属しているメンバーの一人だったから、私を育てていくのに『教団』の支援も受けられたみたい。幼かった私は両親の離婚にそれほど大きなショックも受けず、片親でもそれなりに幸せに暮らしていた。でも、私が十二歳になった時、母は不慮の事故で亡くなった。祖父母も既に他界していたから、その日を境に私は家族が一人もいない中学生になって、当時の私は必要以上に絶望したの。あの頃は、天涯孤独という事実にどうしても希望を見出せなかった。それが原因で、私は無気力で世の中の流れに身を任せるような人間になってしまった。そもそもの私は、今みたいに明るい性格だとは呼ばれたこともなかったから、絶対に世の中の流れには逆らおうとはせず、よく知らないはずの『教団』の人が身元を引き取ってくれることになっても、何も考えることなくお世話になることにした。それが一番楽だったからね。今なら新しく家族になろうと言ってくれる人がいる事にすごく感動するとか、同時にひどく警戒するかもしれない。当時の私の精神は、今と違いすぎて自分でも上手く説明ができないわ。でも、とにかく私は深い絶望と大きな諦めを抱えて生きていた……。『教団』の集まりだって、誘われたから断らないという理由で出席して、『希望の箱計画』に選ばれた時も、これが世の中の流れならと思ってすぐに参加した。そう、最初から計画には、特に積極的でもなかったの……。でも、それなのに今、何の考えもなしに生きていたような私が、エデン創りは出来ないと言って計画を滞らせたり、『教団』のみんなの希望を裏切るような真似をしている。それは、そのことが、今、私には、何よりも心苦しい」

 涙混じりの声。和葉は弱さを隠そうとはせず、エドワードの肩に頭を寄せた。彼とこうして手を取り合って、平和の為に考えるべきことも見えてきて、幸福な気分でいる今の自分は、果たしてその資格があるような人間なのか。

 エドワードは少し遠慮気味になりながらも和葉の肩を抱き寄せた。少女よりも一回りは大きな身体は、彼女を父親のような優しさで包み込むのに役立つ。彼は今以上に自らの体格にありがたさを覚えたことはなかった。そして丁度、彼らには時間が来たようだ。二人を運ぶエレベーターは速度を落とし始め、赤いランプで停止すると扉が開いた。エドワードは和葉を立ち上がらせた。

「君がどうしても自分の進んできた道を肯定できないとしても、僕らに今できることは前に進むだけだ。マスター・ブレインは最高のAIなのだろう?彼に相談してみればいいじゃないか。きっと人間の一人や二人の人生相談なんて、彼の知能を前にすれば気にするようなことでもないさ」

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