20. 夜会の騒ぎ

「エミリア・ミュレーズ! お前との婚約破棄が決まった!」


 ジルドの怒鳴り声に、会場が静まり返る。

 それは、関係者が予想していた中でもが的中した瞬間であった。

 周囲の出席者達は困惑し、エミリアとその父フェルナンドも唖然あぜんとした。

 当然、ヴィオレッタもロジーヌも唖然としている。

 そうした困惑によって会場が静まり返っているのを意に介した様子もなく、ジルドは続ける。


「お前は同じ学生であるロジーヌ・ペリエ嬢を平民であるからと差別し、陰湿な嫌がらせを行い、時には呼び出して直接面罵した! お前のような女は皇子たる俺の妻に相応しくない! よって、お前との婚約を破棄したのだ! そして――」


 そう言いながら、彼はロジーヌの方へと歩み寄る。彼女の表情は今にも白目を剥いてしまいそうではあったが、やはりジルドは気にしない。


「ロジーヌ・ペリエ嬢! 俺は君と婚姻を結びたい! どうかこの手を取ってはもらえないだろうか!」


 舞台俳優もかくやと言わんばかりの大仰な身振りと声色で、ロジーヌの前にかしずき、右手を差し出した。政略結婚が圧倒的多数を占める貴族の世界では中々目にするものではないが、これは男性が女性に求婚する時によく見られる光景だ。ここで女性が手を取れば婚約が成立する……わけではないが、取り敢えず女性がそれに応じて求婚を受け入れたことになる。

 無論、そんなことはこの場に居る全員が知っているし、状況が状況でなければ皆が固唾を飲んで注目する理由も違っていただろう。

 して、ロジーヌは微動だにしない。

 10秒、20秒と時間が経っても全く返答がなく、流石に不安になったのかジルドが少しずつ視線を上げる。

 ロジーヌの隣で唖然としていたヴィオレッタも、ゆっくりとロジーヌの顔をのぞき込んだ。


「……なんてこった。気絶してる……」


 ロジーヌは、直立不動のまま目を閉じ、意識を手放していた。

 これには流石のジルドも固まってしまった。

 ヴィオレッタがロジーヌの肩をそっと抱くと、力の抜けたロジーヌの身体は膝から崩れ落ちかけたので、彼女は慌てて横抱きに抱き上げる。


「お前は?」


 その様子を固まったまま眺めていたジルドは、どうやらヴィオレッタの存在に疑問を持ったらしく、立ち上がって彼女をじろりとにらんだ。


「恐れ多くも名乗らせていただきます。私はアンセルミ男爵家の娘、ヴィオレッタ・アンセルミと申します。今しがた殿下が求婚なさった、ロジーヌ・ペリエの姉にございます」

「お前がか?」


 金髪に愛らしい垂れ目のロジーヌとは対照的な、黒髪に釣り目と精悍せいかんな顔立ちの持ち主であるヴィオレッタに、ジルドは眉を上げた。

 姉妹というにはあまりにも似ていないのだ。共通点といえば琥珀こはく色の瞳と、意外と小柄なことくらいだろうか。

 そして何より、姓が違うどころか、平民の娘であるはずのロジーヌの姉でありながら、男爵令嬢であると名乗っている。


「ロジーヌとは母親が違います故、姿は似ておりませんが」

「腹違いか」


 つまりは、ロジーヌは平民を名乗っているが、実態としてはアンセルミ男爵家の庶子で、アンセルミ姓を名乗らせないのは不義の子であるロジーヌを自分の家に入れたくないからに違いない。こうした社交の場等では取り繕っているようだが、家では一体どのような扱いを受けているのやら――と、ジルドはそこまで勝手に想像して表情をゆがめた。


「陸軍軍人のようだな?」

「はい。予備役少佐として第100師団第1001歩兵大隊指揮官を拝命しております」

「予備役か……ふん」


 ヴィオレッタの返事を聞いて、ジルドは鼻でわらった。

 大方、自らの遍歴にはくをつける為に入隊した貴族将校だろう。安全な後方勤務で、華麗な経歴だけを得ている惰弱者。

 もしくは、顔に傷があるので、嫁のもらもないから入隊したのか。

 いずれにせよ、ジルドは明かな軽蔑の色を示した。

 一方、周囲の出席者達の中でヴィオレッタ・アンセルミの名を知っている者――特に先の戦争での実戦経験者と、現在彼女と同じように予備役に勤務している者達は戦慄した。

 ヴィオレッタ本人は貴族令嬢らしい愛想の良い微笑を浮かべているが、周囲の多くの者が最悪の事態を想像してしまったのだ。


「嫁の貰い手がないから軍隊に入ったのか? ロジーヌが男爵家に迎え入れられていないのもお前の嫉妬といったところか? それとも、お前の家は余程非道な人間の集まりか? ロジーヌのような愛らしい娘を迎え入れてやらないとは」

「お言葉ですが殿下」


 ジルドの言葉と、それに対するヴィオレッタの静かな声に、周囲の貴族達が息をんだ。

 彼女の顔からは先程までの微笑が消え、無表情になっている。近くに立っていたロレンツォ兄妹などはその怒気を感じて卒倒しそうになった。

 先程からジルドが口にしていたのは、ヴィオレッタ個人に対する侮辱と、アンセルミ家に対する侮辱だ。ヴィオレッタは前者までは笑顔で許容したが、後者についてはその表情をすっぽりと落とした。

 めかけの娘を迎え入れるか否かなどということは理由がどうあれ家庭の事情であり、皇族といえどもそこまで踏み込んで、ましてや家族を侮辱する言葉を投げかけるのは許されるべき行為ではない。

 そしてその侮辱を受けた娘は、先の戦争で数多くのその手で敵兵をほふってきた苛烈な軍人である。歩兵将校として、銃だけでなく湾刀サーベルをも使って敵兵を斬り伏せてきた猛者なのである。

 しかも今はロジーヌを抱いていて両手が塞がっているとはいえ、腰には湾刀をいているのだ。


「私は、私個人に対する侮辱は気にしないことを信条としております。そして、我が父が卑劣な男であったこともまた、当家の誰もが認める汚点であり、それを申し開く気はございません。しかし、この子がアンセルミ姓を名乗らないのはまた別の理由あってのことであり、それについて家と、我が兄弟姉妹に対するいわれなき侮辱は、アンセルミの娘としても私個人としても、許容し難いものにございますれば」


 ヴィオレッタがゆっくりと腰を落としていく。未だに意識の戻らないロジーヌを、これまたゆっくりと床に降ろしていく。

 実戦経験のある軍人はその意図に逸早く気付いた。今彼女が猛烈な殺気を放っていることと、それがつながりかねないことにも。


「ア、アンセルミ少佐! 先に妹君の介抱をした方が良いのではないかな? 殿下も……流石に今のご発言は不適切と言わざるを得ませんぞ」


 近くに立っていた生徒の父兄らの中でも、ヴィオレッタに挨拶に来ていた海軍将校の侯爵が慌てて声を掛け、ヴィオレッタの動きが止まった。

 その段になって、漸くジルドも自らの身に及びかけた危機に気付き、冷や汗をかいて後退りした。


「う、うむ、そうだな。ああ、すまない、アンセルミ嬢。お、俺の発言は不適切だった。謝罪する」

「……謝罪を受け入れます。この子の介抱の為、私達はこれで失礼いたします」


 結果としてそうなったことではあったが、それは一男爵令嬢にして一軍人が、帝国の第3皇子を恫喝どうかつした瞬間である。

 ヴィオレッタはロジーヌを抱えたまま立ち上がり、一礼してクルリときびすを返すと会場の出入り口へと歩いていく。彼女より爵位も階級も高い者も、そうでない者も、誰もが後退り、その男爵令嬢に道を開けた。

 しかし扉をくぐる直前、ヴィオレッタはもう一度振り向いた。


「ああ、それと。婚姻の件については家に持ち帰り検討させていただきます。エミリア嬢との婚約破棄の件につきましては、当家は関知しませんので公爵家とお話し合いになられてください」


 よく通る声でそれだけ伝え、ヴィオレッタとロジーヌは退場した。居合わせたミュレーズ家の関係者は誰一人としてそれに何か言うでもなく、ただその背中を見送っていた。

 周囲の出席者達は「当家は関知しません」という言葉とそれに対するミュレーズ家側の面々の反応からして、「もうこの婚約破棄を予期していて、ミュレーズ公爵家とは話し合いが済んでいるということか」と皆が解釈した。

 実際、これは確かに関係者が最悪の選択肢として予想していた展開ではあったが、当然ながら「」であるので、出来れば類のものである。

 本当は婚約の円満解消で済む予定だったのだ。それを態々引っ繰り返してしまったのはジルドである。

 フェルナンドは内心苦々しく思いながらも、取り敢えず出て行くヴィオレッタ達を見送るということで動揺を隠した。

 こうして後に残されたのは、膝の笑ったジルドと、大逆罪の現場に居合わせずに済んで安堵あんどした参列者達、そしてジルドによってをこさえられて放置されたミュレーズ公爵親子である。


「殿下」


 静まり返った会場に、エミリアの美しい中高音域の声が響く。


「な、何だエミリア」

「婚約破棄の件、了承いたしますわ。慰謝料も必要ありません。ただ、一つだけ、をお許しくださいませ」

「何? バカな、慰謝料を支払うのはそっちで――」

「皇帝陛下からも既にお許しをいただいておりますの。失礼しますわね」


 エミリアは手袋を外しながらジルドに詰め寄ると、右手を振り上げ、間髪入れずに振り抜いた。

 乾いた音と共に、ジルドは一回転して尻餅をつく。

 突然の暴力に困惑し、頬に広がる痛みに表情を歪めながら見上げる彼を、彼女は全てを凍り付かせんばかりの冷たい目で見下ろしていた。


「こっちから願い下げよ、この


 そう吐き捨て、エミリアは振り返った。


は以上にございます、陛下」


 それを聞いて、ジルドは思わずエミリアの視線を追う。

 そこに居たのは、アズーリア帝国の至高の存在――皇帝エドアルド・カエルレウスであった。


「ち、父上……!」


 実父である自身を見上げ、すがるように呼ぶジルドに、皇帝は目を伏せる。


「何故、何故もう少し我慢がならなかったのだ、ジルドよ……」


 その愁いを帯びた表情に、ジルドは一抹の不安を覚えた。

 そんな彼を待つでもなく、皇帝は続ける。


「昨日伝えた筈であろう。何故、今日になってこのような騒ぎを起こしたのだ」


 この段階になって、ジルドは漸く皇帝の静かな怒りに気が付いた。

 怒りの鉾先ほこさきは、自分に向いている。

 そのことに気が付いた時には、彼は駆け寄ってきた侍従に促されるまま会場から連れ出されることしか出来なかった。

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