第13話 2日目 22時39分 東京タワーと思い出の涙

 東京タワーに向かうと、途中で坂道になっていく。近付くと東京タワーが見えなくなっていくのは何か寂しい。

 私は手をゆったりと繋ぎ直して、横の優太朗を見た。


「……いつも最初に味噌汁を食べていたでしょう」

「え? いつの話?」

「お店にくると、優太朗はまず味噌汁を頼んだの。あればアサリの、なければ豆腐の。かならず最初に味噌汁を飲んでいた」

「えー……そうだったかな。でも味噌汁は好きなんだよな」


 私は歩きながらあの頃のことを思い出す。まだ優太朗と恋をはじめる前。注文を取りに行くとみな最初はビールやソフトドリンクを頼む。

 でも優太朗は「味噌汁で」と言うのだ。最初はお酒を飲まない人なんだろなと思っていたけど、味噌汁を飲み終えるとビールを飲むのだ。


「なんでだろうって思ってたけど、優太朗胃が弱いのね。だから先に温かい汁物を飲んでからビールを飲んでいた」

「あー……そうかもな。無意識だったけど、先に胃を守ってたのかもしれないな。あ、だからか。家でご飯出してくれるとき、最初にいつも味噌汁出してくれてた」

「そう。あれがはじまり」

「……仲が悪くなっても、それはずっとしてくれてたな」

「昆布の汁が胃を守るんですって。だから、どうしても」


 そう呟くと、優太朗は私の頭を引き寄せた。


「してもらって当然だと思ってたこと、きっとたくさんある。ごめん」

「それはね、私も同じなの。私さっきラーメン食べてて気がついたんだけど、うちのラーメンどんぶりってずっと同じやつだったでしょ? お気に入りのお店で買ったオレンジ色の」

「ああ」

「私、あれ何回か割ってるわよね」

「そうだな。遙はおっちょこちょいでなー。二ヶ月に一回くらい皿を割ってたな」

「そう、割ってたの。割ってたのに、ずっとオレンジ色のどんぶりだったわよね。優太朗、私が割るたびに買い直して、同じのを入れていたのね。さっき気がついたわ」

「あれもう店に取り扱いが無くてさ。結構大変だったんだよ」

「え?」

「もう取り扱っていませんって言われてさ、それでも遙はいつもあれを使ってたから藏元を聞いて買いに行ったんだよ、懐かしいな」

「えええ?! 全然知りませんでしたよ」

「遙があれを割った時にすごく落ち込んでたからさ、営業のついでに行った時かな……長野かどっかの山の奥まで車で行ってさ、買ってきたんだよ」

「知りませんでした……」

「なんかそこまでして買ってきたのが恥ずかしくてさ。ストックがあったよって、それだけ言った気がするけど」

「覚えてません……割ったことしか」

「遙はほんと皿を割ったよな。料理が好きだから、それを盛るお皿にもこだわってたけど、一番お金かけたのってお皿じゃないか? なんか二万円くらいする皿も割ったよな……」

「そうですそうです、それは覚えてます。もう本当にショックで!」

「あれは買い直せなかったな……」

「要らないですよ!!」


 私は笑いながら優太朗の腕にしがみついた。

 あの頃は全然気がつかなかった、もしくは口にするのが恥ずかしくて言わなかった優しさ、気遣い。きっとたくさんある。

 わざわざ「作ってあげてたのに」「買ってきてあげてたのに」と言われるとやっぱり押しつけがましい。

 今感謝を伝えても遅くない。でもあのまま別れていたら、何も知らずに捨てていただろう。お皿ももうこんなに要らないから断捨離しようと思っていた。

 もう死んでしまったのだし、お皿は杏樹に捨ててもらうつもりだ。

 それでも何も知らずに捨てるのと、こうして知ってから処分するのは、全然違う。


 話ながら坂道を歩いていると東京タワーの入り口に着いた。

 中にはいると……もう記憶には全くない景色が広がっていた。

 私は値段を見ながら、


「値段は時代で変わりますから高くなるのは分かるんですけど……エレベーターホール……全然違いますね。こんな真っ白ではなかったですよね」

「そうだな。普通のビルみたいなエレベーターだった気がする。ちょっとまて遙……蝋人形館がないぞ」

「そうですよ、それはニュースで見たから知ってます。最近ですよね、無くなったの」


 そう係のお姉さんに聞いたら、2013年には営業を終了していた。

 それを聞いて優太朗が爆笑する。


「10年前じゃないか。全然最近じゃないぞ」

「10年なんて一瞬ですよ、つい昨日です、ねえ? お姉さん」

「そうおっしゃる方が多いですね」

「ねえ? そうよね、私もそう思うわ。10年なんて最近よ」

「あはははは!! 遙だ。遙はいつもこうやって聞いて味方増やすんだよな」


 ここら辺はもう自覚しているが、自分が間違っていると思うと恥ずかしくなって、周りの人に強制的に同意を求めて納得してしまう。それでも閉館したのが2013年だということは知らなかった。ここに来たのは結婚前だから20年以上前……そしてなぜか高校生の姿でここに来ている。

 案内板を見て優太朗が叫ぶ。


「VR? VRってあれか。目にはめて遊ぶゲームか?」


 見ると今は蝋人形館があった所に、VRで遊ぶ大きなゲームセンターのようなものが入っているようだ。

 蝋人形館が突然VRに。時代の変化に頭がついていかない。

 私たちは戸惑いながらチケットを購入して東京タワーに登ることにした。

 優太朗はエレベーターに乗り、再び叫んだ。


「おいおい遙。なんだこの派手な光は。ビカビカしてるな」

「もうちょっと優太朗。お上りさんみたいで恥ずかしいですよ」

「おい遙、お上りさんって言葉はさすがに古く無いか?」

「優太朗がいうアベックよりマシじゃないですか。それより蝋人形館……私思い出したんですけど……タイタニックみたいな船が置いてませんでしたっけ?」

「ちょっとまてよ、記憶の彼方になにかあるな……なんだっけ……なんか地獄みたいな人形が置いてあったことしか覚えてないんだよな……」

「ありましたありました。血が出てたんですよね。そうじゃなくて入り口ですよ」


 私たちが頭を抱えて記憶を無理矢理呼び出そうとしていると、エレベーターガールのお姉さんが私たちの方を見て口を開いた。


「お話の所申し訳ありません。気になってしまったので……。確かに蝋人形館の中には船の設置がございました。先端のみですが」

「ほらねーーー!!」

「あったかーーー!!」


 エレベーターガールのお姉さんに向かってふたりで手を叩いて笑ってしまった。もうしている行動のすべてがおばちゃんとおじちゃんである事は気がついているが、20年前の記憶が正しかったことが証明されて無駄に喜んでしまった。

 確かにあったのだ。まったく蝋人形に関係ない船の先端部分が置いてあって、優太朗と「なんだろう」と言いながらタイタニックのマネをして写真をお互いに撮った。あの頃は折りたたみの携帯電話だった気がするけど……私はわりとデジタルの商品にすぐに興味を持つタイプで、はやめにボーダフォンを購入した気がする。

 そこまで考えてボーダフォンという言葉自体が懐かしくて笑ってしまう。たくさん忘れているけど、たくさん覚えている。

 エレベーターガールと懐かしい話をして、ふたりで展望台に下りた。

 優太朗は手すりを持って遠くを見ながら、


「……全然覚えてないけど、きれいだな」

「本当に。たぶんでも……ここもこんなに綺麗じゃなかった気がします。下りてすぐの所にお土産屋さんがあった気がするけどそれも無いですし」


 そもそも20年前優太朗とデートに来たときはお昼から夕方で、見えている景色も全然違う。

 それでもどこか懐かしくて、手を繋いでゆっくりと景色を見て歩いた。

 そして展望台を歩いている人たちが、手に大きな写真を持っているのが目に入った。

 あれはきっと東京タワー内でやっている写真サービスだ。

 私は優太朗の服を引っ張った。


「覚えてますか? 写真サービス。まだあるみたいですね」

「ああ。遙は嫌がって、撮らせてくれなかったな。俺は撮りたかったのに」

「イヤですよ。いかにも記念写真という感じが好きじゃないんです」

「俺は今も撮りたいけれど……それを残されても瑞樹と結菜は困っちゃうだろうな」

「そうですよ、行ったことがない、記憶もない場所の写真を残されても怖いだけですよ」


 そう考えると、あの写真はあの時しか撮れなかったのだ。

 私は写真そのものがあまり好きでは無かった。杏樹の写真は写真館で毎年撮影していたけれど、私が写っているものは少ない。自分の地味な顔があまり好きではないし、恥ずかしくてイヤだったけれど、撮っても良かったかも知れないと今は思う。残したいのは写真ではない。その時一緒に撮影したという記憶なのだ。その記憶を引き出すために写真本体が必要。そんなこと、あの頃の私は分からなかった。

 そのまま展望台を歩くと、窓の外に美しい夜景が広がっていた。

 東京は星の代わりに地上が輝いている。どこまでも光り輝く道を見ていると、ここを通ればどこにでも行けると思ってしまう。もう二度とどこにも行けないのに。そして走っている車のなか、ひとつひとつに命が乗っていることにも驚く。

 優太朗はお土産ゾーンで立ち止まって口を開いた。


「……遙さ、お店で使ってたエプロンに、いつも伝票入れて持ち歩いてただろ」

「ありましたね」

「それに、なんかマスコットがついたキーホルダーを付けて無かったか?」

「付けてました。お店で働いている人全員が持っていたので、自分のやつがわかりやすいように付けてたんですよ」

「あれさ、キティーちゃんじゃなかった?」

 そう言われて私は手をパンと叩いて頷いた。

「そうでした。キティーちゃんでした。たしかお客さんに金閣寺のお土産で頂いて、長く付けていたから金がハゲて、銀閣寺になっちゃったね……なんて話してたんです」

 それを聞いて優太朗がじとりと私のほうを見た。

「お客さんからのお土産……誰から?」

 これは嫉妬だ。なんだかそんな大昔のことに嫉妬する優太朗が可愛くて手を握り直した。

「修学旅行に行った女の子からですよ。両親に連れられて何度かお店に来ていて、その時に貰ったんです」

「女の子か」

「そうですよ。お店では色んな人に声をかけられましたけど……好きになったのは優太朗だけでしたよ」

「そっか、うん……嬉しい、ありがとう。いやさ、俺、遙のポケットから出てるキーホルダーにご当地キティーちゃんが着いてるの見て、ああそういうのがあるんだ……と思って買い始めたんだよな」


 私は思わず立ち止まる。


「……ひょっとしてあの旅行にいくたびに買っていた耳かき、ですか?」

「そうそう。遙が持ってたの見て、買い始めたんだ。もう最後のほうは習慣だったな。旅行先に行ったら買っていた」


 心臓がギュッと握り潰されて息が苦しくなった。

 私は優太朗の手をぶんぶんと振って離す。

 優太朗は私の表情がくしゃくしゃに崩れ落ちたのを見て心配になり、小さくなって顔をのぞき込んできた。


「……どうした?」

「捨ててしまいました。あなたと言えばそれだったから。あなたは旅行に行けばいつもご当地キャラがついている耳かきを買っていて、それが私の幸せの象徴だったから。それを見るのが辛くて、いやで、離婚届を出す直前に、すべて黒いゴミ袋に入れて捨ててしまいました。そんなこと、知らなかったんです」


 あの時のことをよく覚えている。

 どの耳かきにも思い出がありすぎて、それでもだからこそ捨てたくて、ただの黒いゴミ袋にした。

 そうしてしまえば捨てられる。そう思って全て入れて、捨てた。

 私がポケットに入れていた金閣寺のキティーちゃんから始まっていたなんて……知らなかった。

 優太朗は私を抱き寄せて、ゆっくりとベンチに座った。

 そしてポケットからティッシュを出して、私の目元を優しく拭いた。


「置いて家を出た俺が悪い。あれは俺が好きで買っていた、俺の思い出だ」

「だからそれを捨ててしまったと言ってるんです!!」

「当たり前じゃないか。最後の10年、君は俺を嫌っていた。何度だっていう、当然だよ。俺は母さんがおかしいことなんて分かってたのに、ずっと母さんを愛してくれている遙に甘えて、何もせずただ生きてきたんだ。俺だって母さんとふたりになったらキツいのに、全部分かって逃げていた。俺もつらい。遙もつらい。それでいいと思って。ダメだ、俺の母親だったのに。ダメだったんよ、遙。もっと早く病院に入れるべきだったんだ。愛してたから手放さないとダメだったんだ。それを俺が決断すべきだったんだ。遙が言い出すのを待っていた俺が悪い。だから俺の過去をすべて捨てた遙は、全く間違ってないんだよ。あんなの俺でも捨てるさ」

「……優太朗」

「俺が悪い。本当に。遙に恨まれても、母さんに恨まれても、杏樹に恨まれても、病院にいれるべきだった。プロに任せるべきだったんだ」

「……今はそう思います。でもあの時優太朗がそれをしたら、離婚してました」

「な? もうどうしよもないよ。ただ離婚の時にすべて捨てたのはなにひとつ間違ってない。だから泣くな。今こうしてその話をしていられる。謝れる。それだけで嬉しい」


 そう言われても、やっぱりダメで、私は泣き続けた。

 どこかずっと、心の奥に残っていたんだ。捨てていいのか、本当に? きっとこれも知ってしまったからの後悔。

 それでも知らなくて良かったとは思わない。私と優太朗は、お土産屋で東京タワーにキティーちゃんが着いているキーホルダーを購入した。

 私はそれを鞄にいれて、


「……火葬するときに一緒に燃やしてもらいましょう」

「火葬する時ってプラスティックいけるのかな?」

「ある程度は大丈夫だったはずですよ。あ、それもノートに書いておきましょう。もうリアルタイム遺書ですよ。自分の葬式の指示を今書いている」

「あれだな。近所にあった小さい斎場でいいよな。公園の近くにあった」

「ああ、市民斎場。あれで充分ですね。もうふたりで質素に焼いてもらいましょう、パッパと簡単に」


 こんなことを話ながら東京タワーを歩いている高校生などいない。

 でもそれが今私たちに必要で、最も心が安らぐことだった。

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