第2話 1日目 12時15分 目覚めと現実と愛娘

 息。

 空気を身体の真ん中に送り込むように吸い込んで、遠くへ細く吐き出す。

 できる。

 いつもこれをすると胃が握り潰されるように痛んだけれど、今は胃の位置も分からない。

 次に手を見る。

 そこにはどれだけクリームを塗り込んでも藁半紙のようにカサカサしていた皺だらけの手はない。そこにあるのはすらりと細い指。

 そして胸の上に乗って見える長い髪は金色に染められていた。金髪。本当に若い子なのね。

 肘を持ち上げも身体に痛みはない……手を動かして指で顔に触れると、むきたての卵のようにつやりとしていた。

 私は横で身体を小さくして子どものように震えて泣いている……きっとお父さんね。それでも私より若い人に声をかけることにした。

 唾を飲み込み、ぼんやりした頭を動かすように言葉を吐く。


「すいません、顔をみたいんですけど、いいですか?」

「結菜。大丈夫だぞ、身体は大丈夫だからな。衝撃で吹っ飛ばされて自転車で転んで頭を強打したんだ。瑞樹みずきくんが守ってくれたからお前、その程度で済んだんだ。ああ良かった、結菜目覚めて良かった、本当に良かった」

「すいません、顔を見せてもらっても……」

「ああ、すまん。鏡なんて無いな。あ、スマホでどうだ。カメラにすれば見られる、スマホスマホ、あった」

 

 涙で顔をぐちゃぐちゃにしていたお父さんは私に自分のスマホを渡してくれた。

 カメラの自撮りモードにして写した『仮に入った』女の子の顔……最後に飛び込んできてくれた子だと分かる。

 卵型の顔に金色の長い髪の毛。真っ黒でくりくりとした目に、長いまつげ。まっすぐに通った鼻筋にポテリとした唇。

 とても可愛い女の子。すべてを押しつぶすような事故の瞬間に、私を助けるために飛び込んできてくれた子に間違いなかった。

 本当に女の子の身体に入ったということは、この子は死んでいないという木彫りの人形の言葉を信じるしか無い。

 この子が死ななくて良かった。この子の魂は戻ってくる。だから私はこの身体を守らなければならない。

 私はスマホを太ももの上に置きお父さんのほうを見た。


「他に身体に異常は……?」

「肩の打撲と擦り傷だけだ。それなのに七日間目覚めなくて、ひょっとしてもうこのまま起きないんじゃないかって……」

「七日間……」


 事故に遭ってから木彫りの人形と話している間に七日も経っていたの?

 もしかして今日が最終日なのかとぞくりとするが木彫りの人形が『目覚めてから七日間』と言っていたのを思い出す。

 今日が初日。スマホをもう一度立ち上げて時間を見ると月曜日で昼の12時だと分かった。今日がもう12時間終わっている。

 そんなことを思う自分に少し笑ってしまう。今までそんな風に一日を考えたことはなかった。

 とりあえず借りている身体は『結菜ゆな』という名前のようだ。

 でも、そんなことを受け入れろと言われても……。心の真ん中に複雑な感情が入り乱れる。

 ここに居るのに居ないような、居場所があるのに、心の置き場が見当たらず、泣きたくなる。

 とにかく今は、誰より嫌いで二度と会いたくなかった優太朗に会いたい。今この状態を分かっているのは優太朗と私だけだ。

 同じように事故に遭い、高校生の身体に入れられたなら状況は同じはず。


「あのすいません、一緒に運ばれてきた……」

「姉ちゃん、瑞樹みずきも起きたって! もう歩いてこっちに……!!」


 両手に買い物袋を持った状態で部屋に飛び込んできた男の子の後ろに若い男の子が見えた。

 肌は褐色でよく日に焼けていて、黒い髪の毛は短く切られていてツンツンと立っている。身長はかなり高くしっかりとした体つき。顔に大きな絆創膏のようなものを貼っていて……でも私の目を見た瞬間に顔をくしゃくしゃと崩して目の横に皺を入れた。

 この表情を。この人を私は知っている。こういう風に私を見る人を、この顔じゃないのに、この表情をする人を知っている。


「優太朗っ……!!」


 私はベッドから立ち上がろうとして転がり落ちた。同時に腕に繋がっていた点滴がひっくり返ってアラームが鳴り響く。

 慌ててお父さんや男の子が私を助けようとするけれど、それより優太朗。ねえちょっとまって、この状態、あなたとしかわかり合えない。

 本当に? すべて本当なの?

 手を伸ばすと全てをかき分けて間違いなく正しく、優太朗が私を抱き寄せて、背中を撫でた。そして呼吸を入れるように優しく触れる。

 とん、とん、とん。最後に長く触れさせて、とん。

 優太朗は私を落ち着かせたい時にこうしていたのを記憶の彼方で思い出す。


「遙。良かった。本当に……ちょっと落ち着こう。どうやら現実のようだ。違う、遙って呼んだらだめだな、えっと……君は……」

「結菜って名前みたい。あなたは……」

「瑞樹らしい。慣れないけど頭がおかしいと思われるよりマシだ。俺は瑞樹。お前は結菜な」

「ああ、なんてこと……なんてことなの……本当にあなたが優太朗なら、すべてが本当じゃない……良かったわ、良く無い、どうしよう……ねえ優太朗……、ほんとうにわけが分からないわ、死んだの? 私たち本当に死んでしまったの? 死んでこんなことになったの……?」


 頭がおかしいと思われてもいい、何でも良い。ただ何もかもが分からなくて、でも生きていて。ということは私が死んだというのは事実でそれが悲しくて、ただ泣いた。

 お父さんも、男の子……どうやら弟のようだ……も、瑞樹の家族も、私たちが混乱していると勘違いして静かに見守ってくれた。

 死んでしまった。それでも生きていて、死んでしまった。

 始まったのはただの死へのカウントダウン。

 泣いて泣いて落ち着いた頃、優太朗……ではない『瑞樹』が私の手を握った。

 瑞樹は言葉を言おうと口を開くが、そのたびに表情が、くしゃり、くしゃりと崩れてしまう。


「……俺たちが、守ろうと、した夫婦、は、なんとか、命を保っている、ら、しい」


 その言葉に心臓がギュギュギュギュっと握り潰されて、呻くように悲鳴をあげる。

 それは私たちだ。もうあと七日で消える私たちの身体。

 見たら気が狂ってしまうかもしれないと思いつつ、この現実を受け入れることも出来なくて、車椅子に乗り『私たち』の所に行きたいと懇願した。

 姿を見るのはショックが大きいとお父さんは反対したが、自分たちが何をしたか実感したいからと頼み込んだ。

 見なければ七日間を、結菜として生きられる気がしない。この現実を現実として受け入れる決意のために集中治療室へ向かった。

 全く知らなかったけれど、人間の身体は一週間動かなかっただけで筋力が弱り、すぐに動けなくなるらしい。実際普通にベッドから下りようとしたら力が入らず床に座り込んだ。重力と自分の身体の重さに耐えられない。でも瑞樹は運動をしていた人のようで基礎体力があり、起きたあとすぐに歩くことが出来たようだ。

 私は車椅子に乗せてもらい、ゆっくりと集中治療室が見える場所に行った。

 そこは大きなガラス張りの部屋で、中にいる人たちは常に忙しく動き回っているように見えた。

 一番奥だと言われて瑞樹に助けられ、なんとか立ち上がる。足に力が入らないが腰や膝、関節はなんとか分かる。そこを意識すると立てた。

 言われたほうを見ると、そこには全身を包帯で巻かれた人間らしき物体がふたつ横たわっていた。管とマシンと点滴に囲まれたふたつの何か。

 人間だと言われても分からないほど、包帯に包まれた何か。

 私はすぐに車椅子に座り込んだ。あれが私と優太朗だなんて。

 一瞬であの事故の瞬間を思い出す。身体の中がすべて飛び出してしまったような気持ち悪さと、上から下から、すべての角度から圧迫された感覚。

 そしてギターの弦を無残に引きちぎったような雑音が耳に響いた。

 あれが、死。

 思い出すだけで怖くて身体全体が震え出す。

 溢れる涙をそのままにしていたら、横から声をかけられた。

 

「すいません……両親を助けようとしてくれた方が目覚めたと聞いて来ました」

杏樹あんじゅ!!」


 何度も名前を呼んで叫んで立ち上がりしがみつく。杏樹、私の娘。杏樹、そんな……!! ああ、杏樹。

 身体から水分が抜けてしまっているように細い、ご飯を食べているの? 顔を見せて? ああ、目が真っ赤で腫れている。髪の毛も乱れて、服に血がついている。

 はやく着替えて私は大丈夫だから……と言いたくて両肩を掴んで顔を見たら、完全に戸惑っていた。

 瑞樹がゆっくりと私を引き剥がす。でも私の肩を掴んだその大きな手は震えている。そうだ、優太朗だって杏樹に飛びつきたいのに、我慢している。

 私は私自身を、とても冷静な人間だと思って生きてきた。でもこの状況はどうだろう。目の前のことに飛びつき、ただ泣いて騒ぐだけ。

 細かいことにうるさくてめんどくさいと思っていた優太朗こそが、冷静に判断している。だめよ、だめ、落ち着いて。

 私は優太朗……瑞樹に向かって手を伸ばした。


「瑞樹、抱きしめて。だめだわ」

「……分かった」


 瑞樹は私を抱き寄せて立ってくれた。大きな身体が私を包んで、その体温で現実が見えてくる。

 私たちは、私たちじゃない。今、高校生の姿で杏樹の前に立っている。

 本当ならもう死んでいるのに、こうして話せるだけで幸運なことだと自分に言い聞かせて、瑞樹にしがみついて言葉を吐く。


「……ご、ご両親は……」

「息をしているのが不思議な状態らしいです。理論上はあり得ないと言われています。いついってもおかしくない。そう先生は言っていました」


 木彫りの人形は魂の破片を入れて生命だけ維持すると言っていた。本当にただ高校生の魂が戻るまで仮の状態なのだろう。

 何もかも分からない状況で、私はただひとつ確かな瑞樹の手を握った。杏樹は続ける。


「……両親をこんな目に遭わせてた運転手を許さない。私は今、それだけを強く思いここに立っています。でもふたりには感謝を伝えたくて。お別れをいう時間を下さったのはおふたりです。正直さっきまでただぼんやりしてたんですけど……助けてくれたおふたりが意識を取り戻したのを見て、少し元気になりました。泣いてる場合じゃない。責任を取らせます。そしてふたりにちゃんと報告できるようにしないと、報われないですね」

「っ……そうね、そう、かも、しれないわね。でもね、きっとね、ご両親はあなたのことを心配してる。ちゃんと寝てね、一週間心配で眠れなかったでしょう。ご飯も食べて。なんでもいいわ。すぐに食べると胃が痛くなるものね。甘い物……冷凍庫に焼き芋が入ってるわ……違う、そうじゃない。でもね、そういうカロリーがあるものを食べてちゃんと……まずは、生きて……それから……だと思う、そんなのは全部あとでいいから、生きて……ただ生きて……お願いだから休んで……もういいのよ……」


 伝えたい言葉と、この身体で伝えるのは間違っている言葉が入り乱れて、ボロボロとこぼれ落ちて全部涙になる。

 また要らないことを言っている。だって家の冷凍庫には私が常に焼き芋を入れていたから。

 杏樹は食が細くてすぐに食べなくなる。私たちが離婚を決めてからはずっと元気がなかった。だからお願い、もういいから、生きて。

 もう死んだの、死んだのよと言いたい言葉を涙と一緒に嗚咽と共に吐き出す。

 杏樹は私の言葉を黙って聞いてポロポロと子どものように涙を落とした。そして涙を拭いて私を見て、ぶん、と大きく頭を下げた。


「高校生にそんな心配してもらうほど酷い状態だって分かりました。私23なのに恥ずかしい。ありがとう、本当に」


 そう言って杏樹は頭を下げて再び集中治療室に入っていった。

 追いかけたい。追いかけて横に座って、もう気にしないで私たちはあと七日で死ぬから、私はこっちにいるから、そこは抜け殻だから、はやく家に帰って眠りなさいと言いたい気持ちをぐっと我慢して瑞樹に抱きついた。

 私たちは死んだ。そして今、ここにいる。どうしようもなく自覚できた。

 こうして最後に娘と話せたことが幸せだったのだと思うしかない。あれほど憔悴している杏樹を更に混乱させて何になる?

 なにより私たちの姿を見る方が、きっと杏樹は辛い。気も使ってしまうだろう……そういう子だ。

 私たちは泣きながらその場を離れた。

 これは現実だ。高校生の身体で七日間だけ生きて、魂が戻るのを待ち、そしてあのボロボロの身体に戻り共に死ぬ。




 結菜と瑞樹は、衝撃で飛ばされて自転車で派手に転倒、頭部を打撲した状態だった。事故から72時間以上経過しているため、CTのみ撮り問題なく帰宅が許された。

 私は検査を受けながら、ここで本当のことを言って頭がおかしいということになり、このまま病院にいて杏樹の所に行きたい……そう思っていた。

 でも頭がおかしい人と思われたら、それこそ杏樹の所にいけなくなると思い至り、黙った。

 それに私は今、仮とはいえ結菜の人生を生きている。

 外から見たら私はただの結菜だ。

 その人生をこれ以上乱す行為は許されない。借りている身体、借りている人生と時間だ。

 なにひとつ変えず、七日後に返すこと。それが助けようとしてくれた結菜に私が唯一できることだ。

 筋肉が弱り、無理をするとすぐに疲れるが問題なく動けて、車椅子なしで家に帰ることになった。


 病院から出ると少し冷たい風が金色の髪を揺らして、長い髪の毛が頬にザワリと触れた。

 私はその髪の毛を戻しながら首を振った。

 外の空気が弁護士事務所に行った頃と同じで、それほど時間が経過していない……何より本当に同じ世界なのだと思い知らされたからだ。

 ここまできてもまだどこか夢だと思っていて、外に出た瞬間にシャボン玉のようにパチンと割れて、弁護士事務所の相談室に戻るのではないかと思っていた。

 はい元通り。それを期待していたけれど、どうやらこれは現実のようだ。

 仕方なく車に乗り込み景色を確認しつつ、ここがどこなのか知ることにする。

 東京で事故にあったのだから、同じ東京だろう。窓の外に駅が見えて、一度も来たことがない場所だと分かった。

 そして後ろを走る瑞樹が乗っている車も、同じ道を走り、同じ駐車場に入ったから、同じマンションに住んでいると知れて安堵した。

 この状況で瑞樹と引き剥がされるのはあまりにつらい。

 七日間結菜を保つためには瑞樹が近くにいないと不可能だと現時点で私は気がついていた。

 私はさっきから余計なことばかり口にしてしまう。杏樹の名前をどうして知っていたのだと言われたら、何も言えない。状況が特殊すぎて誰も突っ込んでこなかったけれど、間違いなく変だ。それに杏樹に冷凍庫にある焼き芋を食べろなんていつものように言ってしまった。何もわかっていない。

 私は車の中で両頬をパチンと叩いた。耳に冷たい音と痛みが広がる。

 離婚直前の冷静な私に戻るべきだ。落ち着いて。


 駐車場から部屋に入り、ゆっくり休みなさいと言われたけれど、どうしても瑞樹と話したいと駄々をこねて、私の部屋にふたりで入れてもらうことにした。

 まずは状況を確認したい。ふたりで部屋に入り、落ちついて話すことにした。

 


 

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